1-4)記稿.2015/09/10
> 日本では、奴隷文化が構築されることが無かったが、下男下女の言葉がある。
> それは何だったか?
日本の老舗文化は、世界各国が舌を巻くほどに代々と続いてきた。
それはもう放っておこうなら、どこまで続けるかなんてわからないほどに一途の勢いだ。
実は‥
そこには、とんでもない中身を身につけるまでに及んでいた。
‥でなければ、こんなにも子々孫々と家督を受け継がせることなんか無理。
> 古来日本人は、家督を子孫に伝える上において、尋常ならざる備えをして構えて来た。
そこには、現代人が常識として持つ家族観を根底から覆す見識があった。
1-4)1
・特に戦が始まろうなら、世間のどこもお家の一大事だった。
・疫病も然り、医者なんかいない。
・子供の成長にしたって、わかったもんじゃない。
> この三大リスクを乗り越えて、子々孫々に至るまで家督を受け継がせるには
> 血族だけではとても可能性において不可能だった。
まず、養子縁組がその対策としてあがるだろう。
それは、私たち現代人が尤もと思っている考え方だ。
それのそもそもにしたって、江戸時代に多く見られたからだろう。
‥江戸時代にそうだったから、それ以前もそんな感じだろうと日本人ならそう思い込んでいる。
しかしそうではない。それでは辻褄が合っていない。
> 江戸時代には戦がなかった。だから人口が必然的に増えた‥にもかかわらず、
> ピンポイントでは、養子を迎えないことにはお家断絶も余儀なくされた。それが普通だった。
「では、戦がいつ始まるともわかったもんじゃない時代ならどうだったろうか?」
‥誰がどう考えたって
養子縁組程度では足りないのは火を見るよりも明らかだ。
そもそもにして足りなくなるお家で溢れかえっていては、どこもかしこもリセットだ。
そんなことでは、日本の文化にしたって、裾に広く太くなれた説明に見合わない。
(それ以前の課題として、文字の読めぬ者は論外だった)
1-4)2
> そこで、こう考えざるを得まい
> ポイントは、その昔の貨幣経済の在り方がどうだったかに絞られる。
とくにそれの大きな境目は、戦国時代とキリスト教の伝来(ユダ金経済伝来)の流れが影響した。
お陰で‥江戸時代にもなると、貨幣経済は庶民の間にもすっかり浸透した。
(賃金払いは、年貢との兼ね合いもあり年俸だったという)
> 戦国以前のそこんところの賃金の考え方が盲点だった
「物々交換で、どうして賃金が支払えただろうか?」
物々交換とは、保存の利かない物同士が前提だ。
そんなものを、売上として分けてもらってもうれしくない。
結局は自分で売りさばかなければならず‥だったら老舗の信用で売買した方がずっと気が利いていた。
> だから、とくに商人の奉公人の場合、給与払い文化そのものが無かった。
> (役人の稼ぎは土地or禄だった‥祝い事や儀式の席は一括で飲む。手柄とは別の扱い)
‥賃金の代わりとして
住み込み・丁稚・衣食住完備の感覚にて、主人家族と一緒に暮らしていた。
でも、主人家族との境目はそれなりにあった。
日本の慣習上、普段の食事はお膳で出された。当然、主人家族とのおかずの中身は違っていただろう。
おべべにしたってそれなりの差はあっただろう。
‥しかし
ただでさえ戦が当たり前の時代だった。
皆で贅沢な着物を普段から着込むなんて感覚までには至らず、必要なら外行き用をあつらえた。
そこに下男も下女もない。それなりの物を羽織らせた。恥になるからだ。
(着物文化だったから、家族間での着回しがトコトン可能だった)
‥言うまでも無いが
飲む時は一緒。正月や祝い事の時は一緒。そういう所では家族同然の扱いで差が無かった。
(殿様から褒美に銀を頂いて、村一同で祝い振る舞ったなんて話はざらにある)
それは神前での祝い事との意識に通じていた。
その痕跡に、重箱が使われてきた。庶民のする大勢での祝いの席にお膳は不向きだった。
そんなイベントはひと月に一度ぐらい欲しかった。日本の文化は明らかにそこを物語る。
だから、下男下女の家族でも、共に一つ屋根の屋敷に住まって暮らしていた。
‥無論、そこまでの待遇を許されるには、有能な才覚を示した者に限られた。
(下男下女も気に入られて長ければ、一通りの文字を習っていて当然)
