2015年07月23日

【哲学】LOVEにチャレンジは必要か?

1-2)記稿.2015/07/23

> ‥なんとなく生理的にも好感が持てるから好きになる
> それはLOVEの始まりに於ける一つの流れだが、そこにチャレンジなど無い
> 何を欠いているのかというとこんな視点‥


 ‥例えば、宇宙に於いて異星人とも付き合わざるを得ない時
 友好とは即ち、お互いに混じり合う段階に達する向きを指す。

 それでも

 純血を保とうとすれば、そこまでの緩和などとても容認されたものではない。
 なぜ容認できないかと言えば、その理由はそりゃ様々だ‥

 だが

 なんだかんだ政治的な申し述べをすれば、そこにチャレンジは存在しない。
 ‥そうだ、純血を保とうとすれば、友好上に発生せざるを得ないチャレンジとて先送りされる。


> 遺伝的な意味合いにおいて、其はお互いの行き詰まりにも関わること‥


 しかし、行き詰まっておらず
 不死鳥の如き活性を保っていられるというのならば
 とくに混じり合ってまでのチャレンジをする必要は無きこと。
 ‥そしてそれは、唯一の例外的な存在もしくは関係性として目立つことになる。

 ところが、例外的であるというなら

 相手にしてみれば、またとない魅惑的な存在に見えると言うことだ。
 誰しもにそう見えることになろうか‥それが例外的な可能性の保持と言うものだ。
 ‥時間的経過で捉えれば、一対多のケースにもつれ込もう。それが流れであり相場でもある。

 だから八方美人にも
 ラブコールされて付き合い始めたものの‥婚約話の段階になるとそっぽを向く。
 そんな流れにもなる。(まるでどっかの国の外交だ)

 ‥それでは、お互いに端迷惑な事情を抱え込むばかりになる。

 それでも、相手にしてみれば、そんなこたぁ知ったこっちゃないと言わんばかりに押せ押せだ。
 要求すべき事のあらゆるを、重箱の隅を突っつくようにして、押し迫ろうとするだろう。


> そんな時


 「受け入れることがLOVEなのか?」それとも「距離を保つことがLOVEなのか?」

 ‥相手にしてみれば、行き詰まった瀕死の様を抱えているだろうことに違いはない。
 ‥また種の純血は、一度失えば、宇宙的な規模での損失にもなろうか。



1-2)1

> 相手は当人の譲れない物事を理解できていない


 その時、そこにLOVEとしての釣り合いは保たれないだろう。
 しかし、鏡似性に於いて釣り合いが無ければその事象は発生し得ないことだ。
 ‥其は己の器にそぐわぬ背伸びしたLOVEを望んだということだろうか。


> 相手は当人の譲れない物事を理解できている


 それを踏まえて尚迫らんとする。
 そこに生じ得る鏡似性は、必ずしもLOVEであるとは限らない。
 ‥理解があるというのなら、一時的にも諦めようとする空気も雑ざろうというものだ。
 ‥そしてそれは、当人の意思表示のハッキリとした姿に比例する。


 「LOVEの対象は、内か外か‥焦点は常にそれだけだ」



1-2)2

> 内になる可能性が高ければ是とされ、可能性に欠けば非とされる
> お互いの調和が保たれるなら、尚すばらしい


 支えられるだけのエネルギーに富んでいると、純血は保たれるばかりでなく
 相手をも感化し得るだけのパワーを秘める。
 其をLOVEと言うのなら
 多くの者らが思い込むままに、すべては受け入れられるはずだとそう考えることになる。
 でも、相手の器や力量を推し量れないからこそ、無駄に期待するのが落ちでもある。
 ‥つまり、希望的観測を以て、LOVEとする心理もまたそこに絡みつく。

 少なくとも

 自らが受け入れた結果、廃人に成らざるを得ない有り様をLOVEとは言わん。
 「産み出したかったのはなんだ?」
 「相手に滅びを強いて、LOVEと言えるか?」
 「片方だけの生きながらえなんぞ、いずれまた瀕死に及ぶものだ」
 「そんな繰り返しの様の中に光明など無い、巧妙さがあるだけだ」


 ‥チャレンジするにしたってな
 勝算の欠片も無いチャレンジなんぞ、ただの無鉄砲というものだ。
 脳天気だけのLOVEを望んだってな、何ら進歩をもたらさないのならLOVEに意味なんてねぇ。
 そりゃ、一時的に放り出してみるのもLOVEって事にもなるだろう。


> 結局のところ


 どこに方針があって、自らの内に何をもたらさんと望むかは、外には無い。
 誰かが望むことではない、自らが望むことだ。
 偶然では無い、創造だ。
 ‥ならば、自らの内の釣り合いでしかLOVEは生じ得ない。


 過度な期待もまたLOVEと呼ばれるにせよ‥
 お互いが見ている方向がバラバラなら
 合わせるべき力もバラバラで、奇跡にも届かんだろう。

 それゆえ、合わせることだけを強いるのは常に力乏しき亡者の言いぐさだ。
 ‥否、ただ渇望ゆえの愚痴と言えるのかも知れない。


 「‥本当に力を合わせる気があるなら、まずはお前から諦めるな!」
 「‥真の祈りとは、諦めからは生まれ得ず、諦めの悪さゆえに刻まれ続くべき所作に在る。」
posted by 木田舎滝ゆる里 at 09:30 | Comment(0) | 哲学/一般 | 更新情報をチェックする
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