1-3)改稿.2015/06/23...20150621...
> 人生には大きく二つの選択肢がある。
・ 太く生きる。
・ 長く生きる。
問うまでもないが、無為自然は後者の思想である。
しかし、字句の意のままに本当に何もしないのでは、とても長くなんぞ生きられない。
‥では、何を以て無為自然と言うのか?
> まず、凡人はこう考える。
宇宙は無限。その時間は永遠。
‥どうしてそう言えるだろうか?
しかしそう考えることで、人は無限の可能性を信じ込む‥
だが、宇宙は有限だし、時間も有限だ。
だからこそ、永く生きながらえる上での思索が求められた。
‥これはなにも、有限だと断言しているわけではない。
無限をひねり出すも何も
私たちは常に{空間}={意識}、{時間}={意識}の係わりに置かれている。
私たちの選択で、私たちの空間も時間も維持されているのだ。
‥エゴ・貪り・搾取・盲目な生産が生ずると、途端に行き詰まる。
そこは、常に私たちの意識次第だ。
> では、問おう。「永く保つ上での究極とは何か?」
超越した意識を携えれば永遠も可能かも知れない。
‥それは、神と思しき境地ということだろうか。
否否、人にそのような器などないし、得られるだろうにせよ死期と同じやも知れぬ。
そこでこう考えるに到った。
仮定された意識の超越を携えて永遠が担保されるなら、其を∞と定義できる。
つまり、時間において終わりが無いに等しいと言うことだ。
時間において終わりが無いと言うことは、始まりもまた無きに等しい。
よって、∞≒0の解釈が発生する。
‥それに酷似した様を「無為」と呼ぶ。
1-3)1
> 例え話をしよう。
手を突っ込めそうな程度の穴の中に餌が見えている。
猿がその穴の中に手を突っ込んだ。餌を掴むことはできたが今度は手が抜けない。
猿は慌てる一方で、無駄に騒ぎわめいている。
‥どうすれば良いのかと言えば、一旦、餌を諦めれば手は自由になる。それだけだ。
はじめの目的は、餌への好奇心だった。
その状況が変わり、穴から手を抜く事に変わった。
目的がその都度変わっているのに、そこを理解せずに強引に事を進めようとする間抜けは、
人の社会でもよく見られる事象だ。
太く生きる次第を選択したいがゆえに
遠目に見ればわかりそうなことでも、そこになかなか思いが到らない。
‥早い話が切り替えだ。思考をリセットして、事の始まりに戻せば良い。
> では、ここで質問をしよう。
はじめの目的はあくまでそこに有る餌を手にすることだった。
でも、今のままではそれを実現できそうにない。
ではどうするか?
1).自分で方法を考える
2).他の餌を探しに行く
3).誰かが成し得るのをうかがい待つ
4).一旦穴を埋めて、無かったことにする
大勢の者が飢えている状況で、その穴の中に虫ほどの大きさの食べ物を見つけた。
でも取り出すことができない。そんな時は無かったことにするのも分かち合う上でのアイデアだ。
しかし
資本経済にどっぷり浸かっていると、このような思考がまともに取り上げられる試しはない。
なぜなら、頭数が揃っていると、無駄に相談が始まるからでもある。
そこで、派閥が発生したり、争いが起こったりと‥それが相場になろうか。
‥ならば、そんな時の選択肢は4でも好いだろう。
また
自分一人だったなら、方法を考えるにしても、腹が減っては何とやらである。
また、番人になってまでその場で考え更ける必要もない。似たような状況はまた有り得るだろう。
誰かがそれを成し得ている状況に遭遇するかも知れない。
そう考えれば、選択肢は2が通常だ。
‥大勢と単独の状況しだいで対応が変わる。目的が変わる。
好奇心の対象が変わる。
なぜそうかと言えば、それが無為の流れでもあるからだ。
‥だが、それだけでいると
どことなく淡泊な生き方にしか見えて来ない。それはつまり‥長く生きる上での必要を欠いたままだ。
されど、集団で選択肢の2を選んでも、概ね選択肢の3に入れ替わる。それが相場だ。
なんだかんだと、最終的には、原点に戻らざるを得ない。つまり、選択肢の1だ。
‥そこで「自然」の部分が付いて回ることになった。
「自らの必要は、自らに然りであるがゆえに、自らが果たすべきにある‥」
1-3)2
> ‥しかしどうだろう、それは本当に自分が討ち果たすべきことだろうか?
