2015年06月13日

【零戻メモ】個人評労の特殊性とS幣

1-11)記稿.〜2015/06/13

 具体的に個人を評労するところまでは、物理的規模として無理である。
 なぜなら、組織評労でさえ大がかりなインフラ整備の如しになるからだ。

 また

 徹底して事細かくやる意味があるかといえば、評労自体がアバウトになりかねない要素を含む。
 組織であるがゆえの基準や模範は検討できても 個人にもそれでは途端に息苦しくなるものだ。
 ‥そもそもの焦点は、向上と継続と協調であり、それは主に組織の在り方を見れば済む。


> つまり、個人評労とは
> 当人がどのような組織評労の過程を歩んできたのか‥の蓄積で見なされた方が無難と言える。


 ‥組織評労がそもそもの基点になると、転職しても、以前の勤め先の組織評労が付いてくる感覚だ。
 ‥また、組織評労を物理的に可能にするために、先に百社組の案を挙げている。
 ※百社組とは
 組織評労の中に、地域的ランダム要素の組み替えの枠での成長度などを取り入れようというものだ。
 そうすれば、どこどこの会社だったからと言う偏見が一人歩きすることもない。

 ‥付いて回るそれを、人生道中に於ける出会いの道筋と受け止めることができるだろう。
 地域内で起きるであろう関わりゆえの可能性について、お互いが知ることも重要だ。
 オールSが一番に優秀などと勘定せずに、自身の足取りが思い返せたならそれで良しとすべき事だ。

 それでも

 自らが経た評労の道筋が付きまとうにせよ
 「最近十年廿年のあの人は‥」とした区切りの範囲で見られる感覚でありたい。
 それ以前の事を、私たち自身が、評価の対象に含めたいなどとは思っていないだろう。

 ‥常に、前年度から特定年数分の枠を遡って、その期間を対象とすれば
 汚名挽回にもなるし、過去の優・良にしてもその期間までとし、気持ちの切り替えにもなる。
 (遡り対象期間が短いと取り分も減ることになる。その辺のバランスも含め素案は40年とした)


 ‥ただし
 間違ってもそれらが転職先に通達されることはないが、
 穂認から雲座入れをするのは金慮である。それの意味では
 行政がその手の記録を保存・管理する点に変わりはない。

 それに対して大衆がどのような免疫やアレルギーを示すかの関心は尽きない。
 ではあるものの‥ここでは、一通りの意見を連ねるとする。
 (税金も金利も返済もない。その上での穂認である。情報管理されると言っても嫌味は薄いと思う)
 (それでも個人レベルで見た場合、働き方の自由度を抜きに‥評労は語れない。そこが今回のお題)



1-11)1

> 例えば、祭りの場合
> その運営と動員は、概ね自治体が予算を担い、運営参加者は穂認以上の対象に成るとしてみよう。


 ‥この場合
 祭りそのものを穂認以上の報酬対象として、労働の枠組みに盛り込もうという中身になるわけだが
 「それはどうなのか?」の疑問がもたげようか‥

 ここでは、祭りを穂認以上の対象にしようというわけだが
 何もそれを、自治体の評労に加えるとかプラス要素にしようという次第ではない。

 そもそも、職員で直接的に関わることになるのは、概ね担当でしかない。
 また、祭りは地元住民で執り行われるべきであり、継承されるべき事だとの認知がある。
 ‥誰もがそう思うところだ。(祭りを執り行う関わりの多くは、住民によるボランティアである)

 その一方で

 もはや祭りはイベントの類いであり、祭り特有の地域性からはみ出すようになった。
 そこに生じている興行傾向は、ますます地域の結びつきに非ずとも成り立つ空気を醸し出す。
 それはつまり、黒字か赤字かの判断で途絶える性質を抱えたと言うことだ。(地域も祭りもどっちも)
 ‥その前に限界集落等で消えていく祭りもあることだろう。


> では、祭りとはなんだったのだろうか?


