1-9)記稿.2015/02/03
> 例えば、雇用報酬をすべて申請認可制にしたとしよう。(給与金額自由認可)
無論、これは非現実的なアイデアだ。
会社の純利益を前提にしない「俺はこれだけ」「私はこれだけ」を言い合う仕組みには無理がある。
しかし、思考の訓練として、どのような心理がそこに芽生えるのかを推し量るには
条件を無視して思考してみるのも一興だ。
※ ただし是は、一会社経営の独自案とし、社会的国家的な取り組みでは無いとする。
それゆえ、会社が倒産しないように、経営側が社員のケツを叩くのは相変わらずとなる。
1-9)1
> まず会社側は、実績の伴わない年俸申請者に対してチクリと刺すことが平易になる。
「キミより低い年俸申請でも、キミより成果を上げている社員が何人かいるよ」
「キミの頑張りはどこで表現されているんだい?」
‥でもまぁ、ここでの思考シミュレーションでは、
申請は必ず通るわけだし、成果に比例させなければならない意図もまたないとして扱われるだろう。
だから、そういう意味では「だから何?」との心理も起こり得る。
しかし
一番に成果を上げている者が、一番に合理的で、申請年俸の金額が少なかった場合‥
彼(彼女)を除いたすべての者が
会社側から毎日のように嫌味なハッパを聞かされる羽目になろうか。
> すると
彼(彼女)を除いた全員が、
彼(彼女)に対して申請年俸の増額を問いただす展開も起こり得るだろうか‥
その彼(彼女)曰く、
「君たちは、自分の申請年俸に見合った成果を得ずとも、欲しいだけを要求し、
足りない分は、他者の頑張りから頂いてしまえばそれで良いとでも言うのかね?
僕は世の中の景気なんてこれっぽちも信用していないから、
概ね君たちより低い申請年俸になっているだけじゃないのかな‥」
それを聞いた社員の一人が、こう切り返した。
それを始めに、周りの者も次々に言いだした。
「それじゃ、会社全体での売上が伸びるように、君の持つノウハウを皆に教えてくれないか?」
「そうだ、それなら会社の売上が伸びるだろうし、景気に左右されることも少なくなるだろう」
「皆で成果を伸ばせるノウハウを共有することこそ、給与金額自由認可のもっともだと言える」
※ まぁ通常は、その彼・彼女が社長ということになるだろうか‥
ただし多くの経営者は、現場を知らない経営畑オンリーの申し子が半分で、
資本主義的に売上を上げる知識はあっても、
現場のことになると、軌道に乗り始めた途端にとっとと雇用任せにしてしまう傾向が強い。
‥外からやって来た現場主任が、自分の持つノウハウを無償で洗いざらいにすることはまずない。
仮にこの場合の社長が叩き上げの存在でも、
社員がお気楽にも、社長の持つノウハウをすべて教えてくれと言うだけのガッツは、
俺の給与を俺の言い値にしてくれと要求しているに等しい。
だから、上がすべてをたたき込んでやるとした前提が無いなら、給与金額自由認可はあり得ない。
(‥経験者のみとするような社会的傾向は論外と言える)
また、
教わる側が、一から十までただで教えてもらえるのが、当たり前と考えているだけだと、
給与金額自由認可を正しく理解することがない。呑み込みもまた遅いことになる。
(その世代の起こすべく進化に期待が得られないとの意味でもある)
‥そこに見られる鏡似性は、常に釣り合いを見せるものだ。
1-9)2
> ‥この時、ノウハウを伝える上で、とある性格の問題が発生する場合もある。
