2015年06月06日

【哲学】心の色彩

1-2)記稿.2015/06/06

 暗算の達人は、数字の並びを一つ一つ数えたりはしない。
 桁をカンマの位置で覚えて、その形を元に数える。

 囲碁や将棋の有段者は、新手でもない限り、石や駒の一つ一つの手順を考えない。
 定石でわかっていることは、概ねそれに沿って全体の利を把握する。(とくに序盤)
 ‥検討の段階ですべきことと、対局の段階ですべきことの頭を切り換えているのだ。


> では、心はどうか?


 人生において事前把握すべきは、様々な事象の結果もたらされるお互いの気持ちと言うことになる。
 ところがこの手の定石について人はとんと無頓着なままだ。
 ‥愚かと言えるほどに、そこに注目する者が少ない。


 「心にもたらされるすべての反応を理解することはできるか?」

 否否、そんなことを知らずとも、上段者ぐらいには為れる。

 ‥そうだ。
 人生の上段者と思える者とて、心にもたらされるすべての反応を知り尽くしているわけではない。
 敢えてそれを知る段階を「神」と定義しても良いだろう。

 時間軸の外から、時間軸の中で起きている事象の人の心の様をじっくり観察していれば、
 人がどのような時にどのような色彩を放つのかを観察できるだろう。
 その対象とできるデータ量は、たかが惑星一つの数十年歩いた程度の人のそれとは雲泥の差だ。

 しかし

 実際のところ神の視点からは体験が無い。体験が無い以上、想定外も起こり得る。
 それは、反応を起こす段階で、何がその者の心に強く植え付いていたかの差だ。
 神にとってそれは、大いなる不可解だ。どうしてそれを強く思い残すのか‥
 それでも、それが彼の者の特徴であるなら理解は早い、それがその者の色彩と言うだけの話になる。


> ‥私たちは、そんな自分自身の心の奥行きさえ、朧にしか存ぜぬ代物だ


 まさに、目の前にその事象がやって来ないと、一つ一つの気持ちすら分からずにいる愚者である。
 自分に訪れるだろう気持ちで受け入れがたいなら、先回りして断固拒否すれば良いだけのことだ。
 ‥つまり、それをしない。そうならない上での選択をしていない。それだけの話になる。

 しかし人は、知らないと言うことに夢中になる。知りたいとばかりにのめり込む。

 その先が知りたいとばかりに、のめり込む。
 いかばかりにも他人の言葉に誘われ、その扉を開けてみようとも
 心の中で、なんらかの色彩が程度変化するだけのことなのに、一生懸命になって、
 他の者の色に自分を染めようとしている。実に愚かなことだ。

 誰かの気持ちをわかろうと努めても、最終的に、彼の者が心に強く抱くそれとは同じにならない。
 つまり、先端の部分では彼の者には相寄れないと言うことだ。
 それはまた、自身の心の色彩を知らないとした鏡似性の現れでもある。


 自身の心の色彩を知る者は

 自身の心の色彩への理解を以て、その至福感を頂点とする。
 それは鏡似性において、相手の欲する心を得たと言える鏡似性に置かれる‥そう言えるのだ。
 ‥呼吸が合う感覚とでも、表現できるだろうか。

 それでも間違ってはならない。
 自身の内に無いからこそ、外にも興味を示している自分が居ることを‥


> では、もう少し具体的に突っ込んでおこうか。



1-2)1

 私たちの多くは、多くを得ると有利だとした概念に侵された愚か者である。
 それがゆえに、多くの物事を知らないと日常的には恥になると思っている。
 強い敵には勝てないと思っている。
 ‥それの不十分から生き恥を重ねると、得る処が少なく生きがいにならないと思い込んでいる。

 ああそうだ。

 確かに私たちは、豊かな暮らしをしてみないとその感覚というものがわからない。
 確かに私たちは、貧しき暮らしをしてみないとその感覚というものがわからない。
 男とか女とか孤独とか友人沢山とかそれだけの違いでもそうだ。
 ‥順風満帆が良いと思っても、其を味わえた者はいかばかりだろうか。