 地域の言い伝えを残す上での手段でもあったにせよ
 今や‥言ってしまえば、娯楽の無かった時代の楽しみだったとしか言いようがない。

 娯楽が増えた現在‥どこへでも車一つで出かけられる現在‥
 地域色の意味合いも薄まり、社会活動の多様化も絡み、祭りにこだわる意味合いもまた薄くなった。
 ‥あんな混雑でゴミしか残さぬモラル乏しき馬鹿騒ぎに、何の価値があるのかという見方もあろうか。

 しかし

 祭りが失われれば、日本の四季が乏しくなる。
 祭りはすでに日本の風景の一つだ。
 ‥他の国々でも同様に、祭りとは私たちの風景そのものにある。


> そもそも祭りとは、地域を挙げた神への感謝から下り、公平な分配を意味した


 ‥ゆえに
 祭りの継続性と関わりは、ボランティアのままの扱いという訳には行かない。
 消費穂認を公平に割り振る意味でも、雇用対策の枠組みとしても、考えて於かざるを得ない。


 ‥予算としては、戻り布の項目に特枠を設け
 運営参加者には、次年度の非評労穂の上乗せ金額分を認めるなどの考えが浮かぼうか‥

 (中には、一年を通して祭りの準備専門を職として希望などの御仁も登場するかも知れない)
 (一部競技化されている参加項目での参加賞がてら‥其も上乗せの対象にしたとて構わぬことだ)
 (‥上乗せできる金額は、事前に公表しておく必要があるが、前金分と成果分を分けるのも有りだ)
 (小さな祭りと大きな祭りとでは、明らかに違うのだからその点の塩梅にも応変さは求められる)


 ※ とりあえずここでは
 「何とかしましょう」→「人手が必要です」→「人が集まります」→「持続的に需要が見込めます」
 これの形にあれば、穂認以上の対象にできると言うことである。

 如何にしてモチベーションを保ち、継承して頂けるかが非商性に於けるテーマだ。
 早い話が、穂認以上に価するかどうかであり‥結果、黒字なら尚良しの捉え方をする。

 ‥ここでは評労にこだわらず、非評労穂に上乗せ案を示したが
 それはそれで参加しやすい雰囲気にするためである。また
 基本的な非評労穂の効果的な数値を模索する上での判断材料にできるだろうとした向きもある。
 (地域の活性が乏しいのに、祭りばかりが派手というのも如何なものかと思うが‥其もまた地域性か)



1-11)2

> 基本則として‥


 特定団体等を構え、登録なり届け出・公示をして、属した形を経ることが望ましい。
 それはそれで‥その組織・団体またはイベントが、穂認以上組織評労の対象になる。
 とにかくこれは考えとしての基本だ。
 (興業における宣伝効率を高めようと思ったら、団体・団結策は一つの鉄則である)

 ‥それでも

 非属でも構わないスタンスを希望する場合もあると思う。
 いわゆるアルバイト的なスタイルを希望する場合である。


 特に日雇いと言うことでもなく
 地域の特定のイベントや作業への参加という特化的な好奇心としてのわがままという事に成ろうか。
 (穂カードを気軽に手にできることから生ずるであろう、社会的欲求への新たなる対処である)

 ‥その場合には、必要であれば、暫定的にB評を割り当て、季割の計算を宛がう。
 (非属の選択の年度‥C評やD評のリスクが発生しない代わりに、組織評労が付かない)


> 主に、学生(未成年時)への対処をどうするか‥になる。


 未成年者は評労の対象にはせずにするわけだから、学生のアルバイトに非属も勤属もない。
 (‥黒字売上の見込めない場合のそれは、それこそただ働き当然に成りかねない)
 (‥穂カードを気軽に手にできるようになると、成人アルバイトの意味合いに乏しくなる)

 むしろ

 学生が、向学の好奇心から商的活動への参加を希望する場合
 逆を言えば、本来、授業料が絡んでもおかしくない話だ。雇う頭しかない社会観の方がブレている。
 ‥そのブレの延長に登場しているのが、あれこれとブラックな扱いの業態と言えるだろう。


> 無い袖を振れと言って来たのは、ある意味でお互い様の要望だった。


 昔からそうだったわけだが、それはそう言う仕組みしか得られなかったというだけの話だ。
 人の暮らしの中に於けるベストだったかと言えば、ベターより下がる内容でしかあれていない。

 そもそも、責任者の取り分が一番多くても良いなんて、人類が皆で思い込んでいればそうなる‥
 (その思い込みが潜在的了承になり、その大きさに比例してインチキが根を張る因果にもなった)