端から見れば、己の必然性なんぞ常に無為に等しい。
条件や才覚または動機の揃っていない様に、資格など無いとわきまえるべき事だ。
そこをわきまえた上での道があると言わざるを得ない。
‥本当に必要ならば、嫌でもお鉢が回ってくるものだ。
努力論に固執すれば、努力だけを目的にしかねない。
努力自体にそれほどの意味があるとは思えない。
目的は持続可能かどうかだ‥汗を掻くにしても、その一環であれば十分だと言うこと。
それ以上の汗を求めることは、ただの趣味にすぎない。高みを目指すのは自由。
(しかし私たちは、持続可能であるための水準値を知らないままだ)
‥とは言え
多くを知れば知るほど、遠目からの眺望は、無駄の多くに興味を維持できない。
ゆえに、知り尽くすことは、持続可能たらしめる上での絶対条件では無い。
無駄に細かきを知らぬことで、目的ごとに活欲が湧いていられるのなら、それもまた真である。
適材適所ということになるにせよ
そのままに任せきりのままだというのも不自然だ。
逆に、口を挟まれたくないプライドというのも不自然だ。
‥相手を見て話さない言動が無知にあるにせよ、それをどう見るべきかもまた常に無為である。
> 持続可能たらしめる上での中継ぎは知恵である
‥そう言うと、人は自分勝手に振る舞うことしか頭が無い。
中継ぎの代わりならいくらでも居るとか‥まぁそんな野暮発言ばかりだ。
でも、宇宙的に見ても、中継ぎ三昧にあるのは事実でもある。
また
力任せに太く生きようとも、最終的には長くあろうとする流れに置かれる。
‥それはつまり、ポイントで見ると、代わりなどないと言わざるを得ないことだ。
「宇宙における無限に満ちた可能性など‥常に無し。」
「在るのは、お互いの頭数に基づいた可能性だけである。」
「その求められるべき今を繰り返せずして、無限の可能性など生るわけがない」
> ‥人類を企画した側ですら
その記憶は途中から飛んだままに失われていると聞く。
つまり、私たちのすべては、悠久の時空を思うばかりで、その実的な経験が無いと言うことだ。
わかっているのは
‥一時的に滅んだとしても、いずれまたどこからから再生するが如しに現れ出でる性質にある
ということだけのようだ。
(その現れ出でる性質こそ、原初的な作用の成し得る無為自然と言えるだろう)
(命が命を欲するがゆえに、彩りを揃えようと無為に胎動するということか‥)
1-3)3
> お互いの思考が、お互いの空間と時間を生成している。
その中でなにがどう紡がれていくかが自由に見えたとしても
後世代に受け継がれることに乏しき有り様なんぞ糞以下だ。
‥ところが、どういうわけだが、現代人は、そこのおつむがさっぱりに見える。
自分の是非とモチベーションのことしか言い合わない様は
宇宙的に見て、病気としか言いようがない。
それを以て先進的とか言っているようでは、ただの酔っ払いと同じだ。
選択肢が多くなりすぎて、逆に何をして良いかがわからなくなり、人生の焦点が定まらなくなる。
そのような内情を「文明酔い」とでも呼んでおくとしようか。(平和ボケとは視点が異なる)
> 其はまさに
下手な恋愛数打ちゃ当たる的なご意見多数で
当てることが目的で、恋愛ってそう言うもんじゃないと‥誰もが実際そう思っていても
数打ちゃ当たる的なご指摘に始終して、はいお勘定ってなもんだ。
‥其を病気または症候群と言わずしてなんというのか。
‥そもそもは良い悪いの考え方に対する足り無さにある。
遺伝的に見て、あなたの適正スポーツはこれという診断を得るのもそうだ。
皆でそんな診断を受けて、皆で右に習っても、結局は、ライバルの凌ぎが激しくなるだけで
芽が出るかどうかなんて確率は、以前とそれほどに変わるものじゃない。
‥まぁそういうものだ。
だから自分がやってみたいことにトライするのが無為自然だ。
その流れの中で、人生における出会いというやつもあるだろう。
言われたままの選択で得た出会いと比べたら、ずっと新鮮だ。
たとえそれが、負の記憶になろうともである。
だってそうだろう‥誰かの薦めでそうなると、都合良くその人を憾むばかりに陥る。
でもそれは、自分への無責任が招いただけの結果でしかない。
そうでなく‥自分の選んだ道半ばでの出来事なら、自ずとそれに意味を見いだそうとするものだ。
だってそうだろう‥自分の人生を嫌っても、前に進めやしない。
出会う人を選別しているような器で、得られるビジョンなんか高が知れているじゃないか。
そりゃ、中には一生の敵みたいなワルも出るだろうし、腐れ縁もあるだろうさ。
‥それはそれで、まったくの偶然でもなさそうだってことで、受け入れても好いだろう。
> でも、恋愛になるとそう言う論も聞き捨てならなくなる‥不思議なものだ。
頭でわかっちゃいても、生理的にほとほと無理。
感情的にも、何でも良いとは思ってはいないわけだし、
‥老子がそこまで含めて、無為自然を説こうとしたかどうかは知らんけどね。
それでも
等しく自身の鏡似性を受け入れる気構えがないなら、運の方から逃げて行くものだ。
‥運を手にしたいのなら、自分の中に無為を見いだして自然になることだ。
自身の目標は勿論、その都度その都度の空気に呑まれずに舵を取れる者は、
自らの器に応じて前進する力を周りに放つ‥
そのためにもまず、無為を知らんとな。
‥仏教で言うところの空の境地と同じような感覚にもあるが
仏陀の教えの枠という縛りが漂って、善悪に縛られがちな念いを己から解き放つのがそれ、
無為自然は、己の中から持続性を選ぶとした意味合いがそもそもの色合いとして異なる。チーン。
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