1-4)3
> ところが、江戸時代になるとそこの事情に多少の変化が起こった。
戦が無いことで、新田開発に資材が投入され、流通がますます活発になった。
長屋住まいに見られるように都市化傾向にもあったが、農村地域も拡大した。
尚且つ、南蛮人が入って来なかったので、貨幣文化の在り方も独特に進んだ。
年貢と禄の仕組みがコメそのものを貨幣たらしめていた。
それは戦国時代以前と同じに見えても、質も中身も違っていた。
‥米相場の始まりによる全国一律とした米価格の統制が与えたインパクトは大きかった。
大名の支払いが米価に基づいたコメ払いだったなら、大名の借金はその都度上下に変動した。
(是の違いはとても大きい)
> ならば江戸時代
米はあってもその流通量がどうだったかは怪しい話になってくる。
名主または庄屋にしたって、商人にしたって、損したくないから
蔵にしこたま貯め込んだままで、古米だけの量が流通していたような状況だったと考えても良い。
(尤も、新米から保存するのは当然だったから、そんなの誰も疑問に思わなかった)
すると、
名主または庄屋は、村の米を一手に蓄えていることになり
大家族を養うのに十分な財を形成することができていた。
その大家族の中に、お気に入りの下男下女の家族がまるまる住まっていてもおかしくない。
(下男下女は、水呑百姓や小作人よりもずっとチャンスに恵まれていたと言える)
また都市部の商人なら、間口税なんて事情もあったことから、
「取られるぐらいなら一緒に住め」なんて、けちくさい意味を兼ねていた部分もあっただろう。
> それがどういう次第だったかと例を挙げるなら
> ケロロ軍曹に出てくる西澤家執事ポール森山を参考にできる。
血族の者が、お家の雑事をすべて仕切るのは厄介事とされた。
だから、叩き上げで優秀な者を取り込んで、台所仕事の多くを任せたのだ。
‥無論、女房お上が台所に顔を出すのは当然、あれこれ注文を付けるのも当然だった。
(常に頼るのであれば、そりゃその者の家族丸ごと屋敷の中で一緒に暮らしてもらった方が早い)
ポール森山の場合は、西沢家の防衛権限まで預かるという身内同然の信用のされ方にあるが
それに近しい例が歴史上にも伺えた。それが源頼朝の話に出てくる。
北条家との骨肉の争いに巻き込まれたのが、頼朝が重用しすぎた乳母の家系だった。
(乳母の家系を重んじるという概念自体が独特で、武家一般にあったわけではない)
頼朝の育った環境と身内に乏しかった事情にもよるだろうが、頼朝が選んだのはそんな関係だった。
‥血族がすべてではないとした選択支を、頼朝ほどの立場の者が大々的に示していたのだ。
1-4)4
> 整理するとこうなる
物々交換社会では、給与払いは無理。不能。
だからその代わりとして、血族以外も取り込んだ混成大家族を形成して一緒に住んでいた。
また、戦の無い時代になると、新田開発等の新たな流れから、農村にもそれが拡大した。
しかし、ユダ金経済が100%導入されるに至った明治以降‥
混成大家族を維持するのは困難となり、自由の名の下に核家族化ないし一人世帯の流れに至った。
「結局、自由とは名ばかりで薄給だ。どっちが良かったんだ?」
資本富裕層の貯め込まんばかりの傾向は、社会的分配効率としても最悪だ。(しかも上から目線だし)
> 当時の大家族の形そのままを受け入れるのは今や無理だとしても
> 気の合う家族同士と同居するのは、特に別世界の価値観に無かった。(新しき重婚観)
‥混成大家族は
賄える範囲内に於いて、担い手を確保する意味合いに於いて
実に合理的な意味合いを醸し出していた。
ならば
日本の村社会にしても、戦国以前、江戸時代、明治以降では
その印象も中身も、まったく異なっていたものとして扱うべきことになる。
> 江戸時代に於ける武家意識の拡大が、後世の民衆意識の中に大きな勘違いをもたらした
家族=親族になければならないとした根拠は、家督相続上の公家なり武家的な姿勢でしかなく
人の暮らしの原初的な意味合いから見ても、家族なる形が親族、一族なる形が血族
‥に限定されるような、慣習なり空気の中に庶民の暮らしがあったわけではない。
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