 頑張った順だなんて言い張ってみたところで同じことだ。無い袖は振れやしない。
 無い袖から立つように考えず終いなら雇われるままであるにせよ、また自ら興せないからでもあった。
 (‥穂認と評労で、その辺りのリスクが小さくなるのなら、自分から経営意欲を持つべきは当然だ)


 ‥しかしながら零戻経済の場合
 経営良好のところで、日雇いないし丁稚程度の希望が何を意味するのかということである。
 もはや小銭が目的ではない。「上位とは?伝統とは?この仕事とは?」‥の勉強ということになる。

 その点で程度緩和されるべきとすれば

 ‥学生(主に未成年)が商的活動に参加する場合
 規定の年齢に非ずとも、穂カードまたは基本評労枠の穂認を緩和するとした方向性であろうか。
 (行政としては、届け出のあった会社に対する法的且つ評労項目が増えるだけのことだ)
 (ビッグデータとしても、社会全体に於けるそれの欲求の度合いと実量を把握することは重要だ)


 ※ この場合のG幣報酬は、授業料を払わなくても良い範囲において、相殺して考えても好いとする。

 ‥ただし、その者の働きがしっかりと売上に結びついているようなら、報酬への請求権が発生する。
 (彼の者が成人を迎えた場合‥次年度からは、勤属もしくは非属の扱いになる)
 (勤属か非属かの選択は、そこは当然ながら、当人の意思による)
 (非属だとG幣報酬の請求権が無いとの意味では無い‥それでは仕組みにヨイショした奴隷同然だ)
 (‥ちなみに勤属とは、組織評労からの禄を得るということだ‥お間違えなく)



1-11)3

> アーティスト、ライター等に見られるフリーの活動はどうだろうか?


 基本的な概念として、フリーなる枠組みを、法規上では扱えない。
 すべては穂認ゆえに、起業の扱いにならざるを得ないからだ。

 当人が経費を推し量って穂認するのだ。
 自分一人だからと言って、活動経費を、穂カードの金額とごちゃごちゃにするようでは困る。
 誰かと共同経営するにしても、そこは変わらない。

 穂認ゆえに資金繰りが簡素に思われるにせよ、黒字を出すにはしっかりとした経営手腕が求められる。
 その組織としての評労がC評なら、個人のそれもC評になるということである。


 ※ 原則として、黒字はA評ベース、見なしトントンはB評ベース、赤字はC評ベースから。
 評労の結果調整されるのは±1段階の間とする。ただし悪質な法令違反はその限りではない。



1-11)4

 それでもまぁ、商的活動に入らない状態でのスタートも考えられる。
 ‥電子出版の一部にその手の活動が見られる。その場合はどうなるだろうか?


> フリーのマーケットが集まった集合の場合


 リアル店舗を主軸とする場合には、会場または個々の組織経営の売上に組み込んで扱えるにせよ
 マーケットサイトを介した販売のみの場合、店舗としての個々の主張性に公平感が乏しい。
 ‥検索と言っても、関連したシンボルが目に止まるかどうかであり、
 且つ、人気の度合いにより低ければ、存在性が無いほどに薄くなる。どちらといえばそれが大半だ。

 しかしながら、出品しているとした事実に変わりはない。

 本来、クリックすらなければ赤字どころの話ではないのだが
 出品数の数や入れ替え等で活動の度合いを推し量ることはできる。


> その時、いくつもの箇所に同時に出店する個人色の際立ったケースも検討しなければならない


 ・名義が統一されていない
 ・行政に届け出が無い(穂認の対象外からのまったくのフリー活動)
 に対して、評労としての一切を公平に扱うことはできない。

 これらに関しては、趣味の範囲と断定し、評労の対象からは外れるとする。
 (※ 時間給P幣の穂認額としてもカウントされない)


> ‥ブログで生計を立てるとしたクリック収入などには、別の枠を検討せざるを得ない


 穂認と言えども、経費負担を減らして頂く仕組みにある。
 (零戻経済では、人件費の多くを、原理の矛盾を排除しておく意味で評労に置き換えている)
 (稼ぎの多くは日用消費で消える‥そこで黒字と貯蓄の比率とその活用に注目し、P幣補正を加えた)

