2014年12月03日

【うた詠み】生き死に修行の歎

1-1)記稿.2014/12/03

> うた詠みはじめます。よろしくお願いします。

|俺の風、明日(あした)にゃわかる生き死にの月を見るのか日を見るのか
|蚊に刺され蚊すら払えぬ未熟ゆえ‥もはやこれまですっぽかそう
|噂に上った吾が恥の広まりし、己が技の未熟より厚かましきかな
|泣いても笑っても、まぁ生きている‥それ以上のよろこびにまさる事なし
|死にそうなぐらいの腹ぺこも、所詮は生き死に、生かしてもらうのだ
|「‥生かしてもらうのだ」と許しを請うほどに、其から外れる思いこそ隙なり
|凛として真っ直ぐもまた隙なり、保とうと願うばかりなら敗れり
|敗れり敗れりまた敗れり、倦んでこそ破るるものなり
|理由や都合だけで破らんと欲するに非ず、積もり積もって穿つるものなり
|穿つるものなる事の長き‥思い振り返りしも、まだまだ明け六つにて候
|候手心を加えても一生、かなぐり捨てても一生、石橋を叩いても一生

|一生に一度は咲かせたき人の風、お互い様を踏み外して立つるのが自由競争

|競争や背中に背負いし未来とは、己の生き死にそれ以上でもそれ以下でもなし
|無い無い尽くしの世の中に、己の居場所など始めから有らぬが道理‥
|理不尽も生き死に、納得も生き死に、居場所とはいただき方なり
|理屈をこねても不届き、黙すればますます闇‥「他を直そうとするべからず、己から正せ」
|正そうと見つめる先は前のみで、全体見ずんば道を得ず
|道を得られずに進む者には師を、道を抱いて進む者には詩を
|詩を重ねつ見つめる距離と足元ぞ、ちっとも変わらぬ‥路無きて荒宙(そら)
|荒宙を前に挑んでも、路は吾が前に成らず、吾が後に残るのみ
|未熟とは、誰かの牽いた路上にて「俺が」「俺も」を刻まんとばかりの馬鹿騒ぎなり
|利己を解き放ちて内に鎮めんとする反復、是を修行と言いけり

> うた詠み終わります。ありがとうございました。



1-1)1

> 「バガボンド」を読んでいたら、ふらっとぶつぶつと詠みはじめましたとさ。


 思えばガキの頃、「おれは鉄平」に感化されて剣道に興味が湧いていたのだが‥
 当時はまだまだ防具は高価な道具で許可が降りず、
 気がつけば、高校一年の副担は剣道の顧問で、しかも無刀流を口にしていたっけな。

 ‥なにかの時に剣道部の部室だったか‥訪れることになった機会があったのだが

 あまりの防具の汗臭さに猛烈な拒絶感を感じてしまったのを覚えている。
 やりたい事はやりたい時に始めるのがベストだと言うことを思い知った。
 免疫を得るべきその時期を外したなら、まず諦めろってことのようだ。


 ‥今から思えば、

 中学の時に剣道を囓っていれば、随分と早い段階で
 詩作に目覚めていたかも知れないとの魂的セットを感じざるを得ない。

 強くなるためにはどうしたら良いかをフル回転で考えただろうし
 それは結局、すでに歴史的に行き着いていたのだから
 嫌でも知る次第だったわけである。


> 昔の人の達観は、生き死にから入っていたと言い切れることだ。


 そしてそれは、競争では無い。殺すことでは無い。奪うことでは無い。
 お互いを生かすことへの深い苦悶から生じた完成形だった。

 資本経済で稼いでのほほんと出来るかのような錯誤は、始めから誤りだったのだ。
 武を野蛮と見るべきか、それとも神秘と見るべきか‥
 現代人の日常は、否、科学観は戦争経済に冒され、余りにも死生観から逸脱しすぎたのだ。

 ‥そのような昔の習わしは、頭から無用だと。


 守るべき事の何たるかを、資本競争だからとの言い訳で以て、
 しょうがないを唱えても病的にしか見えないだけである。

 「何のための競争だったのだ‥」

 それこそが公平の在り方だと思い込んだ所に
 生き死にの何たるかを知らぬ者たちの安易さが積み上がったばかりである。

 「見よ、日本と世界とのそこの違いを!」

 生き死にの考えに到達観を得た民族と、得ず民族との歴史的差が生じているとしか見えまいて‥
posted by 木田舎滝ゆる里 at 11:28 | Comment(0) | | 更新情報をチェックする
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