記稿.2015/04/27
すべての物事は単に自己満足である。
どこまで言っても自己満足である。
誰がなんと言おうとも、自己満足なものは自己満足でしかない。
その自己満足なだけの繰り返しが、普通に営めることこそが平和と言えるだろうか‥
‥一般には、其を「お花畑思考」と呼ぶ。
> では、本題に入ろう
そんなお花畑思考の実現が、普通にできなくなっている事態にあるからこそ重いのだ。
‥どこからそれはやって来たのだろうか?
‥何が原因だというのだろうか?
そこに理由を求めた時、宇宙的な規模で、次のような事象が観測されることになる。
> 時間軸を管理する者は、最強でなければならない
> 時間軸を管理する者は、繊細でなければならない
> 時間軸を管理する者は、冷静でなければならない
‥とどのつまり、時間軸を管理していた未来的存在が
・なんらかのミスを犯した。
・悪しき勢力に、部分的または致命的に敗退した。
・様子を窺っていたら、イレギュラーが発生し、采を振るいそこなった。
それら考えられる何かが、取り返しの付かないほどの影響を以降の時間にもたらし、
‥今の私たちにまで及んでいる。
なんだかんだとした歴史的臨界点が、崩壊または弱化した結果、
野心を抱いた存在達が、ちらほらと地上で幅を利かし、ずいぶんとズレたと言うことになる。
それら歪みが修整されない限り、お花畑思考が大手を振るうことはない。
‥下手をすれば、滅びるだけにあるということだったと思われる。
> 彼らは言う、「私たちは時間の止まった次元に存在している」と‥
‥なんのことはない。
時間の修繕をしないと、単に先に進めないだけのことである。
それはそれで、超然と見せているだけのことで、失敗の穴を塞いでいる最中だということだ。
(先に進めなくなると、過去に戻ってルートを再構築せざるを得ないらしい)
(生きていける場所の実物理的確保を考えれば、必然的にそうなる‥)
> どちらにしても、私たちの日常からすれば
やるべき事はやらざるを得ない。
誰かにやって貰わなければならない以上の生活なんぞ、望んでみても仕方がない。
無いならその分、我慢せざるを得ないし、もしくは、造り出すしかない。
その造り出した物の扱いがまた下手くそなら、同じことの繰り返しが起こるだろう。
‥とくに、時間軸を管理している存在の未熟を想定してみたところで何の意味も無い。
少なくとも、私たちの常識に於いて、
過去への謝罪は問われども、超未来への謝罪要求は存在しない。
なぜなら、やってみなければ誰にもわからないことの善し悪しを、事前に裁くことは不可能だ。
そもそもの時間軸の管理にしたって
人の自己満足が勝手気ままに振る舞うからこその危惧から、やらざるを得ないというのが実際だろう。
各自が責任を取るべき事柄のそれを、良識派存在の失態にすり替えてどうしようというのだろうか。
観光地にゴミを無神経にも平気でまき散らす非常識の姿がそこに在るばかりである。
宇宙開発にしたってそうだ。自分たちのまき散らしたスペースデブリの処理もまともにできない癖に
‥安易に時間旅行に行きたいなどと思うべからずだ。