1-6)記稿.2015/02/28
信長の野望で遊ぶと、大名勢力以外に国人衆という輩が、多数存在することに違和感を覚える。
‥そこにある違和感とは、絶対的な勢力には常に従うものだとの先入観である。
国人衆とは、言うならば傭兵団である。
ベルセルクで言うところの白い鷹みたいなものに近い。
> 西洋のそれと日本のそれと何が違ったのかが分かると、明らかに文化の違いが見えてくる。
1-6)1
> 戦国の場合‥
昭和の暴走族に見られた地域の悪ガキ結束力は、あちらこちらで発生していたと思われる。
そんな関係が、戦国以前から大人になっても家族ぐるみで続いていたと思われる。
すると、そこに生ずる結束力そのものが財産だった。
今時代な情報社会ではない事情が、地域の事情に詳しいという人物自体を財産たらしめた‥
> 西洋の場合‥
地域の事情を知っているという事自体の持ち味よりも、出すものを出させることに主体が見られる。
‥何ができて、何を差し出すことができるのか。(そんな空気だ)
そこの違いを生み出した大きな要素こそが、
言葉の違いであり、文化の違いだった。単一的な民族と多民族との感覚の違いがあった。
根っこの部分で分かり合えないとした諦めが、強引な統治支配を蔓延らせ、
出すものだけを出されるとした状態下に繋がった。(‥そう思う)
1-6)2
> しかし、戦国の場合のそれは、実にアバウトだ。
> そこにある中身こそ、いわゆる縦割り構造だった。
国人衆の結束は、地域の結束ではあれど、勝手に群がった勢力にあった。
もらうことを生業としつつも、手助けもすれば妨害もした。(したたかな連中だ)
そんな厄介な連中でも命は張るが、大事業な挑戦をすることはない。
日和見主義でも、地域との繋がりを大事にする。
‥命を無駄に使うことをヨシとは思っていない連中だったと思われる。
それゆえ
大名も「従えばヨシ」として、大きく取り立てはせずとも、
そこにある権利の剥奪に厳しい顔まではしなかったことだろう。
‥まぁはじめのうちは、事情を掴む上で代官ぐらいは送り込むだろうが、
そのうち上手に取り込んで仲良くうま味を啜ろうとする‥
相手にしても、代官を送られるぐらいなら、自分から進んで嫌われないように尽くしたはずである。
だから、そこには、頭ごなしに取り上げるなんてことは、よほどでないとあり得なかった。
> つまり、こう考えることができる。
多神教だったから、束ねることに価値があった。
(神が違うと言ってもぞんざいに扱えば罰が当たるとした信仰心)
地域の結束を無理に壊さずに、組みする形での束なりだった。
それは、百姓の生き方だったし、共通の理解だった。
単一民族として受け入れる上での理解みたいな空気があった。
言葉が多少違っても、漢字を用いることで方言性を消すことに成功していた。
‥それは西洋には無かった。土地柄の都合としても通じた不思議な感覚だったのだ。
1-6)3
「見よ、西洋人を」
言葉そのものを、発音としてでしか捉えていないのだ。
西洋の複雑な発音は、その感覚をさらに言語の中に押しとどまらせる次第になって来た。
言葉の意を漢字に乗せることに気がついた日本の文化は、
発音を重複化しつつも、漢字を組み合わせることで、その違いを吸収して来た。
それが口語と文語たる文化の発生となった。
その奇妙な感覚は、西洋の言語にはない。
否否、世界中広と言えども、口語と文語を使い分けていた慣習などなかった。
‥あったとすれば
まったく違う言葉を標準に用いる次第であり、その文化を受け入れざるを得ない事情だった。
「見よ、日本人を」
そこにある英語苦手の意識は、そこにある文化への違和感であり、それ以上でも以下でもない。
‥もちろん、漢字にも表音文字としての側面はやって来た。
そこに乗ってきた儒教、道教、仏教からなる東洋文化を受け入れざるを得ないのが実情だった。
しかし、日本人は、表音に囚われることなく字の意を記号に置き換えて上手に取り込んだ。
それを可能たらしめたのも、和歌文化の都合からでもあった。
それは、取り込むことを意識させ、溶け込ませる極意を授けんばかりになった。
言葉を字でも並べ表そうとした‥そうした言葉表現としての意識の高揚があったのだ。
