2015年04月14日

【零戻メモ】C幣の制限と課題

1-4)記稿.2015/04/13

> 布置き【ふおき】の発想から
> 初期のC幣に示した穂認し放題と使い切りの案は没になった。


 ‥汗と研鑽と人気から得られた稼ぎが減らないとする分割払いルールは、公平だし、実に無理がない。

 しかし、依然として自治と法人の穂認は、使い切りを条件とした売上との相殺を強いられる。
 それはつまり、
 それだけの消費規模が見込めなければ、多くが赤字に留まりかねないという中身に置かれるのだ。
 (出金と入金をキッチリ分離している零戻経済は、消費側の穂認が上回らないと始まらない)

 そこの調整をC幣で行うとするのがC幣の課題である。
 ただし、C幣でのBtoC分割払いは認められない。常に一括で支払うことが求められる。
 (‥そもそもにして、C幣は年度で期限が来る継貨なのだから、以前からそう考えていた)
 (そう考えすぎていたからこそ、極端な視点から考えだしたと言ったところか‥)



1-4)1

> 生活穂の補足になるが‥


 生活穂のカード一枚あたりの金額は、国が決めれば良い。
 穂カード一枚あたりの上限金額は一律であった方が混乱がない。
 (また、穂カードはその発行国内でしか使えないとする)
 (つまり、国境を勘案する。‥管理上の共同体運営は有り得るかも知れない)


 穂カードでの支払いは、常に一枚の枠とする。
 二枚三枚の金額を継ぎ足した購入は認められない。

 理由として、手数率の計算がわかりにくいからだ。
 さらに、電子処理として記録に残すにしても、記録域の肥大化に繋がりかねない。
 ‥また、残り分は自治体の取り分になるわけだが
 それを得られるカードとそうでないカードが、一度の購入の中身で決定的になるというのでは
 自治体の取り分としては面白くない話になる。(国境を勘案するのも、これと同じ中身だ)



1-4)2

> ‥非評労穂について


 これには、上限額を設ける形を取る。
 まぁ上限と言っても、残したところでこれと言った罰ゲームは無しの話だ。
 ‥誰しもは、上限一杯に推認する事になるだろう。
 (※ 非評労穂もまた、年度を単位とした穂認である)


 穂カードは、あくまで店頭での直接的な支払いに対応する。
 一方の非評労穂は、雲座を設けるのが前提である。
 これは、ネット上での支払いを可能にするためである。

 また、

 生活穂は一枚の額内でしか支払いができない。
 つまり、一枚の上限額(手数率込み)以内でしか買い物ができないということである。
 これでは価格の低価格化が促進されるばかりの様相から脱却できない。
 そこで、それの制限をそれなりに外した穂認が求められる。

 ただし、非評労穂の上限額を決めるのは、それぞれの自治体とする。
 ・毎年同じ金額である必要は無い。
 ・地域の政策に見合った金額を公示すれば良い。
 ・場合によっては、抽選枠の宝くじ金額を提示するのも政策の一つになるだろうか‥
 (それこそ、当たった人は、対象年度内に使い切らないと意味が無い。使い切りの道理になる)



1-4)3

> ‥評労禄について


 評労禄についてはまた別に記事を改めるとして、ここでは簡単に示す。

 評労禄には基準額を設ける。そこからの加点と減点を付けていく。
 まず、売上で黒字・見なしトントン・赤字との三段階の結果が出る。
 その毎年の売上結果をベースにし、項目別に加点と減点を評労する。
 加点の割合と減点の割合から、その年の売上が誠実であったかどうかが問われ、
 ベースの黒字・見なしトントン・赤字が、上がったり下がったりしてランクが決まる。

 もともとが三段階でしかないから、S・A・B・C・Dぐらいの成績分けになる。

 それぞれには+からーのボーナス金額が付く。それの20年分を組足すとかなりの差になる。
 ‥つまり、基準額に対して年数分のそれらを積み上げるのだ。結果、評労額が決せられる。
 (評労額は個人を対象としない。組織が対象となり、構成員に同じ結果が振られる)


> ここでは仮に


 生活穂を100万穂、非評労穂を200万穂、評労禄の基準額を300万穂と考えてみよう。

 Sランク=+80万穂とすれば、最高額は、80×20+300=1900万穂になる。
 それに非評労穂を足すと2100万穂と言った感じである。
 (現行の経済感覚をそのままにスライドさせた願望の幅を保てる)

 ※ 従来は、ボーナスを使っちまうかどうかだったのだろうが、
 置き布なんてルールがあると上位継貨は貯めるのが基本かな。
 戻り布もまた減らないルールだから、自分たちの期待する何かに投資すべきとなる。
 その結果、社会が望んだ形になるだろう。それこそが配当である。
 それ以上に何を望む必要があろうか。(これ以上の采配はあり得ない)


 ‥評労禄と非評労穂とを組み合わせた支払いは可能とする。

 そうしておかないと、世界的な規模で問題化しそうである。
 つまり、この二つを組み合わせた支払いを可能とすることで、
 非評労穂を全体消費の価格バランスを刺激する上での政策金額として執り扱うことができる。

