2015年07月29日

【刮目】正義と先手と堂々巡り

1-3)記稿.2015/07/27

 正義はいつも後手に回っている。
 それはそうだ。正義が悪を倒すというだけの存在でしかないのなら
 敵がどのように動くのか‥それの影も形も無い状況では、なんら対策を立てようがない。


> では‥正義が日々の日常において先手を打つとは、どのような様を言うのか?
> それを私たちが知らないのでは、真の正義なんぞいつまで経っても成り行くまい


 ‥まぁ、難しく考える必要はない。
 ポジティブに好きなことをすれば好いだけのことだ。
 でも、調子こいてりゃすぐに周りに迷惑なことを始めちまっているのが、未熟者らの流れとしてある。

 それは誰が考えても正義ではない。むしろ悪だ。
 (悪の概念なんて、言ってしまえばそんなもんだ。だから勝ちゃ善いと口癖にもなる)
 (無駄に力が強いと言うだけで、誰も文句を言えなくなるからな)


> そうだ‥先手を取ろうとしてポジティブに生きようとしても、次のステップで混乱が生じる


 一歩間違えれば、それはそのままに悪としての攻撃の様になるだろう。

 ‥そこで、だからこそ
 人様に迷惑を掛けてはいけないとして、盲目的かつ保守的に生きる選択が始まることになる。
 その結果、息苦しくなり、ストレスを溜めて破壊的な自己像へと癒着もしていく。
 (一般的な善悪の悪の概念はこちらだが、事の原因はここに於いてまったくの自分に帰結する)


 この段階で目に余る悪性と言えば、未熟者のエスカレートに暴走、あと真似したがりのわがままだ。


 自分のしたいことをお互いに押さえ込んでいるから
 解放されがちな誰かや何かを見て、自らに取り入れようと切望が高まり真似も始まろうか。

 (‥流行りと真似は、その時、自分をどの程度押さえ込んでいたかの点で異なる)
 (流行りは素直に廃れるものの、真似には意固地なところがある)
 (意固地には勘違いが付きまとう‥そもそもの真似は入り口なのであって出口ではない)
 (しかし、意固地ゆえに出口がそのままに続いていると思い込んでいる)
 (己に取り入れんとしている事の次第が如何様な器かは、流行り廃りで見る客観的姿勢も大事だ)

 (それとの付き合いに、死に場所を見つけたのなら誰も止めはしない)
 (‥尤も、この世の敵と判断されれば、話はまったくの別だ)


> 自分を押さえ込んでいると、主体的に何かをするということにスイッチが入らない


 オリジナルのアイデアを探そうとしても見つからないのは、この点に帰結する。
 アイデアという奴は、自分の必要における延長に続いている。
 自分に必要なことは、ある程度誰かと共通しているものだ。

 ‥その共通を事細かに感じ取って、独自の形に訳せるかどうかは、
 「誰にもわかりやすさと使いやすさを」‥とのこだわりを、どのように理解しているかにある。

 だってそうだろう。

 それが正義としての先手を打つという響きだからだ。
 「他に何がある?」


 ‥まぁその前に、色々と自分から進んでしてみないことには始まるまい。
 何でもかんでも至れり尽くせりのサービスに溺れていては、気がつけば総員退化への道のりだ。
 「見よ!」滅びる貴族のパターンがそこにある。



1-3)1

> 自分のお調子が、度を過ぎて間違いに突入していたら、素直に謝るのも正義の行動だ。


 ‥ところが
 お互いにストレスを抱えていると、それを許して認め合おうとはしない。
 それはそれで、お互いに際限のない堂々巡りを呼ぶばかりになるだろう。
 誰もは勘違いを犯しつつ‥自分こそ被害者だとの顔で、正義の成敗を下さんとして決め込んでいる。

 ‥どう考えたってミイラ取りがミイラだろう。

 許しておけばそこでまとまるものの、わざわざ激情を繰り返し
 ゆえにその点に於いて、やり過ぎた詫びを入れざるを得ない側に回るのだ。
 ‥しかし、その詫びを入れるべき有り様について、多くの者に自覚は無い。

 なにしろ、激昂している。
 謝るべきは相手であるものと‥その許せない因果が空回りをして、余計なことへと飛び火する。
 ‥当人らにそこまでの俯瞰なんか無い。あるのは、どこまで言っても自分への謝罪の訴求だ。

 つまり

 相手が謝罪をしても、許さず、相手の謝罪を取り上げてしまうわけだから
 その過ぎた姿勢は、どうしたって自分から謝らなければならないのに
 自分が謝る必要なんて、これぽっちも気持ちには湧いて来ない。

 ‥そこで、無駄に仲裁役を必要とする次第に至る。
 (結果、仲裁役の者に余計な義理を感じたり、謝礼をする羽目になろう‥なんとチグハグ)


> 是が社会一般に当たり前になることで


 自分たちの自由にわざわざ監視役を付けるのがもっともなスタイルだとの錯覚を生む要因と化する。
 そこに登場する仕組みはちっとも正義なんかではない。
 ‥それこそが、搾取的な管理社会としてのひな型だ。