‥売上を伸ばす秘訣として、
押しが強い、調子が良い、要領が良い‥の要素が提示された場合である。
‥多くの場合の成績が振るわない心理要素として、マージンをどこに乗せるかの判断に迷いがある。
つまり、そのやり方が誠実であったかどうかだ。
自らが提示するマージンに、一人一人が自信を保つ上でも、
会社経営のそもそもに自慢できる何かが、まず必要として問われる。
‥なのに、会社で一番の売上をひっぱてきていたはずの者のやり方に誠実感が伴っていなかった場合
彼の者の信頼は、内輪で一気に下がることになる。
さらに、会社としても存在感が乏しいと言わざるを得ない現実を突きつけられるのだ。
> しかし、周りの者がそのやり方でも儲かるならと流される場合もあるだろうか‥
その考え方のそもそもが、存在感の無い組織としての現れと言える。
(キーマンである社長が、そのドツボにハマった考えだったなら尚更だ)
※ 尤も‥透明性を維持する者と申請年俸金額の適正価値観は釣り合うはずだろうから
その対象となった存在が期待外れな言動をするとは思えない。
‥それでも、まさかの言動が口を衝いたのなら、
その者の提示金額は自責の念の表れだったことになろうか‥
1-9)3
普通に考えても、組織として存在感を得ることは、必要不可欠なことだ。
自身のノウハウを、他者に正々堂々と伝授できない中身に正義が宿るわけが無い。
> 真の正義を簡単に真似ることはできない。
なぜなら、積み重ねてこそ正義は正義たるからだ。
ちょっとしたやっつけ程度の正義ぐらいなら、いくらでも真似は可能だろう。
でも、それを個人ならいざ知らず、組織で維持継続するともなるとこれが手厳しい。
(歴史は証明する、個人の身勝手な成果への俺俺主義がそこにあるばかりだと‥)
さらに付け足すなら、真価とは進化できてこそである。
ただの真似事からでも前進できたというのなら‥そこに学ぶべき新しき何かがあったことになる。
かつての日本経済の歩みは、その流れの大きな渦中だった。
(多くの場合、二番煎じは行き詰まるか、良くても二番手のままだ)
(‥歴史の偉人を超えられないとの意味を含む)
1-9)4
> ‥話を戻そう。
ノウハウを持つ者が伝授し合う環境では、内部競争に意味はほとんどない。
その時、査定基準を設けるにしても、
生活に必要な分の手当と成果の分の手当を細かく分けて考えることは、とても骨の折れることだ。
(‥そこまでの黒字が成り立つような経済循環なり仕組みを、社会が共有できていない)
ノウハウを持つ者を優遇しようにも、
売上が増したならその意味とは、
ノウハウが正しく伝授された結果でもあり、正しく学んだ者たちの証でもある。
始めばかりに留まらず、持続継続したのなら、特にそう言えることになる。
それは、対象となる全員が、公平に評価されるべきことだ。
また、
会社が大きくなればなるほど、頑張る人数も増える。
それに見合った黒字が得られるなどと誰も保証できやしない。
大人数での頑張りは、なにもすべての汗が売上に直結して比例するわけではない。
無理にそこだけを目指せば、気持ちが空洞化する。
なのに上から優先されがちな報酬が前提の仕組みでは、とても公平には見えない。
そこにあるのは、押しの強さなり図々しさなり俺俺主義でしかない。
資本主義なんだから皆でそれに賛同しているわけだが‥
‥なにゆえに、その手の優遇の形を金額で示そうとばかりするのだろうか?