 大体だ、S評を二十年連続できる会社なんか数は知れている。
 A評を二十年にしたって、どうかなんてわからない。それでも、A評半分B評半分は多いだろうか。
 単純に考えても、ここでの基本は500万穂になる。どう考えたって多すぎる感じだ。
 (それでなくても零戻には、利払いも税もない。現行のマージンから差し引き分が発生しないのだ)

 ‥どう考えても、生活穂の必要が薄くなってくる。負け組穂なんて言われるようでは心外だ。

 ‥先にも言ったが、
 全体が{生産穂認}>{消費穂認}の状態では、黒字を出すのは難しくなる。
 (これは、調子こいてマージンをふんだくってみても、俯瞰すると意味が伴わない流れを意味する)
 (それ以前の課題として、人の好奇心ほど点火の難いものはない、維持させるにしてもそうだ)


 絶妙なバランスがどこにあるかなど誰も知らない。
 試算してみたところで、それをどう受け止めるかは未知数だ。

 とりあえずここでは、対策の一つとして
 雲座の都合から評労禄と非評労穂の出金座を一つにまとめて扱うとし、
 その年度の残り分を自治体財源に組み込むとした考えが思い浮かぶだろう。

 ただし、生活穂の残りと比べれば、べらぼうな金額になりかねない。

 そこで、直接税よろしくに、
 年度の初めの合計額の%を上限に、残りがそれ以上あっても、
 始めの%分までしか財源に組み込まないとするようなルールが求められる。
 (税のそれとは異なり、常にどのぐらいが残るかは不安定である)


 そうすると何が起こるかというと

 行政は地域活動と消費拡大を推進するよりは、
 生産者民度を上げた方が自分たちの取り分が安定的に多くなると言う仕組みに置かれる。
 評労が高いと汗する者の手持ちが多くなる。
 多ければ多いほど使い切らないから、自治体の上がりが増えるということだ。

 ‥売上の見なしトントンがべたにB評だとすれば、そこからの評労が甲ならA評に上がる。
 そりゃ、自治体にしてみれば、売上の黒字云々言うよりは、評労でのUPを押すことになろう。
 (それの方が行政らしい形に見えてくる)


 ※ 評労禄と非評労穂の出金座が一つになることで起こる問題性として、海外購入が上がる。
 出口が一緒になったからと言って、政策方針の勘定まで自由解放では意味が無い。
 かといって、評労禄分そのものは自由に使えなくてはならない。
 そこで、海外購入できる金額は各自の評労禄の金額までとするなどの対応が求められる。

 ネットからの購入先が外国であるかどうか、購入対象が外国産かどうかを、
 金慮システムが購入時に認識してしまう在り方に異論は上がるだろうが、後付け調査は可能である。
 (全体で見て、問題視する程でなければ、それはそれで寛容に見ることができる)
 ‥尚、布置きでの支払いに国境は定義しない。ただし、法的な扱いが国ごとで異なればそれに準ずる。



1-4)4

 大体だ、手の掛かる手作りの物の価格が、
 機械化ロボット化量産技術との勝負では、多くの者たちは、手に職を得ようとはしない。
 かといって、機械の歯車になるだけのそれこそまんまの労働ではすぐに飽きが来る。
 (これで儲かるならと、いつの間にか怠惰になっていくのがパターンでもある)

 ‥一日に一つ、一年に一品と程度は色々とあるだろうが、
 手作り特有の勉強と手間を、安い相場に合わせなければならないという資本社会のスタンスは
 人を、作り手を、馬鹿にしているとしか言いようが無い。
 作り手が、富豪や買い手側の下僕である必要は無いのだ。

 量産技術でないと多くの市民からの支持が得られずに生き残れない仕組みが、そこをうろついている。
 量産化が可能であればあるほど、雇用が縮小する矛盾もまた、そこをうろついている。
 雇用を縮小せずとも、手間を多くに分散させると配分が減る矛盾もまた、そこをさまようのだ。

 すべてが右肩上がりになるなんてのは幻想だ。
 人気稼業ほど競争の結果利益は目減りし、特異稼業のヒットほど万年人手不足に悩まされる。
 ピンポイントで勝ち組になってもライバルがいなかったからとなれば、維持できるとは限らない。

 何事も健康が第一なのに、体が壊れるまで働かなければならないという現地的事情は、
 それも一つの優柔不断だし不誠実に結びつきかねない。体を壊してしまっては、元も子もないのだ。


 ‥確かに、量産化に成功すれば、マージンを低く抑えても上がりは大きいものになる。それでも
 そうした効率と利益を目的としただけの安易な資本算用は、実にいやらしいとしか言いようがない。
 それを成功とか賢さとか言っている内は、いつまで経っても人類に誠実の開花は見られないであろう。
posted by 木田舎滝ゆる里 at 16:04 | Comment(0) | 零戻メモ | 更新情報をチェックする
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