2015年01月25日

【詩】厭競主義

1-2)記稿.2015/01/25

 反戦主義とは言うが、厭戦主義とは言わないそうだ
 厭戦【えんせん】とは、厭戦気分のように気分の扱いにしかならないそうだ
 ならば、反競気分では生煮えだから、厭競主義とは言えそうである

 俺の中にある異常なまでの厭競【えんきょう】の精神をそう表現できるだろうか


 ‥俺は、厭競主義者である。
 競争が前提でしかあれていない社会に対して断固反意を示す、憎悪を露わにせん

 資本主義社会に於いて競争しない由を己に宣誓していると言うことは、
 実生活面に於いて、まともに活動する手段を持たぬ体質にあると言うことだ
 実際に‥其を徹底することは、生きていく上でとても奇妙としか言いようがない


 ‥奇妙と言えば奇妙である
 人生に目標など湧いてこず、そのきっかけとなる付き合いや出会いを得ることもなく
 ただただ、毎日が厭生【えんしょう】に過ぎゆくのだ


 とにかく現代社会の在り方・取り組み・表現・不公平のすべてが気にくわなかった


 それぞれに難癖を付けては拒絶し、繋がることのない繋がりに気がついた頃には負け組だった
 そこに道があったのだ、たしかにそこに道が伸びていた

 その道を歩いて行く上でも、
 まわりのいろいろとしたうらやましきを絶つ上でも、
 厭競の精神は、俺の中で異常なレベルで必要だった


 ‥ただ単に競争が嫌いなんかではない
 競争に意味が無いからこそ、そこに参画している怠惰な社会状態を
 徹底的に憎む程の集中が求められていた

 どっちが怠惰とか、そんな言い合いをする気は無い

 皆が勤勉だけであっても、地球を壊しかねないほどの勤勉なんか糞の役にも立たぬのだ
 そうだ、ただ憎たらしいだけの感情などなかった
 ‥真面目であることに異を唱えるだけの論など持ち合わせてはいない

 原因を論破して正しき方向を指し示せる程の知恵には、ほど遠かったのだ

 そうだ、世の中が勝手に反転していたなら、俺はただの馬鹿たり得ただけだったろう
 社会がスッと世直る程だったなら、素直に俺の厭競はただの偏屈の負で終わったはずである
 そこに何の執着もない、あるのは太々しさだけだったことになる


 ‥しかし、世の中はそうには成らない事情を抱えていた


 なんにせよ、俺の厭競ゆえの太々しさと釣り合わないからだ
 ‥釣り合わない代物が、どうして居座るばかりに続くだろうか

 「俺が解放されていないのに、どうして世の中の方が勝手に解放されようか?」

 俺ばかりではない、誰しもの中にそれは居続けたままだ
 そんな状態で、お互いがスッと世直るほどの鏡似性など成り立つわけがない
 そこに理解が及んだのなら、もはや止まるまい、止まるわけもない
 止まるべきは、狂った風が止んだときである



1-2)1

 ‥ここに厭競の意に付け加えるべき言葉を刻もう


 競争をリベンジできたとしても、時間をリベンジすることは出来ない
 時間をリベンジできない競争性は本人の課題である
 だが一方で、競争をリベンジできない社会システムは、誰がどう考えても社会の責任である

 社会の無責任をお互いに押しつけようとする空気こそ怠惰である
 己の利さえとりあえず安泰なら、他はまぁ二の次でも好いとした安堵欲も怠惰である


 俺の厭競の精神は‥そんな自分が許せないとするところにあると言えるだろうか


 ‥馬鹿の付くぐうたらはただかわいいだけである
 そもそもにして馬鹿だから、余計なことを考えることがない
 一方で、欲の絶てない生半可なぐうたらは、何をしでかすかなんて知れないのだ
 切り捨てられたが途端に暴走するばかりに陥る

 切り捨てざるを得なくなった社会の変化から、
 彼の者たちの暴走の規模が、いずれ大きくなるのはお互い様である
 暴走に加わらずに、死を待つだけのぐうたらの方がまだ己の身の丈をわきまえていようか

 それでも欲の絶てない生半可なぐうたらは、いつの世にもかなりの割合で居るものだ
 ‥それは自然現象であり、善悪では無い


 資本競争の社会では、
 その生半可なぐうたらの数を増加することはできても、減らす術を何ら持たぬ
 ‥世の中が良くなるわけがない

 良くしようとすればするほどに、管理社会の論にしか進まぬものである

 「そんな馬鹿げた方向性を、何気にも受け入れている私たちは糞である!」
 糞を従えて悦に入っている支配側もそうだが、お互いに馬鹿にし合っているのも鏡似性の内である

 この馬鹿馬鹿しい鏡似性から脱するには、

 明らかに言葉にして資本競争のみの秩序体制を拒み、
 厭競主義の姿勢を露わにするところから始めざるを得ないのだ



1-2)2

 「恐れるな」
 訳も分からぬうちに格差が拡大したのは、ある意味当然だった
 しかし、芯を外すことはない、折れることはない
 なぜなら、私たちの命は競争するためにあるわけでは無いからだ
 ‥まして命を貪るためにあるのでも無い

 命の繋がりは、共存を願う限り環(めぐ)るのだ
 ‥お互いに、共存の息吹を環り易くする上での活動と個性が求められるのだ

 経済競争の道具になる必要は、これぽっちもない
 在るべきが有るべきとして、紡いで行くための秩序が順番を待っているだけである


 「あなたは、紡いで行く上での繋がりの中で、どこに立ちたいと願うだろうか?」


 俺は、未だこのどうしようもない厭競の旗を掲げて立つのみだ

 ‥いずれ時期が来れば、この旗を降ろそう
 お互いが誠実に向かい合うようになった研鑽までを否定する気は無い
 ゆえに反競では無い、厭競である
posted by 木田舎滝ゆる里 at 00:20 | Comment(0) | 厭競問答 | 更新情報をチェックする
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