1-6)4
> 話を戻そう
上から押しつけただけの指図が通用しない事情は、百姓の常識だった。
しかし戦国時代が進むと、兵農分離に注目が集まり、後々的に
百姓の事情を知らない武士が目白押しになりはじめた。
‥武士の文化はずいぶんと空気を変えたはずである。
> 事情を違えた上からの押しつけ時代、新たな全国統一の幕開けだった。
とはいえ、機械文明に非ず、石高にこだわれば無理は通らなかった。
米さえ食えれば、誰も文句を言わなかった。むしろ丁重に扱うべきが当然だった。
(そこの事情は、奈良平安の昔から変化が無かったと言えようか)
‥そこにあった奇妙な一体感は、奇妙と言えば奇妙だった。
(現代人の感覚としての違いからも、そう思う)
見よ、私たちの日常を、そんな空気はどこにもない。
それこそが欧米化・科学万能主義のなれの果てである。
誰しもが勝手に「あれが好いこれは嫌」を口にするようになった。
百姓とは、その昔から仕事が多様化した証でもある。
同じ多様化でも、随分と趣が異なっている‥
それのそもそもの違いは、神にあったとしか思えない。
> どんな神だったか、そしてどんな神がやって来たのか‥
今更述べるまでもない、それが日本人の感覚だ。
否、日本という土地から発せられんばかりの空気と言えようか。
1-6)5
一神教だから、上からの押しつけになる。
多神教だから、束なっていてこその縦割りになる。
縦割りは都合が悪いと言わんばかりなのが、資本主義である。
そのそもそもが一神教の文化なのだ。
> ところがどうか‥
一神教の社会性に蔓延るのは、飴が貰えないと誰も動こうとしない性質だ。
‥誰も自分から何かをすすんでやることは無い。とくにゴミ拾いはそれである。
一神教の書の中に書かれていないことは、決して認めない。受け入れない。
多神教は、その逆で、束になる次第を旨とする。
そこにあるのは縦割りの容認だから、好き勝手になんかならない。
好き勝手にならないのが当たり前だから、飴を期待する意味に意味など無い。
‥その代わり、組むことで大きな成果を得られることをよく知っている。
ただし、その成果を独り占めにしていると
周りから恨みを買って孤立しがちになることもよく知っている。
一神教の文化の中に、孤立していても構わない性質があるのは
「お互い」以上に大事なことがあると思っているからだ。‥それこそが神の救いである。
お互いの繋がりよりも、
神の救いの方が、明らかに効力が高いとの思い込みと諦めがそこにある。
だから、神の許しがそこに書かれていると知れば、無駄に独り占めしても好いものだと思い込む。
「そんな理屈など通るわけがない」と、心得るのが多神教の民族だ。
1-6)6
> 見よ、国人衆と傭兵団との明らかな違いを
‥その違いを「だから何?」なんて言おうなら、
そいつ自体が、「お得」でしか動かない告白をしているようなものだ。
それはそのままに‥お得の手のひらで踊ることになる。
> 多神教で言う「お得」とは、認めた他者の成果を黙して待つことを指す。
‥そこで、お得へのねぎらいを進んでしたくなるのが、多神教の特徴だ。
その代わり、認めるまでがすごく長い。気が鬱になるほどに長いのだ。
> ‥そんなのつまらないと言わんばかりに
飴を得てから、飴を確認してから、動こうとする「お得」は、一神教の価値観である。
見よ!、先に貰っちまえば、
それに見合わないと言っちゃ、ねぎらいどこか愚痴を吐く始末にある。
‥愚痴に留まるどころか、次第によっては、倍返しの皆殺しである。
それゆえ、無駄に契約の更新を繰り返し、その都度内容を改変し、要求ばかりを押しつける。
その結果、お互いを脅威にしか思えず、そのままだ。
|まず礼儀、乱れる前の多神教
|愛という価値に乱れる一神教
一方は、単一民族なのに、沢山の価値観を分かち合う。
一方は、多民族社会なのに、一つの価値観にしか目が行かない。
‥これこそが、多神教と一神教の教えの違いである。
(正直、ごたごたがあるのはどちらも同じだが、その中身は全然違う)
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