 ああそうだ。

 私たちは自分に課した目標を100%達しないと気が済まないところがある。
 何のためにそれをする必要があるのかに‥意味を問うても、個人の自由の枠でしかない。
 でも実際は、100%に到ったからと言ってもそこに満足する者など一人も居やしない。
 それが現実だ。だからこそ、何の意味があるのか‥の問いにもなる。
 ‥つまり、順風満帆などありゃしないのだ。


> されど、お互いに、順風満帆の定義は各々で異なっている。


 そこにはスタイルへのこだわりから来る違いがあるだけだ。お互いにそれの違いを認識すれば良い。
 全体におけるその種別がどうなっているのかを把握しておくべきことだ。

 ‥その時、こう思うことになる。

 「多数派が有利なのは当たり前だ。」

 ‥その意見を持って、決を採ることに何の意味があるだろうかと。(多数決主義の部分的崩壊)
 お互いに、心の色彩への理解獲得への道程を尊重するのであれば
 まずはお互いが他者の価値観に呑まれないことだ。その上で、尊重し合うことを選択すべきになる。

 愚かにも私たちは、そんな考えすら持てずに、盤上の駒に成り切ってしまうのだ。
 ‥マスターが動かしてくれないと動けませんと言わんばかりに。



1-2)2

> それはまるで‥自分の行動に責任を持てずに、誰かのせいにしたいと言わんばかりじゃないか


 ‥確かに

 責任を持たざる段階に居るのだから、その感覚はある意味で自然な流れだろう。
 でも、そこに正しさなど無い。愚かというだけだ。

 愚かであるからこそ、前進が求められている。
 間違っているから裁きましょうとした中身とは、趣がまったく異なっている。

 そこを勘違いしていると、許すということがなかなかできずに、そこに始終するだけに陥る。


 許す許さないにも程度や許容があるにせよ、その色彩が訪れるそもそもの因は、自分の内にある。
 それが、自分はそう言うタイプだからとの自覚があるなら、メリハリを有した賢さが備わるはずだ。

 仮にもし、そこに自覚と賢さを併せ持たずに居るのなら

 不幸をバネにしろとのお鉢が回ってくるだけのことだ。‥それはもう、うんざりするばかりだろう。
 ‥それでもそれは、自身が許さないとした内に秘めたもやもやの現れでしかない。
 ‥そしてそれに責任を持てずに転嫁していくのがスタイルと言わんばかりだ。


> 手筋が悪いのなら、もっと適切な対応を工夫するより他はないのだ。
> 計算の仕方が鈍重なら、早く解を得られるように手順を吟味してそれを身につけるしか無いのだ。


 ‥人生
 否、心の色彩の理解以上の至福感を求めるなら、よりそれが求められるというだけの話だ。

 誰かが求めているからではない。

 それは常に自分自身からの始まりにあるということだ。
 それすらも理解せずに、「世のため人のため」とした呪文を唱えようとも、
 ‥解っていないがゆえに、お互いの中で、結局は言い争いにしか成り得ていないのだ。
 (理解されずにダメージ50とか‥な)


 本当にしたい事には、本当にすべき事には粘りが出る。それだけだ。
 ‥得意なことでも倦んでしまうなら、それは単に必要な素地の一つだけだったということである。


 尤も

 若い時分に身につけたことが、意識の中で壁のように優先されがちにあるのは
 遺伝子上または脳の作用・性質としか言いようがない。
 ‥それに依存するかのように従うだけなら、それが人生道中それほどに役に立たないことだったなら
 そりゃ、競争や出会いにおいて出遅れることになるのは当然だ。

 でも、大抵は
 ‥そこまで削ってしまわなければならない人生&全体観なんか、其もまた糞つまらないだけさ。
posted by 木田舎滝ゆる里 at 16:33 | Comment(0) | 哲学/一般 | 更新情報をチェックする
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