1-3)2

 ‥いつの間にか
 正義のツラをした悪の根っこみたいなうんちくを、皆でもっともだとして崇めてしまうのだ。

 たいていのそいつらは、
 尤もな顔をして、「アレはしても良いですがコレは駄目です」とまくし立てる術を生業にする。
 ‥それはもう、ふんぞり返って偉そうだ。


> 結果、私たちの多くは、この世に生まれ落ちてからそれらに縛られ
> いつまで経っても、本来的にも本質的にも、自らが望んだ選択を味わう機会を失うのだ


 そんな時間を積み重ねていくと、自己嫌悪にしかならない。
 だから、自分のやってみたいこともしおしおで、どうしたかったのかもそぞろに分からなくなる。
 ‥終いには、ポジティブな舞台で目立つ輩に噛みつくことにもなろうか。

 (最近の若い奴らは、まるで成ってない‥とかな)
 (‥明日は我が身に落ちて、ようやくにして溜まっていた何かが大噴火)
 (トリクルダウンなんか来やしない‥その前にさらなる底辺への降下が先に訪れよう)
 (社会がそんななら‥正しく頑張っていても、煽りを食らう羽目に合うに不思議はない)

 それでも

 そのような態度の現れは、別に欠陥と言えるような症状ではない。
 かさぼたが落ちたように、やりたいことが吹き上がるようになっただけのことだ。
 ただ‥なまじ余計な知識があるのと、積み重ねてあるべき穏やかな記憶が伴わないことから
 急を求めて自制が働かなくなり、結局は迷惑な事をしでかすような事象に傾くことになる。
 (‥そこで、へこめば元の木阿弥になってしまうので、大抵は抗って主張の姿勢を崩さない)

 それらを見て、また、周りがくだらない視点で、ありがちな法に縛られたままなら、
 残念なことに、その者の自由を制するようにしか発言されず、ますます孤立感を募らせる。
 ‥下手くそな子育ての有り様そのままだ。
 ‥年齢的に社会人になったって、心の置き場に土台が無かったら、そりゃキレるだろう。


> こんなくだらない堂々巡りから離れるには


 無理しない範囲で、コツコツとしたいことをするしかない。
 それこそ、周りなんか気にするな。孤独だって気にするな。結果だって気にするな。
 まずは自身のそんな孤独感を薄くしていくことが重要だ。

 「好きなことをしているのに、孤独って何?」

 そこが分からないのなら、端からワクワクが分かっていないようなものだ。
 だってそうだろう。
 ワクワクしている自分と一緒に居ると言うことを以てでしか孤独感は遠ざからないのだから。



1-3)3

> ‥中には


 一人ではまったく機能しないタイプも居るだろう。
 その辺は、自覚を以て、人の輪の中で成長するしかない。
 ‥だってそうだろう。それがあんたのワクワクの原点なんだからな。

 そういうタイプの失敗の多くは

 自分に関わる人間関係の中身と質を、自分で判断できないという点にある。
 そんなタイプが、別に気にしないとだけで思っていると、成長させる上での何かが訪れる。

 ‥時にそれは、自分に火の粉が降りかかって逃げるようにして、そこを離れる出来事かも知れない。
 自分から言いだしても、無駄に引き留められようなら、いい人を演じてそのままだったりだ。


> ‥天地にだって流れはある
> ならば、人の流れが変われば、自分の居場所も変わらざるを得ないのだ


 残念なことに、流れを知らず動かずいつまでもそこで立ち往生するばかりなら
 どうしたって、孤独と対峙せざるを得ない自分を味わうことにもなるだろう。

 面倒くさいのは‥その手の者らの多くが、
 誰かに手を引いてもらわないと、受け入れられないというパターンに陥りがちに至る点だ。
 ‥ようするに、正義のヒーロー・ヒロイン待ち状態。
 (そんなのは誰が見たって、勝手にしてくれよの中二病と変わらんのだよ)


 普通の中二病なら、厚かましくも才能が伴えば注目も集まろうが
 是のむっつりな中二病は、存在感に乏しく、それこそ一人だけなら避けられがちにあるのが特徴だ。
 でもまぁ、社会現象にも至れば、嫌でも注目を浴びて他人事ではないと思わせる。
 ‥それの意味では、同じ中二病として扱えない事情にあるのは確かなことだ。


> 結果的に


 嫌でも政治対応として正義役が引きずり出される形に填まるわけだが
 当のむっつりな中二病対象者らには、そこまで具体的な要望はない。
 器用に意見を述べられるよすが自体が、そもそもにして希薄だ。(生活的慢性症状)

 ‥環境を変えて与えることが症状改善への特効薬だが

 この手の対象者に多くの選択肢を与えると却って混乱し、にっちもさっちも行かなくなる。
 だから、政策的強引さも多少求められるところでもある。
 それにしたって、彼らは愚痴もこぼさないタイプにあるから
 ‥調子こいて、政策側が手を抜いてばかりいると自らを墓穴に招く羽目になる。

 なにしろこの手のタイプが腹を立てている場合
 それは相当で、何を以てしても感謝してもらえない状況を抱え込む。


 「人のためにも為らない、自分のためにも為らない‥そんな先手は正義では無い」
 「むしろ本当にまったく何もしない怠惰の方が、随分とマシである」
 「其を意図的にやり尽くして、ようやくにして、慈悲というものが見えてくるものだ」
posted by 木田舎滝ゆる里 at 02:16 | Comment(0) | 刮目/2015 | 更新情報をチェックする
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