2014年12月08日

【うた詠み】死生観

1-2)記稿.2014/12/08

> うた詠みはじめます。よろしくお願いします。

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|未熟たるあるがままを受け入れて立つ
|立つほどに見えし、未熟と未熟との凌ぎ合い
|相まみえ研鑽を積むも、独り籠もるも、同じ
|同じなり‥迷いの中の凌ぎ合い、一本取ろうと足掻くのみ


|未熟ゆえに今が在る、未熟ゆえに今を生きる
|生きて尚、足らざるを知ろうとする者のみ先を開く
|開かずば進めず、開けども開けども未熟
|熟することなどあろうか‥未熟けり吾を顧みるのみ


|未熟とは、達するを望み安泰を望み肩荷下ろさんとの望み
|望みゆえにぞ進めず、望みゆえにぞ在らず
|非ずと勢いて生き死にを彷徨い、ついに捨つるは利己の望み
|見事なり、礼を以て尽さんとして相まみえ、潔くして立つ

> うた詠み終わります。ありがとうございました。



1-2)1

 どう考えても日本人の死生観とは、完成していて一巡していよう。
 ‥それ以上でもなし。それ以下でもなし。


> されど、閉塞感を感じてしまっているのが現代人なのだろう‥


 「何故に閉塞感を抱くのか?」
 ‥その渇きの因果こそ、諸外国との迎合と言うことになろうか。

 ワンランク下との迎合、否否、過ぎ去った過去との対峙と反芻か‥(やれやれ)

 日本の中にその程度の二分化を持ち込もうとすること自体がそもそもの間違いである。
 議会制民主主義などと言う在り方は所詮、小さい枠での言い合いを論じているだけだ。
 日本が論ずるべき相手は、世界であり、世界と相まみえんとの弁である。


 すでに学んでしまった民族が、
 学ばない振りをした日本の内輪での二分した釣り合いなど、始めから無意味である。

 小沢一郎とは、そこの洞察の改札口と言えるだろうか。
 日本の中に‥どこぞと似たような二分した議会制民主主義を掲げようとしているのか
 それとも、世界に対して対抗主張としての一党を築かんとしているのか


 当人にそこの大局観のあるなしが、

 日本の民衆を味方にしているのか、それとも‥
 闇から操らんと目論む勢力に迎合しているのかの解釈勘違いの差と言えようか

 日本民族の圧倒的一党を望まんとする性格は、どう転んでもそこでしかない。

 常に急ごしらえの野党連合なんぞ、コシは成ってようとも薄っぺらいスープの即席麺の如しである。
 ‥世界に競争迎合するためだけにしかあれぬ勢力なんぞ、改めて作ろうとしても無意味。


 主張すべきは、自らを未熟として受け入れずままを進む世界に対してであるべきである。
 ‥日本民族としての内輪同士の主張に、大きく差があるわけでもなかろうて。
 (常に薄っぺらい二股作戦の当人が一番によく知っていよう)



1-2)2

 今や先んじた民族までが、調子こいて同じになろうとしておる。
 競争競争と、まるでゲームの如しだ。
 上を行く者らがその程度では、先は望めようも無きこと。


> そんなにも‥世界にふざけたままに残りし格差の助長に迎合したいのか?


 今や小沢一郎の支持のしおしおとは、外面がそれへの迎合にしか見えぬ所にあろうか。
 そのようでは、国民の協調を得られることなし。
 ‥一国家内だけの論調にしかあれぬ生活展望に、どうして期待なんぞ出来ようか。

 「競争が格差を招くのだ、世界とのそこをどうする気でおるのか?」
 「汝自身の売りとは何ぞ?」

 そこの立体感がまるで言葉に浮かび出ていないではないか!
 今や国内にしか名が知れていないという次第でどうして戦えるというのか?
 ‥そうで無いというのなら、自分の本当の売りをさらすべきであろう。


 「それとも、応援団の宣伝はハッタリなんかいのう‥」
 「ハッタリだったなら如何ともしがたいのう‥それこそ過去の人じゃ」
posted by 木田舎滝ゆる里 at 12:03 | Comment(0) | | 更新情報をチェックする
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