 切磋琢磨ゆえ、広告成果を期待した報酬等は‥ともに継続されるべきであり、有り続けることだろう。

 ‥ではあるものの

 クリック収入&個人制作販売(主に電子データ)への報酬と売上は、
 {経営しない}={評労に価しない}のだから、G幣もP幣も得られないという次第にあたる。
 それはそれで、秩序を考えれば当然だが、意欲の促進を考えればそのままで良いとは言えない。

 また

 ・個人の穂認額の年度末時残金は、役人側の取り分になる。
 ・ネットでの支払いに、原則として穂カードは使えない。(着払いは、地域または地元範囲制限で可)
 ・G幣P幣を用いた買い物は、その優位性から、逆に無駄には使えないとの心理をダブらせる。
 ‥その辺のジレンマから、その枠を超えた気軽にやりとりできる枠組みもあるべきかと。


> そこで、S幣である


 ここでの対象は、主に、個人がオリジナルの電子データを販売サイトに出品する場合を想定する。
 (クリック収入にしても、ブログを出品しているような形状として考える)


 ‥売上の取り分として、販売サイト側の取り分は販売サイト側の稼ぎになる。
 では、個人の取り分はどうなるのだろうか?

 経営の延長で出店しているなら、経営の収益として勘定されるだけのことだが
 そうで無い場合、その金額を金慮の収支座に入れるわけには行かない。

 そこで、個人の雲座の中にS座を設けるとする。

 零戻経済では、すべての売上の会計が、年度処理されるのだから、
 運営側が、内部留保の如く個人の未満額売上を管理する意味に乏しい‥
 (資本経済の場合、経費の都合から、一定額にならないと振り込みが認められない契約がされている)



1-11)5

> S幣の特徴


 ・(穂認を通さずとも稼ぎに相違ないことから)使用期限制限が無い。並びに相続権が発生しない。
 ・戻り布:可(企業側から見て、内部留保の一部だった扱いを当人の自由とした処置)
 ・置き布:不可(穂認せずに稼げる気軽さからの稼ぎを、穂認のそれと同等に扱うわけには行かない)
 ・個人向けC幣出金座の金額と合した一括払い足し計算が認められる。
 (これぞ、へそくりの感覚か‥)
 (ただし、S幣あたり一括払い増分上限は、該当自治体のその年の非評労穂認額に準ずるとする)

 ※ これはブログだけで勝ち組になるような場合、起業せよとの意味である。
 確かに起業の形でもやっていける状況だろうし、そちらの方がお得だが、身の振り方は自由とする。


> ‥ただし


 S幣を得る条件として、受け取り先の雲座番号の登録を必要とする。
 売上分を受け取る上で、雲座番号の登録は外せない。(この手の基本)
 ‥ネット上にて、ペンネームを用いて活動をしていようとも変わらない。

 尤も、登録は自由とする。
 それの利益を求めるか否かは個人の意思次第だ。(未登録の場合、年度末決算処理時に消失となる)


 ※ サイト運営側のサービスに基づいたS幣分変換ポイント制度の有無は、運営側の自由とする。
 ただし、雲座番号を登録している者に対して二重となるポイント維持は認められない。二択とする。

 S幣キャンセルポイント変換選択時、ポイントの利用法は、運営側の規約に基づく。
 例えば、消費や新作UPなどの弊社利用が、規約期間に更新されない場合に消失。
 弊社または提携先のみ利用可‥満額いくらまでとする‥などが想定されるだろうか。

 (‥S幣キャンセルポイント変換に伴う運営側の売上損は一切発生しないが、評労の的になる)
 (どちらかというと「穂」にあれていない時点で、県・州側の手数率の計上に影響を及ぼす)
 (運営側としても、個人のそれをン百万ポイント維持とか‥御免だろうし上限はあって然るべきだ)
 (勘違いされて困るのは、ポイント変換はもはや個人の稼ぎではない、サービスの一環に置かれる)
 (また、従来のポイントのように裏付けは求められないし、支払い利用時はすべてC幣に勘定される)
 (強いて言うなら、元々の発生が稼ぎだったという流れが裏付けとも言えるだろう)
 (その意味で言うなら、無駄にルーレットを回してポイント倍増なんてサービスは御法度になる)
 (‥なぜなら、C幣のネット利用時における公平性に伴った判断でもあるからだ)



