記稿.〜2015/04/29
> DNAが先か?タンパク質が先か?
と言う問いは、「鶏が先か?卵が先か?」の問いに等しい。
これは即ち
環境の変化から如何にもタンパク質さえ出来得るなら、
生命が誕生するとした科学者の言い分は、総崩れになっている。
(科学者らは、わかっていて研究を進めている模様)
「これら二つは常にセットである」(いわゆる鏡似性)
「なぜそうなのか?」という処に、この手の疑問の本質が浮かび上がる。
‥もう少しトンチなことを言えば(仮定の域での話ではある)
人間または知的生命が化学合成するから多様なタンパク質が合成できるのであり
自然界が合成し得た成分がどれ程にあるかというと、生命を存在させる範囲でしかない。
(もしかしたら、原子そのものがデザインされ得た姿かも知れない)
人間の手であれこれと合成できるからという性格は、自然界から見れば不自然な形である。
そもそもにして、人間が安易に手を加え得ず状態とは、それ以前の淘汰の形だった‥
といっても‥生命の創造自体が何者かの手に因るものであるなら淘汰も糞も無い、
そこには、そういうデザインの痕跡が散らばるばかりになる。
‥それはつまり、デザインセンス無き科学者なんか「糞」ということだ。
> ‥さらに言うなら
それらタンパク質の効率に見合った生活スタイル・価値観があるという次第であり
そのタンパク質の効率に沿った生活を営めない人間は糞と言うことになりそうである。
何の話かというと寿命の話だ。
タンパク質なり酵素なり体内菌なり‥それら一体となった良好な活動状況が寿命を決めている。
これは予想でもなんでもなく、物質の辻褄を考えれば成り行きとしてそうなる。
‥そこまで考えると、生活における自由性など、あって無いようなものだ。
(人生において、美容と健康と寿命を目的にすれば、まぁそうなろうか)
それにしても、そんな規格染みた人生観に魅入られる方こそを糞と呼ぶべきだろう。
じゃなんだ‥世の中の研究に何の意味がある!?
‥これはそういう疑問にも繋がっていくものだ。
「寿命重視か?好奇心優先か?」
どちらかが好いのかというと、そこに答えは無い。
ただ、言えることは‥
二つが同じ方向を向いて歩き出すと、ストレスの蓄積ぐらいは改善されそうだと言うことだけである。