競争である以上、どう見たってインチキ極まりない不確実を彷徨うのだ。
赤字になったなら、報酬に差を設けたままを維持しようとする有り様はどう考えたって非合理である。
なのに、能力への査定と言うだけで、
ノウハウやコネを持つ者に報酬を先払い的に契約の段階で優遇し、払わざるを得ない仕組みとなり
その差が何倍にも発生するのでは、組織としての一体感は薄れるばかりだろう‥
そのようでは、ノウハウを教えるにしても、何を意図しているのはまったく以て搾取的に映るのだ。
「独り占めする傾向のノウハウまで学ばねばならない組織体質や常識など、糞である。」
1-9)5
> ノウハウを持つ者が、社会的に優遇されるべきとした意味を考えた場合‥
ノウハウを持つ者に、賞与を多く与えるべきだとしているのが人類とくに現代人の傾向にある訳だが、
‥多くの場合、それは初動的な段階でしか成り立たない。
組織が拡大すると、どんなに優秀でも一人一人が培ったはずの能力とて相対的に差が薄まり、
業界としての規模拡大も頭打ちになろうなら、
経営者の手腕だけが取り沙汰されて目立つばかりの印象を見せる。
それにしたとて、その結果のインパクトも始めのうちだけである。
‥泥沼景気状況下での売上への貢献の度合いと比較を、人如きが正しく見積もれる訳がない。
(少なくとも、欲に惑わされている段階の心が、正しい判断を見せるわけがない)
また、
個々の経営黒字だけで以て、
すべての給与要望に応えられるほど‥世に等しく期待黒字が得られるほどの循環は溢れてはいない。
‥どうして、始めのインパクトだけでその後十年も高額優遇など有り得るだろうか。
組織の企画がマンネリ気味になり始めたなら、責任者への査定とて下げざるを得ないことだ。
(‥何のことかと言えば、カルロス・ゴーンの高額な報酬にそう思わざるを得ない)
> ‥後者が頭角を見せない、後者にチャンスの与えられない企業に未来などない。
> 経営に対する危機感が、日常茶飯事で維持されるのは当然である。
> 自己主張的願望と危機的現実の釣り合いを見せる場合のみ、ワンマン経営がやって来る。
生体の機能として成り立つ細胞一つ一つへの維持活力にしても
循環して来る以上の養分を得ることはない。抗体が対応を見せることもない。
ノウハウを持つ細胞にこそ多く与えられるべきとした細胞こそ「癌」であり、
‥確かにそこにあるのは、まわりの命までを奪い尽くさんとした度の過ぎた形でもある。
トップが変われば、初動的に流れが変わるのは道理であり
その一方で、ある所で頭打ちの流れになるのもトップの性格の出尽くしでもあるのだから
始めのダッシュ力への期待と実に与えられるべきだとした考えならまだ理解できる。
(‥何年も前の功績なんぞ、なんだと割り切るべきである)
‥筋肉の増減はまさにそれであり、必要以上に付くこともなく、それなりに留まるのと同じだ。
伸びが無くなれば、成果もリセットして判断されるべきと考える。
1-9)6
> 成果への査定として必要な哲学とは‥
以前の実績を参照せず、その都度で見ていく非情色であり、
大きく踏み外した悪事に対しては容赦しない姿勢である。
実績の積み重ねへの査定は‥
役職などの肩書きに示された通りであるとして、それを給与金額に上乗せして考えるべきではない
限定された采配権の了承のみとして扱われるべき程度とすべきである。
(ようするに、全組織構成員同一給与を原則スタートにした年二回締めでの実績プラス査定)
(‥月給で言えば、全員が同額、ボーナスだけが異なる感じになるだろうか)
‥実績への蓄積をポストの割り振りのみとすれば、
イスの数の限りは、イス取りゲームでしかあれないのだから下がることも前提になる。
イスがなくなったから切り捨ての発想は、人を愚弄しているとしか言いようがない。
繰り下がったからってなんだ、誰しもがいくつものポストを経験するのは当然の権利でもある。
(俺俺でなければならない意味などどこにもない)
‥誰が責任者として適任かは、時の運の要素も時には重要だ。
頑張りへの報酬以前の壁として、責任者順であるとしている事自体が
限りある黒字から、目立った頑張りに分配する上での柔軟性を持つことがない。
‥どれだけの黒字を前提にして、頑張りの査定を反映しようとするつもりなのだろうか。
ポストの査定であれ、公平に扱うべきとするなら、保証されるべき給与は基本月給額だけとし、
そもそもの黒字分(ボーナス分)の分配は、金額ではなく%でやりあうべきである。
金額でなく%でやり合う話ともなれば、0.0001%の分捕り合戦でしかないことを理解することになる。
