1-2)記稿.2015/08/30
> 恋は盲目とは言うが、その恋が幸福をもたらすとは限らない。
「では、その感覚はなぜやって来たというのだろう?」
‥誰しもがそこに運命なんてものを担ぎ出す。
幼少の頃はなんだかんだと、だんまりでも過ごせていたことが
思春期を経ると、それを口にしないのは損だということに気がつき始め、
‥色々とした諸事情が絡み始める。
昔はどうだったかは知らないが
現在の教育環境から来る抑圧は、どうしようもなくそこのインパクトを大にしている。
(‥不思議と誰しもがそう感じている模様)
否否、社会の仕組みからしてそうなんだ。
しがらみという奴に対して
あれこれとしたジレンマを猛烈に感じるのもまた恋愛の最中にまとめてやって来る。
> もしてかして‥これは鏡似性ではないのか?
1-2)1
> 不満を沢山に抱えていると恋愛時に抗えなくなる程の盲目に襲われる‥
> ある程度そこに満足感を得ることで、その不満の消滅と同時に恋も冷める!?
‥鏡似性は常に同時発生的でもある。
「何が不満だったんだ?」
誰しもはそこに答えを用意していない。
だから未消化にも不満の散った気分に浸れると、次の欲求がもたげ始める。
タイミングはそれぞれだ。不満への対処がお粗末にあれば有るほど、それを鵜呑みにすることになる。
そしてやっちまうのが‥ポイ捨てだ。
「平然と目の前の相手との関係をポイ捨てする者に、どうして幸福が与えられようか?」
幸福とは継続でもある。誰しもが今在るレールが続くことを以て幸福と呼ぶであろう。
そのレールの角度がどうあるかに条件付けようとも、進んでいけることは至福なのだ。
でも、山は嫌だとか、谷は嫌だとか抜かしていると不満を蓄積させることになる。
‥脱線してみたくなると言うわけだ。途中下車とも言う。
脱線や途中下車の先に何があるかなんて、さほど考えちゃいない。
好奇心だけが優先している。敗北感に苛まれていてもプライドが腹を決め込んでいる。
‥そこにちょっとした好い感じがやって来ようならついつい信じ込む。
でも勘違いしちゃいけない。
チャンスをゲットしたというよりは、それは藁をも掴んだ感覚だ。
> 不満の正体を知らずに、同じ不満を抱えていては同じ失敗を繰り返す。
似たような不満を抱えた相手に惹かれるということだ。
少年少女の頃はだんまりだったからそこを推し量れないというだけのことで
失敗も二度三度と続けば、嫌でも自分の傾向が浮かび上がるだろう。
‥相手に何ぞ問題なし。共通しているのは自分自身の不満へのパターンなのだと。
1-2)2
> 不満の少ないタイプとそうでないタイプ‥その違いも大きい
> 楽しさに目の行くタイプとそうでないタイプ‥その違いも大きい
世の中は情報に溢れている。
その中から自分の好みだけを選択しようとしている。
‥そのチョイスが必ずしも上手くと言う次第にはない。
不満も掴むだろうし、上手く行くように思える場合もある。
楽しさだけを引き寄せられれば良いと‥勝手にもそう考える事にはまるわけだが
そんな図々しい都合がそう易々と成立するはずもないのは重々承知のはずなのに
‥みんなに向かって「こうやると上手く行くんだぜ」なんて論理は浅はかも甚だしい。
物事の諸処が成功すれば良いのではない。人は自身の内の幸福感にピントを合わせたいのだ。
それは自分の中にある。それを感じ取れるのは自分だけだ。
‥なまじそいつを分かっていないから、情報に踊らされることになる。
> ではなぜ、不満に目を向けているのだ!?
不満にばかり目を向けていると、似た不満への入り口ばかりを手にすることになる。
目を向けるべきは、自身の至福感を引き上げるような視界にあるべきだ。
しかし、人は無駄に自分以上の価値観に憧れを抱いて、そうにない現実を見て不満と嘆くのだ。
‥其を人生下手と言わずして何というのか。
そんな不器用な人生感覚の相手をそばに置いても楽しくも何ともない。
でもその相手を前にして尚、切り替え盛り返しできないのでは幸福なんか掴めるわけがないのだ。
だってそうだろう。そんな奴は世の中にごまんと居るんだからな。皆同じ不器用だ。
‥そういう人たちからの人気を博さずに、どこから幸福がやって来るんだよ。
> ならば、恋愛=欲情=幸福感なんてものは、どこをどう考えたって偽にあろう。
抗えない‥普段からの自身の不満を受け入れて改められる心境に無かったから、盲目に至ったのだ。
自身の不満の解消に無頓着してきたのは自分自身じゃないか。
‥どうしようもなさの顛末としての暴走的恋愛、其は切ない状況を巻き込ませる要因の一つと言える。
尤も
其を基点に奮起するという人生もあるわけだから
自身の不満をどのように解消し改善させて世に還元していくかに、進行方向的な正解など無い。
‥ただし、自分の選択の結果、傷を負うのは自分だ。そして時には責任も絡む。
そしてまたこうも考えるべきである。
幼少の頃はだんまりでもやり過ごせていたし、そこに不満や不幸を偲ばせることもなく
いつだって可愛いままの自分というのを感じているのである。
そう考えれば、大人の事情のそれにしたって同じだろう。スルーしたって何でもない。
さらにまたこうも考えるべきである。
不満があるからお熱も上がるというのなら、不満が無いことを自らに自負するなら
‥お熱く盛り上がる恋に突き当たるという次第には無いのだと。
‥それはちょっとと思うなら、少しぐらいの諸処の不満は、自分が自身に与えた隠し味にあるのだと。
(ああ、超めんどくせー!)
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