2015年02月18日

【哲学】搾取の原理から考えるエネルギーマナー

1-4)記稿.2015/02/18

 小さい力を基点に大きな力を得る。(エネルギー科学)
 安く買って高く売る。(商売)
 人の心の闇を突っつくに最適な状況を演出し、闇を大きく見せて標的を翻弄する。(人心操作)
 相手の弱いところから切り崩して勝つ!(戦術)


> これらに共通していることは、少ない労力で大きく得るとする思考である。


 ここで注目すべきは、エネルギー科学のそれである。
 科学的にエネルギーを取り出す上で、極当たり前だと思われてきた考え方の中にも
 搾取に通じてしまう手段とそうではない手段とがある‥ここでのテーマはつまりそうなる。



1-4)1

 経済にも言えることだが、
 環境が崩壊し、枯れてしまうような在り方は、どう見ても搾取である。
 その場合、「枯らさないようにうまくやれば好い」‥まぁそう考える。


> ‥果たしてそれだけで良いのだろうか?


 これは‥人間で言えば、生かさず殺さずでも良いのかという意味での問答だ。

 人間は自然からそれらの声を聞くことを無視してきた。
 その根底にあったのは、唯物論であり人間至上主義であった。

 また、人に言えることとして、飽和しすぎても人は腐るという点がある。

 自然界が腐ることは無いにせよ、
 人との接触から、とくに、動物の側の動向に変化は生ずるものだ。
 それでなくても、人は自然に対して一方的な触れ合いを望んでいる。そんなのが大半だ。
 ‥それでいて、後始末は誰かがしてくれるものだと安易に考えてもいる。


 雑多になってしまった生態系を元に戻すために、
 地球がそれこそ人に構わず、取り除くべきを取り除き、
 あるべきものをあるべきところに配置し直すための大なたを振るうのは当然だ。

 ‥それを自然からのしっぺ返しと言うのもどうだろうか
 リスクを負うべきは、はじめからそれを無理に侵した側であろう。


> しかし、地球ですら人の取り組みの結果の因果をすべて把握しきっているわけではない。


 人が天地を畏れること無く、自然をほじくり回すのは、ある意味で宇宙的な冒険でもある。
 人が望んで変化を持ち込まない限り、自然の姿が大きく変化することもない。
 ‥手を下すのはあくまで人なのだ。人にはそう言った力が与えられている。

 「それでも、マナー違反は誰も望むまい」



1-4)2

> ここでの哲学は、エネルギーの創造にもマナーがあるらしいとの見方になる。


 小さい力から、何倍もの力を得る考えはエネルギー科学の前提である。
 その選択肢の中から、より搾取に及ばない選択肢を選ぶ必要がある。

 「さて、どう考えれば搾取から遠ざかるのだろうか?」


 川の流れを利用するにしても、水車とダムとでは、明らかに主旨が異なっている。
 ダムを造る時、やらざるを得ないのが、埋没地に目を瞑ることである。
 人からして何かを犠牲にして来た感覚を持っている。そんなのは論外と言えるだろう。

 川が氾濫して水が溢れたにせよ、それで氾濫した分、土壌が豊かになり
 続いて海へと養分を注ぎ入れている。それを侵してしまうのはどう考えても間違っている。

 ‥このようなことを言い始めると
 「人の勝手にして良い土地など一つも無いでは無いか」との議論が始まろう。
 そうだ、人が勝手にして良い土地があるかどうかなど、誰も知るまい。
 人の側の勝手な合意があったばかりで、自然界からの声など何も取り入れてはいないのだ。


> すべて生ける物は、互いの好意に甘えずして生きていくことができない。


 人が神と同じように、自由にしてしまえる勝手を振る舞えるというのなら
 遠慮というのか‥お互いが存続する上での節度を自らに課せば良い。

 人の都合上、譲れないところはあるだろう‥それはそれである。
 それにしたって、それらにしても仮初めのものだ。
 人の科学が進めば、そこにあった譲れないにしても、いつまでも同じままとする用は無い。

 私たちの科学は、まだまだ甘えなければならない稚拙な段階であり、
 ‥以前においては、随分と我が物顔で歩いていたヤクザの如しであった。


 実に面白い‥そんな意味でも、ヤクザの存在は人の世に鏡似性を見せていたのだ。
 そんな意味でも石油を扱ってきたのがギャングだったという落ちであり、石油の毒性である。
 そんな意味でも原発を進めてきたのがギャングだったという落ちであり、放射能である。



1-4)3

> 小さい力からより大きな力を得る。そこにあるべきマナー・正義‥


 バイオコークスは良い手本だと思う。
 地球が仕込んで置いた石炭を、人工的に短時間で生成する。
 短時間であるがゆえに、風雪にさらされて染みこむはずの毒性物質が混ざらない。

 これは石油にも応用が利くはずである。

 ‥石油から精製される数々の化学物質
 石油の元を辿れば、植物や動物の細胞である。
 何かしらの手を加えることで、人工的に代替物質が精製できるはずである。
 短時間で生成できれば、毒性物質の混入する余地が無い。
 (‥そのまんまの毒ができたちゃったと言うような中身は、ここでは捨て置く)


> とはいえ、得られる材料それぞれには限度がある。


 この限度を無視した供給は搾取となり、宜しくない。
 そもそもにして、生物の活動なり体または汗から頂くことになる。

 その点、現代科学は、コスト削減の用途も兼ね、物質を化学合成して用いることを宗としている。

 この在り方がエスカレートすると、
 物質の表面的なデータのみが優先され
 長期的な問題点は、人が直に請け負うことにならざるを得ない。

 どちらにせよ、

 バイオコークスに見られる単純な手の加えようで、石炭以上のものを得られるなら
 できる限り素材を生かした形で、目的のものを得ることを理想とすべきである。
 (‥和食の食材に培われてきた感性と同じ意味になろうか)



1-4)4

> もう一度、はじめから細かいことを言うなら


 安く買って高く売る‥その、より儲かろうと考える癖が人類を覆っている。
 ‥その愚を、これから先のエネルギー科学に持ち込むことは同じ間違いを犯すことになる。


 エネルギーを取り出す方法は無尽蔵にある。

 それら無尽蔵を適材適所で用いる姿勢こそが大事で、
 一つに偏よろうとすれば、必ずや無理が生ずることになる。


 また、人口が多いにも関わらず、
 一つのシステムに依存しようなどと言う発想自体が、人を育てようとしていない謀にしか見えない。

 ‥教育上、人材確保の都合上、システムは統一されていた方が一見良さそうに見える。
 しかし実際は飽和が起こり、同じことしか詰め込まれていないおつむは、途方に暮れることになる。

 統一されていた方が都合の良い場合もあるだろうし、そうで無い場合もある。

 エネルギーの創造は、されていない方がエコに収まるものと思われる。
 ‥いろいろなアイデアを出し尽くすという意味でも、
 統一されていて便利なのは、方程式と図面と配線規格ぐらいなものだ。


 著生は科学に疎いので、これ以上のことを申し上げても物足りまい。
 己のアイデアや研究が搾取から遠ざかるかどうかは、あとは科学者&技術者に懸かっている。
 ‥あとビジネスと官僚・政治家もだ。
posted by 木田舎滝ゆる里 at 22:59 | Comment(0) | 哲学/一般 | 更新情報をチェックする
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