2015年04月27日

【詩】何事も写真の如く、真実を語り嘘をつく

記稿.2015/04/27

物事の一側面を映し出し明快に語るもの‥それが写真
されど写真は正直でもあれ、嘘つきでもある

‥物事の一側面だけで、何を語っているというのだろうか?
何も語ってはおらぬ
何も語ってはおらぬがゆえに、騙してもおらぬ

見る側にしても、騙されているわけではない

見る者が勝手に思い込み、それを真実だとして受け取るのだ‥それだけだ
受け取った内容に深刻な問題性が無ければ、まぁ大事にはならぬ

‥ところがどうだろう
人は多くの物事を一側面だけで判断しがちである、其は危うし
かといって、疑う心ばかりを教えられても人は育たぬ


「ではどうする?」
話は簡単だ、「一側面だけを見るな!」‥そう教えれば良い


何事も物事を見る時‥まずは、何らかの一側面からだけだ
同時にいくつもの側面から見ることができたとしても、カッコイイわけではない
むしろ、同時に見ようとしすぎても危うし

自身の混乱は、原点を見失う元になる
見失う確率を少しでも回避するなら、一つ一つの流れから感じ取ることが肝心だ

「ならば‥好いではないか」
思い込みの渦中を彷徨っていたとしても、それもまた有意義なことである
目覚めた後で、反省すれば良い
それをするかしないかという日々の差はとても大きい

そう思えぬところに、人に進歩なんかこれっぽっちも起こり得まい


‥ところがどうか
なぜか、人は自身の未熟な溺れ障りに対して、とにかく脆い
反省をすればするほどに、自己を卑下し、尊ぼうとはせぬ‥其も危うし
もっとも‥其もまた思い込みの渦中と言うことになる


「本当の自分は、どこに在るのか?」
‥それこそ、一側面一過性を見ようとしているだけの本性だ


人という存在は、
一過性の時の中を過ごすことはできても、同時性の時の中では思い込むことができない
思い込むことができなければ、人に味わいは存在しないだろう
味わいが存在しないと言うことは、感情の発達が促されないと言うことになる
感情を豊かにし、人として完成度を高めたければ、思い込みを恥じることなく受け入れるべきことだ

「物語を見よ、すべては思い込みが扉の前に座っているではないか」

‥そうだ、思い込みの渦中にこそ、克服すべきあなたが居ることになる
否、あなたの課題が座っているということか‥

一つの扉の前に、足を止めた自身の期待なり思い込みが、どう受け止めようとしているのか‥


「何事も‥写真の如く、真実を語り嘘をつく」




真実だけを見ようとして、真実だけを支持しようとも、満ちること無し
物事の陰に隠れたうそを知らずしては、ますます満ちること能わず
渦中に溺れ彷徨うを嫌おうとて、思い込みなくば、学び疎く人生を得ず

自他の思い込みのパターンとその鏡似性を心得し者は、至遊(じゆう)にて立てり
地に足を付けて生きるとは‥思い込みの選択、道筋の味わいということになろうか

本質に於いて、思い込みを恥じて生きることは、無味な味わいなり
ならば‥他者の思い込みを見て、愚かと批判するは、さらに無味な味わいと言えようか

所詮、馬の耳に念仏、他者の思い込みをとやかく言っても始まるまい
彼の者に必要なのは、その思い込みの中での経験なのだから‥等しく吾も然りであろうぞ
posted by 木田舎滝ゆる里 at 15:47 | Comment(0) | 哲学/一般 | 更新情報をチェックする
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