1-11)6

> S幣の扱いに伴う裏技の指摘


 ‥資本経済上において穂認などないがゆえに
 自分でネットオークションして、自分で購入を繰り返す‥姑息な手段を得る発想はあり得なかった。
 しかし、穂認を前提にすれば、ある程度可能だ。
 その意味でも、S幣あたり一括払い上限を、該当自治体のその年の非評労穂認額に準ずるとした。


 ‥普通に考えてその目的を問えば
 一括払いの上限額をたまたまどうしても増やしたかったの中身になる。それゆえ
 手っ取り早く、自分の持ち物をネットオークションして自分で買うとした糞アイデアが浮かぶ。

 C幣一括払いの上限分を増やすも増やさないも‥万民幣権ゆえ、ある程度大目に見ても良いわけだが
 多くの者が横に並んでやり出すとルールもモラルも糞もない。

 ‥だが、その時

 どうしたって、非評労穂認の予算から買わざるを得ないわけである。(ネットオークションだから)
 しかも、年度を越さないと増やせない点は、ルール上避けようがない。
 (そんな呑気なやり繰りを、誰もが魅力的に捉えて、積極的にやろうなどとはとても思えない)
 (‥ただし、無駄にポイント倍増ルーレットなんかがあると、増分出来ることに繋がる)

 ※ 行政から見た時、S幣の支払い時に手数率を得られる点は同じゆえ、捨て置いても構わない‥


> ‥問題はそこではない


 誰しもがS幣目的&物々交換の場にその手のマーケットを活用し始めると
 リサイクルの方が生活の中心に移ることになり、結果、社会全体の生産量が縮小する。

 ‥縮小するならするで、手の込んだ品を少数束で作り合えば良いわけだが

 そこの切り替えに気持ちが付いてこないと、なかなか社会全体でうまく回るものではない。
 結果、実験的に数点ものしか扱わないとした専門の販売マーケットが登場しそうである。

 ‥もしそうならば
 従来的に大手企業の狙ってきた大きな枠組みは、
 ますます限定的な分野にしか当てはまらない方向になりそうである。


 (多くが少数規模から参加できると言うことは、特殊機材のレンタルも増えると言うことである)
 (穂認ゆえに、工場施設の短期使用目的でのレンタルだって想定されるだろう)
 (市民体育館よろしくに、市民工場&作業スペース施設が有っても好い)
 (日曜大工にしたって、そこに行けば、機材・人・相談有りで、楽しく上手にやれるに違いない)
 (※ ガラが悪い・タバコ臭い・薬品臭いだけなら遠慮することになるけどな)



1-11)7

> 映画・アニメのように、作品によっては大人数を必要とする場合はどうだろうか?


 ‥評労からすれば
 その都度得られた組織評労(そこでの活動評労)が、個人の履歴(個人評労)になる。
 その決まりなら‥映画会社として制作するなら、その会社の組織評労が個人評労ということである。

 ところが

 それだけで済ませてしまうと、作品への参加はとにかく特定の組織に属さなくてはならない。
 一方で、映画やアニメの制作の場合、特殊且つ気まぐれにも、その都度の顔ぶれが違うケースが多い。
 ‥個のパワーの方が圧倒的に蔓延るのに、その上で、下請けや関連会社の繋がりが多岐にぶら下がる。


> 大人数であるがゆえに、黒字分の分け前に期待しようにも公平さには無理が伴う。
> むしろ、参加できること自体を前報酬と見る向きにもなろうか。


 ‥それでも
 評労から得られるべき基本で、才の分を勘定できないとなれば、モチベーションは上がるまい。
 (恋愛でばつが悪いと一番にモチベーションが上がらない‥とくにそう言う連中の集まりだ)

 これは一方で

 フリーの立場同士の者が、それぞれに起業の形を有していればそれで済む話ではあるものの‥
 その手の会社関係が細分化して複雑になればなるほど、評労の手も大ざっぱに陥りやすい。
 (‥評労では、何かとその辺りの次第が曖昧に見える向きが予想される)


> つまり‥一過性&大人数による制作を前提とするような活動(労働)の場合


 概ねで、作品単位で評労した方が不公平感が小さくなるということである。
 ‥百社組の視点から鑑みても、作品単位での評労を前提にしてしまった方が手っ取り早い。

 (これは個人の評労をどう考えるかであり‥黒字分の分配をどうするかの話では無い)
 (厳密を言えば、如何なる産業も一つの何かを作り上げる仕組みにあり、人的流動性を併せ持つ)
 (‥ここでは特に、個の才が主軸にもかかわらず大人数を前提とする業態を対象とする)


