2015年06月17日

【刮目】親爺なる響き

記稿.2015/06/17

 江戸時代の長屋文化をよくよく考えてみれば
 これこそが現代の核家族の原型になったとも思える。

 江戸は地方とは違い、出稼ぎ者の集まりでもあった。
 江戸生まれが三代続けば、江戸っ子なんて定義があるにせよ、
 火事も多かったし、そこそこの邸宅を構えて代々続くお家事情が、庶民の暮らしだったとは思えない。
 ‥どちらかと言えば、そういうのは地方に多かったことになる。

 言うならば庄屋だが
 江戸には様々な大名屋敷があったことから、江戸における名主のインパクトは薄かったように思う。

 そんなこんなで、家督を長男に言い渡して隠居する親爺像は、
 いつの間にか、そんな江戸の風情の中で、ひっそりと親爺から親父に変わったと言えるだろう。

 しかし地方ではまだまだ親爺の権限が強かった。
 ‥現在で言えば、脱サラ年齢に達する頃合いに
 家督を長男に譲って自分は悠々自適にしたいことを始める。それが親爺だ。

 親爺は若旦那よりずっと物事が見えていたから、誰が見ても貫禄十分だった。
 その上、孫に優しい。親爺の立場は不動だった。そんな御仁が大勢のご時世でもあった。


> ところが、文明開化が始まると次第にそれは形を変え始めた。


 大家族などと言ってみても、それは地方の文化だった。
 江戸を始めとした人の集まる都市部には、先進的にも核家族がちらほらしていた。
 それが明治になると急激に増え始めた。
 ‥江戸時代以上に繁栄すると思い込んで新都に人が集まってきたからだ。

 でも、期待通りにはならなかった。

 ‥都会でそんななら、地方にも影響が及んだことになる。
 それでも地方の場合は、上に立つ者が入れ替わったぐらいのことで
 親爺のインパクトが崩れ去るほどでは無かった。
 それにしても庄屋の家からお手伝いさん衆が消えはじめ、身内だけの大家族へと変わりはじめた。


> 大東亜戦争が終わり、減反が始まると共に親爺はすっかり消える。
> それ以降‥親爺に見て来た名残を、どこか親父として言い表すのが一般的になった。


 減反は、一次産業では食っていけなくなった社会事情を象徴している。
 その結果、地方から若者が流出し、そんな核家族世代の中で親父が一般的になった。
 ‥だが、それも昭和と共に逝ってしまった。

 バブルが崩壊→終身雇用が崩壊→グローバル間での競争が激化

 時代が平成に変わると共に、決定的に、親父はオヤジに変わった。
 オヤジには、何の威厳たる響きが無い。それこそ、ただのオヤジだ。
 ‥男が大黒柱たる時代が終わったさびしさでもある。


 しかし、親爺への郷愁は「中小企業のおやじ」として、まだまだいくらか健在だ。
 ‥それでも、いくらかでしか無いであろう。

 グローバル主義に圧倒されるようになり、「中小企業のおやじ」もまた減っている。
 男同士でもそんな社会はつまらないものだ。女から見れば尚更だろう。

 でも、女はそんなつまらなくなっているにも係わらず、自衛に積極的だ。
 女は自衛するものが有ろうと無かろうと、とにかく自衛には本能的に積極的だ。
 ‥結果として、そもそものつまらない原因の張本人である資本経済になびいたままだ。
 (今の世の大黒柱はカネだからな‥実質そいつは債権と呼ばれている)


> おカネの有るか無いかを基準にすると、社会も暮らしもつまらないものになる。


 「‥では、親父は何を持っていたのだろうか?」

 庄屋を基準に置くなら
 土地との繋がりになる。自給自足の暮らしとも言えるだろう。
 コメ=お金でもあったわけだが、コメは食えてもカネは食えねぇ。
 戦後しばらくは親爺は居たんだから、自給自足こそが自負を支えてきたことになる。

 ‥商売にしたってそうだ
 外からの注文を承るだけの仕事と
 自給自足のわらじを履いている者との間には、明らかに親爺ほどの差がある。
 その差は、どう考えたって‥カネでは手の入らない感触だ。
posted by 木田舎滝ゆる里 at 23:52 | Comment(0) | 刮目/2015 | 更新情報をチェックする
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