(その0.0001%なり0.00001%の金額が、会社毎にいくらなんて知ったこっちゃないけどね)
1-9)7
> ‥前払いにも、契約時に交わした金額が常に保証されるような報酬制度は好ましくない。
競争への勝ち残り意識が、スカウト料金を発生させている。その結果として、
これからの実績に対して、外から来た者に稼ぎの多くを与えるとしたよく分からない相場が発生する。
それは、新入社員の獲得にも浸透しており、
稼ぎのなんたるかも身に沁みていない内から、自分への値打ちを自己評価にも算出し、
無駄に優遇されるべきだとした社会風潮(学歴意識)を生み出している。
(そんなにも優秀を気取るなら、「起業しろ」ってことだ)
(起業すれば、掃除から皿洗いからと下から始めるのは極当たり前な段取りだ)
(‥それこそ優遇なんてありゃしない、お客からの贔屓が得られるかどうかだ)
結果として、
限定された采配権の他に上乗せしてしまっている給与契約(内訳の保証)は、
当の本人たちに不本意なプレッシャー(意識の隔離、優等幻想)を与え、
社会的規範にならない手段すら選択させてしまう社会現象を見る流れとなる。
‥それはまず、人間関係の歪さを生産するところから始まっていく。
人間関係の歪さの量産傾向は、自らの行為を正々堂々と示さない傾向を抱え込むことになり
結果として、企業の不正や先走った手落ちへと繋がっていく。
また、社会的な変改を嫌う体質を身につけさせるばかりとなる。(鞍替えすることしか頭にない)
1-9)8
‥しかし実際は、競争社会を変革するには至っていないことから
ここでの問いである給与金額自由認可は思考上での参考程度のままだ‥
また、一番に成果を得ている者が、報酬金額の申請が一番に少ないとするような状況など
日本以外には起こりえそうもないと思われる。
ハッタリを噛まして社内をまとめてみるにせよ、
頭角を示す上でのパフォーマンスでやってみるにせよ
‥そのような考えをする者が一体どれだけ居るというのだろうか。
実践できるレベルともなれば尚更だ。
‥また、例のような台詞を吐いた者を
ここぞとばかりに敵視して攻撃してしまうのが相場では、
その後の社会が良くなろうはずも無い。夢を抱くだけ無駄ということになろうか。
> 仮に、給与金額自由認可制を唱えた会社があるとして
「‥皆さんが頑張らないと会社としても潰れてしまいます」と素直に付け加えたなら
もしかしたら、こんな制度を言い放つ会社は他に無いだろうからとばかりに
自発的に一致団結するようになる可能性は有るのかも知れない。
‥逆に、社員がそこにあぐらを掻くようなら、
会社としてもどんどん人を入れ替えてみせざるを得まい。
なぜなら、これ以上に好い取り組みなんて無いはずだと、自負すればそうなろうか。
まぁ、その肝心の社員が定着したくなる前提として、
それなりに先行きの見通しが良くて
食いっぱぐれない生業のポジションに恵まれた特異な環境にある必要はあるだろう‥
1-9)9
> ‥しかしこれが社会全体での新しい取り組みだとした場合
多くの者が勘違いを起こして、
仕組みの上にあぐらを掻く可能性はまだまだ高いと言わざるを得ない。
なぜなら、そもそもの働きと成果と欲しい買い物に対する量と金額は比例しないからだ。
とくに経験値に飢えていれば、そこの穴埋めをするためにも
多くを望み、そのための時間と出会いを同時に消費することになる。
‥結果として、労働の在り方にしても、短時間の組み合わせを共有できないと回ることにならない。
お互いが経験値に飢えている最中にある消費は、地球環境を破壊尽くさんばかりの勢いを持つが
お互いが経験値に飢えていない段階に入ると、消費に対する目は殊更に厳しいものとなる。
誰しもの成長は一律ではないのだから、使えるようになっただけ目が先に肥えてしまい、
実際のノウハウの獲得の方が後から遅れてくるのだから、極点的好景気と不景気が実際となる。
‥使える金額が増えても、得るべきノウハウが均等以上にはならないのだから差は依然と生ずる。
ゆえに、同じ狙いでも、一企業の取り組みと社会全体での取り組みとでは、
その中身がまったく異なってくる点をわきまえるべきである。
つまり、対象となる人口が多くなればなるほど、細かい調整や規制が求められ、
その狙いは同じはずなのに、細々とした制約が積み重なって随分と違ったものに映ることになる。
‥この細かい調整や規制の都合がどの方向に向くかでも、本末転倒に陥る可能性は否定できない。
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