 ‥特殊として、委員会&企画そのものを単位として評労することになる。
 これは、制作参加者の個人評労に注目し、個人のモチベーションを上げるのが狙いだ。

 概ね‥制作期間と初期の公開期間が対象になるだろうか。
 (期間は年単位、一時的な集まりではあるが、目的を持ったその係わりを一つの運営組織と見なす)
 (‥これは売り上げの管理の話ではない。評労のルールとしての中身である。黒字の分配はまた別)


> その辺りの柔軟性が、評労のルールに備わっていないと困ることになる。


 仮に非属からの参加だったにせよ、その組織性を以て、その年度と期間の組織評労にも宛がう。
 ‥とはいえ
 制作期間中の売上評を見込めないわけだから、暫定で、組織評もB評基準ということになる。
 公開期間が含まれる年度のみ、売上評を前提に含めて扱う次第になるだろうか‥

 ※ ヱヴァンゲリヲンに見られる連作の形にあれば、
 関連売上をその間の売上評に入れて試算することもできるだろうが、所詮‥
 制作費との折り合いを見る限り、黒字化するケースの方が少ないように思われる。
 その場合を鑑み、制作だけの年度を、概ねで暫定B評にするということである。

 (繰り返すが‥これは評労をどうするかであり、実の黒字の分配の話ではない)

 ただし、五年も十年も新作が出ないような状況に対してまで同じように了承することはできない。

 ‥それの意味では、一定の基準が求められる。特に解散をする必要は無いが
 委員会や企画を維持したまま、評労としてカウントされないとした向きに扱うということだ。
 (その様な場合、非属の者はその影響を被る‥その年度分の組織評を得られなくなるからだ)



1-11)8

> 通常、予算確保には、戻り布での予算公募が挙がるところだが


 娯楽ものの制作費に、戻り布の全体量が多くを締めるようになろうものなら
 実的生産の開発投資総量分が目減りしてしまう事態が危惧されよう。

 事前対策しておかなければ

 黒澤明級が数人出現したことで、社会的暮らしへの改善が数十年遅れるなんてことにもなりかねない。
 (それはそれで、社会背景の変化がゆっくりとし作品背景と一体となる面で好いのかも知れないが‥)


 ‥そもそもの前提として
 大人数的制作に投資をする意味と、社会的暮らしへの改善に投資をする意味を比較した時、
 どちらを優先すべきかは問うまでも無い。

 尤もこれは‥

 個人が工房等を経営していて、それに個人が投資する意味とは大きく異なる。
 そのような場合、お互いの都合を考えて、戻り布を用いることは万民幣権の意味からも自由である。

 (戻り布から生ずる消費率は県・州の取り分だが、禄からの消費は概ね地元自治体の取り分になる)
 (創作活動に伴う戻り布の案件を認めないわけでは無いが‥概ね自分たちの給が想定されるだろう)
 (‥手塚治虫なら、マンガの稼ぎを全部戻り布にてアニメにつぎ込む。でも減らないラッキー♪)
 (‥経費を減らせれば、それだけ皆に黒字の分配が行き渡る。それがどんな感じになるかでもある)
 (‥そう考えると、非属より勤属の方が圧倒的に実入りは良いはず‥でもまぁ人気稼業だからな)



1-11)9

> 個人として、同時にいくつものプロジェクトに参加している場合もある。
> その場合の考え方としては‥(個人評労の話)


 ・平均を取る。
 ・その中の最高評を取る。
 ・基本となる勤め先の評労を優先‥などの見方に分かれるだろうか。

 一律にせずに、ケースバイケースで考えれば良いだろう。
 (評労の対象が不確かなら、常にその都度行政に掛け合って、取り決めを交わすことである)
 (‥自治体としては、その点で采配の掴みを得られるなら、地域間での差別化を見いだせるかも)

