2015年01月11日

【命題】日本国憲法第二十九条の解釈

1-4)記稿.2015/01/11

 銀行券(証文)の発行には、裏付けとして担保が欠かせない仕組みにある。 
 なぜなら、担保こそが人質であって金貸しの利益を生むからだ。
 国債であろうと個人への貸付であろうと同じである。

 「なぜ、そのような商売が成立してきたのだろうか?」

 それこそが証文のカラクリであった。
 証文とは、金貸しの財産である。
 証文を財産としてきっちり定義する必要があった。


 日本国憲法第二十九条
 財産権は、これを侵してはならない。
 財産権の内容は、公共の福祉に適合するように、法律でこれを定める。
 私有財産は、正当な補償の下に、これを公共のために用いることができる。
 


> ‥まるで、ユダ金業の財産を指して語っているかのようでもある。 


 ユダ金業の権利は、これを侵してはならない。
 ユダ金業への利払いの内容は、政府官僚の利益に適合するように、日銀法でこれを定める。
 ユダ金業の権利は、要求した担保の下に、これを政府官僚の利益のために用いることができる。


 憲法本文は、財産権の対象を一切触れずに据え置いている点がとても巧妙だ。
 財産を保障するかどうかにしても、公共の都合=政府官僚の利益であると言わんばかりだ。

 中核に位置する組織性の維持を最優先する。それはいつの世も政府官僚のやり口であった。

 ‥だからだろう、銀行を潰さないためと言っては税金を投入し、
 「国民預金と国債の帳消し論」も、さぞ当たり前のようにメディアに出回っている‥


> しかしである。


 そこには誰がという定義は無いものの、公共の福祉に適合と記される。

 憲法二十九条に書かれたその言葉の意と照らしてみても、
 国民預金と国債の帳消し論は、違憲にも絡んでくる単なる思い込みであり、
 恐怖と無知を煽るばかりの脅し文句にすぎない。
 聴く方も語る方も未熟であり、集団的詐欺催眠状態にあるとしか言えないのだ。

 ‥帳消しにするにしても、福祉としての実が釣り合わなければ違憲となるのだ。
 そこに、すり替えの限度が横たわろうか‥



1-4)1

 銀行や金融がどんなに糞でも宝でも、 
 担保の価値を如何にして扱うかは業務の裁量である。
 裁量とは、自己責任が付きまとうと言うことである。


> ‥ユダ金が「あんたのパンツには一億円の価値がある」と言えば、
> 一億円が信用創造されて来たのである。


 それを創造して貸し付けたからには責任を取らなくてはならない。
 つまり債券(証文)の消却提案である。

 消却とはつまり、金貸しの売上の想定をゼロに戻すことを意味する。
 (借り手はパンツを差し上げるということである)
 (貸し手が「結構です」と言えば、担保を返却しても良い場合もあるということである)

 ‥お互いに消却をしないで良いわ良いわでいると
 償却された債券もまぜこぜのままに浮遊を続けることになる。
 どこかで事細かに整理を求めて、実行することは欠かせないことである。


> しかしそれをしないで来たのは


 ‥増税のお題目を掲げたいからであった。
 戦争を始めさせる上での理由付けにも使う予定であった。
 それこそ、陰謀の山だらけである。



1-4)2

> ‥今や、買い手が付かないほどの市場規模に膨れあがった金融は


 自分たち仲間内で造り出した債券をババ抜きし合うだけのゲームとなり
 財産価値の過ぎた古びた証文をまぜこぜに、行き詰まっている。

 ‥本当の金融市場の大きさなど
 古びた債券を間引けば、ほんの一握りでしかない。
 なのに消却しないから、

 ‥ユダ金の支配と繁盛にしても、屑債券を買い支えるのに手一杯にある。
 自転車操業のそれらは、どこに自己資本が存在するのかさえ判りにくい。


 何を自己資本として承認するかまでもが、国際金融資本ではルールになる。
 お互いの貸し借りを検証すれば、企業利益の多くはゼロサムゲームで消えるばかりである。
 消却は企業の自己資本の取り消しと同義である。
 それでは誰もゲームに参加してくれないので、巧妙に整えられているのだ。

 ‥すべてが、ユダ金のルールに従うように整えられて来たと言うことである。

 彼の者たちは、自らまともに万民理解と共生の基盤を持たずとも、
 発行権と契約の論を盾に意気揚揚として支配者を気取ってきた。



1-4)3

|この世で一番のくれくれ野郎とは、1%の金融である。
|インチキも転がさざるを得ず辻褄の挙げ句の果てのお縄かな。


 ‥そうだ
 転がすことを止めると途端に嘘がバレることになる。
 債券を誰かに売りつけて、「ここでお終いにしましょう」と言ったが途端に、株券など誰も買うまい。
 自分だけ現金化して後はとんずら、主催側がそのようで、誰が信用できるのだ。


> 主催側が常に賭け金を場に乗せるのは当然だ。
> 主催側が常に賭け金を場に乗せられるのは、当然のインチキである。


 金融のパイが膨らんで見えている現象は、
 利益を求めて、賭博場が過剰に開かれているに過ぎない。(インチキ中毒の蔓延である)


 ‥生活の多様化というのなら
 その分だけ生活経済が拡大して行かなければおかしい。
 それはまた、利益の一極化が成り立つことなど有り得ぬこと。
 一極化しているようにしか見えないのなら、嘘があるばかりである。

 証券銘柄を増やすにしても‥

 まずは前段階の仕込みとして、貸したとする事実が求められる。
 それは主催側が、信用創造と計画投資から用意せざるを得ないのだ。

 組織外から買って貰えなくなると、途端に仲間内のゲームにしか成らない。
 ‥組織外とは、つまり人口ピラミッドの中堅所得層のことである。



1-4)4

 ‥投資への保証を口にしても、淘汰される側への保証など始めから眼中に無い。
 資本経済の拡大は、参加を余儀なくされた人口が増大しただけである。
 誰かが儲かるように見えても、社会全体としては、ゼロサムゲームでしかないのだ。


 そんな博打を生活経済に持ち込まないでもらいたい。
 そんな博打を以て、人々に幻想を抱かせないでもらいたい。


 (博打のロマンスは認めてやるにしても、外でやってくれ)
 (組織の都合の良いようにだけ投資が進む現状も、断固お断りする)
posted by 木田舎滝ゆる里 at 22:40 | Comment(0) | 命題 | 更新情報をチェックする
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