2015年03月11日

【命題】中央VS.地方の終わらない原点

1-4)記稿.2015/03/11

 中央が外交権&外商政策権を持つ限り
 中央が法律を決定する権限に立つ限り
 中央が成果主義を推進する限り、


> 誰が何と言おうとも、外向きな政策が打ち出されることになる。


 なぜなら、中央官僚の成果主義がそこに渦巻くからである。
 自分たちの成績&出世の椅子の数が決まっているのなら、それは推進されるのみである。

 ようするに

 地方が内向きに活性を目指そうとも、権限に乏しく
 肝心の中央は外向きであり且つ法律の決定権の位置に立つのだ、勝負にならない。

 ところが

 中央から外交権&外商政策権ともども付き合わせて地方に移せば良いかというと‥
 ‥今度はどうだろうか?

 地方が活性化を目指す方向性は途端に怪しくなる。
 なぜなら、内より外向きの外商政策の方が手っ取り早く実入りが好いからだ。
 ‥はじめこそ内向きに政策を進めていたとしても、いつの間にか外向きに成っていたりするはずだ。


> この外交権&外商政策権が自由になるという実際が、内向きを狂わせる元凶だ。


 その根底にある考え方こそ、成果主義である。
 官僚がお互いをどのように評価しているのかの中身がそもそもにして人類の争点なのだ。

 優位に立つための収益=交易である。人脈=派閥である。

 成績を金額でしか量ろうとしない在り方では、この矛盾した因果から逃れることができない。



1-4)1

> それにしても、権限を地方に委譲する場合


 その数が多すぎては混乱の元に成りかねない。
 誰しもがそこを懸念するはずだ。

 だが、それこそが地域性の尊重でもある。
 ‥そこで道州制とした単位が検討に上がることに成るわけだが

 外交権&外商政策権までを地方に委ねるとなると中央の立場はもぬけの空になる。
 「じゃ、中央ってなんだ?」


> そこで、中央は、水戸黄門役に成らざるを得ないと言うことだ。


 地方の行き過ぎを諫めるための交渉役の立場を担う必要があると言うことだ。
 今の中央集権では、それを諫めてくれる相手がいないのが欠陥と言える。

 ‥外国がその相手になるかというと成るわけがない。

 なぜなら、外国と付き合うからこそ外向きに成らざるを得ないのであり、
 その外国の言い分こそが資本主義であり、成果しか要求していないからである。



1-4)2

> そこで、責任省なる概念が生ずる


 地方にも外交権&外商政策権を認める。(ただし海外に駐在所を置くまでの権限を有さない)
 その代わりとして、中央は地方に対して住民からの陳情を取りなす形を取るということだ。

 地方で、外交絡みの問題や政策上の混乱が持ち上がれば、
 地方はその案件に関する政策を直ちに凍結して、話し合いを始めなければならない。
 中央はあくまで中立を保ち、地方の外交または住民の間に入って調整役に徹することになる。
 (‥そんな感じのルールが求められるのだ)


> ‥ところが


 地方がしっかりと対策を進めるばかりなら
 中央に上がってくる地方からの陳情そのものが無いと言う事態になり兼ねない。
 それはそれで良いことだろうが、中央に仕事が無い状態を意味する。

 そこで責任省としては、自分たちの足で情報を集めざるを得ないということになる。

 つまり、自分たちで、地方に対して「ああしなさい」「これはもっとこうですよね」と‥
 あらを探して注文を申し入れるのが仕事に成ると言えそうだ。

 ‥言わば今の時代と反対の在り方だ。

 無論、住民から苦情が有るわけではないのなら、無理強いはできない。
 ただ、そんな色々とした意見があれば、他の地域で参考にされることになるはずだ。

 ‥まぁそれこそ、中央官僚の本来的な力量の見せ所と言えるだろうか
 ではあるが‥そこまでできた中央官僚がどのぐらい居るのかはまるでさっぱりだ。



1-4)3

> これの前例を考えてみよう。


 江戸時代で言うなら、幕府の領地が飛び地だった状態がそれに相当する。
 情報の遅い時代だったからこその工夫というか‥成り行きがそこにあったと言える。

 地方に力を付けさせないために参勤交代があったわけだが、
 幕府の飛び地では参勤交代が無いから、年貢も違っていたと言う。

 飛び地の役人が譜代や外様の大名にあれこれ言うわけでは無いにせよ、
 譜代や外様がまったく挨拶無しだったとは思えない。


> ‥何が言いたいかというと


 問答無用で‥中央官僚なのに地方勤めという形が生ずるというわけだ。
 でないと、地域のことも調べられないし、注文も付けられない。

 ‥天下り先が欲しいにせよ
 地方勤めを必要とした分散拡大を目指すなら、椅子が不足する暇もないのではないのか‥

 海外からどんなに学ぼうとしても、最先端なんかもはや無いに等しい。
 自分たちの歴史を見直した方が早いと言うことだ。



1-4)4

> では問題だ。それらの財源はどうなる?


 資本主義の感覚でいうと、どこまで行っても、国債だとか消費税だとかになる。
 江戸の感覚なら、徳川吉宗から始まった‥地方の上がりから%を納めさせるということになる。

 地方に権限を与えると、民主国家の中央財源には地場性の無いことがよく分かる。
 ‥権限を与えるとはそういうことだ。


 幕府には幕府の直轄領地があったわけだが
 民主国家の幕府と言える中央にはその基盤が無い。
 ここが実に悩ましい問題で、その上TPPで関税は廃止にするとかなんとかの騒ぎである。


> ‥民主国家に財源なんか元から無い状態がそもそもの民主社会の創造だった。


 アラブの春のその後を見たってそうだ。結局は財源が無いからその先が始まらない。
 財源として認められるのは、ルールなのに、ルールを造るまでの練りが無かった。
 それでは革命ではない、ただの暴動だ。

 ‥如何に財源として認められるルールを、まず先に練り上げておくかである。
 そしてそこには、様々な権勢が渦巻くのだ。

 それでも

 ルールを先に造り出して提案し、理解を求めて賛同が得られれば、血を流さなくて済む。

 ‥無論、思惑が絡めばそれに係わる疵が、膿の如く吹きだすことになる。
 旧来からの権限が分解されるのは起きて然るべきであり、当然の流れである。
 それで誰々の人生が盛り下がったとか‥そんなこたぁ
 それ以前から置き去りにされて来た大衆の多くからすれば、大した大きさではない。


 ‥中央官僚が改善を考え抜いてきたかどうか‥派閥を超えようとしてきたかどうか
 そんなこたぁ庶民の知ったことではない。
 改善させ得るだけの頭が無かったという事実だけが転がっているのみである。それが実際だ。

 ‥そんな彼らの屁理屈はいつだって
 「省庁間で考え方がまったく違うのでまとまりません」だってことだからな。
 まとめる実力こそが政治力だというのに、自分はその器ではありませんと吐いたようなものだ。


> ‥高給の基準とは、寝言をみんなで認め合う事なのか?(ふざけんな)
posted by 木田舎滝ゆる里 at 02:09 | Comment(0) | 命題 | 更新情報をチェックする
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