 ‥ただし全部を合計するとした考え方はしない。

 なぜなら
 一人による権限や頑張りの集中は、もはや活躍の場の牛耳りでしかない。
 他の者の依存や嫉妬の種にもなりえ、優・良に価するかどうかは‥疑わしくなる。
 労働の創出の観点から述べれば、それはまた別に表彰でもすれば良きことだ。
 無理に評労に織り込むべき事だとは思わない。それでなくとも黒字分の配分は管理責任側に分がある。
 (‥黒字がでていれば、本人の実力と回収はそこで成せるだろう。そうで無いなら評労にも価せずだ)


 ※ ‥要するに、一過性&大人数を前提にした共同体活動での評労には、個人枠に例外が考慮され、
 組織所属&企画出向的参加の場合なら、個人評労に+αが乗る場合もある‥ということだ。
 (‥書面だけの扱いでざっぱりとせず、できる限り当人と、情報と確認を交わすことが肝心だ)
 (といっても、組織評労の方が金額としては大だから、継続しないと大きく見えない点は微妙か‥)
 (でも百社組なんて枠組みで考えると、S評は難しくなるだろうから印象は違ってくるのかなと‥)



1-11)10

> 有志群的プログラミングのプロジェクトの場合


 ‥これは、企業の自宅勤務でも言えることだが
 結論、ログイン時間と更新UPの状況から推定せざるを得ない。

 それにしても

 片方は半ばボランティア、もう片方は組織の構成員である。
 お互いの顔を知る機会があるかどうかで言えば、その管理行き届きの質はまったく異なる。
 また、企画がぽしゃれば、ボランティアの場合はそれこそただの無かったの世界だ。
 ‥この両者を同等に扱うことは難しいと思う。


 ‥ネット上によく見かける寄付を募った形にしても
 個人なら普通に経営してやり繰りに結びつけることが出来る。
 開発したアプリ等を、禄と非評労穂の枠で、どれだけ買って貰えるかの怪しい部分もあるにはあるが
 まずは、馴らしで試すことは十分に可能だ。

 S幣を稼げれば、その稼いだ分で、自分で自分に戻り布をして経費削減に繋げられる。

 一定のペースが確かなら、生産穂認しても十分に経営の軌道に乗せられることになる。
 (勤属であっても、内職の形で、会社で通らなかった企画を個人で進めることも可能だろう)
 (‥尤も、時間と体力があればの話だ)



1-11)11

 ‥とにかく
 行政への登録がないと、そもそもの時間給P幣の穂認額としてのカウントが成り立たない。
 それの公平性が担保できなければ、ネット有志の活動とて、端からカウントの対象に入らない。

 誰かが社会の役に立とうと志しを立てても、
 評労の対応が成されていないのでは、公平性への理解を得ることは出来ない。
 役人はその点に於いて常にこだわりを持つ必要がある。


> 公平に穂認を認めるとしたことで、役人の何を為すべきかも変わるということだ。


 ‥その昔の役人で言えば
 兵農分離したからと言えども、地域の作物の育ち具合に日々気を配るのは当然の姿勢だ。
 それをせずに、年貢の取り立てにしか頭が回らなくなれば、そのサイクルは悲惨なものになる。

 しかし、百姓は、役人が日々様子を見に来る姿に、感動を覚えることはそう多くない。

 それはそうだろう‥例え、四公六民だろうと、年貢でもって行かれるのは嫌なことだ。
 そう思っていれば、良い役人ほど煙たがられると言った場面もあったことになる。
 また逆に、下心をもたげても‥其に非ずとも‥もてなすことが当たり前になった場合でもそうだった。

 結果として、庶民を顧みない空気に繋がったと言えようか‥まさに甲斐の無い鏡似性だった。


 ‥で
 民衆に権利を与えても、その習性は抜けず
 踏襲して、役人は大衆から得ることしか頭に無いから、同じことが繰り返される。

 民主主義なんだから、本来、税制度なんか不要だ。

 そもそも年貢を必要としたのは、戦の大事に糧が無いと始まらなかったからだ。
 世界で平和を目指すなら、そもそもの戦が不要になる。でもいざという時の対応は求められる。
 つまり‥不要なら不要で、逆に不安になるから、民衆の方から政に関わろうとする流れになる。

 ‥そこの志しが、後に繋がって行かない社会に、未来なんかあるわけがない。
posted by 木田舎滝ゆる里 at 23:43 | Comment(0) | 零戻メモ | 更新情報をチェックする
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