記稿.2015/01/14
お金の歴史の裏には、支配者の都合があった。
支配者からの影響の多くは、私たちの暮らしの中に依然として溶け込んでいる。
科学を礎にせんとした現代社会とて、今を生きる私たちの総意のみで成り立っているわけではない。
歴史への尊崇の念を見失っては、民族の精神は受け継がれぬところと成り得、
改革されるべき改革を怠っては、民主主義などただの名ばかりにしか成らん。
ゆえに統治者とは、民族の歴史を背負う責任に座する立場にあることを自覚すべきである。
されど、民族の歴史を背負う姿勢に於いて、
どのような憲法も、そこを定義することをして来ては居ないのである。
なぜなら、支配者が暗躍して来たからだ。
支配者に定義など必要あるまい。好き勝手しているのが相場と認知されている。
彼の者らが必要とする言葉は、権限の所在だけである。
しかし、統治者は異なろう。正義、誠実、才覚が常に問われるのだ。
其の曖昧を、具体的な言葉で書き下すことは、とても重要なことである。
つまり、
まともな統治者とは、言葉にて生き続けるものであり、
それは、まともな民衆の手によって残され続けるものである。
どうあるべきかを問うまでの必要を民主主義というのなら
その先にあるべきは、民立布悦【みんりゅうふえつ】であり、
そこには、まともな言葉を受け継ぐ精神を宿した人民が居るばかりであろうか‥
世の中の混乱の多くが、お金を因にもたらされているというのなら
私たちは、このお金についてキチンと書き表す必要がある。
資本主義を、誰もが狡猾なやり方、不公平なだけの道具と思っているのなら、
そこに正義なく誠実なく才覚なく、命の布悦など成り立たぬ愚行であるとして
見切りを付けるべきことである。
ならば、ここに記さん公平と健全たる布悦のお金の在り方を‥
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