2015年09月16日

【刮目】撓りの心得(私と諦めとの対話)

記稿.2015/09/16

 すべてにおいて、片寄ることが間違いの伝播を引き起こす。

 貧乏をすると特にそうだ。
 諦めてなどいられない、だから意固地にもなる。
 頑張らざるを得ない‥挫けてなどいられない‥

 「その結果がどうだ?」

 下に居る時はお腹を空かし、上にのし上がった途端に腹一杯をしでかし始める。
 そうならないようにと心掛けようとも、太鼓腹の出まくる悩みが引っ込むことはない。


> 皆で諦めるべき次第がグチャグチャになる‥それが競争社会の本質にある


 時には諦めるべきだ。そのバランスが大事だ。
 何を諦めるかを具体的に述べることは難しい。
 それは、頑張る以上にハードルが高い文化力の秘訣でもある。

 「竹の撓りをよく見よ」

 竹が撓るのはそれなりに押し負けるからだ。だから柔軟な様を見せる。
 時代の技術の流れを見ても、いつの間にかカチンコチンにすることしか頭に無い。
 「日本伝統、焼き入れの技術とはなんだったか?」
 そういう生き方の哲学が、全く以て遠のいてしまっている。


> 現代社会の日常は、頑張らざるを得ない次第で一杯だ


 負けることへの恐れ、落ちぶれることへの恐れ、それらが日常の多くに渦巻く。
 そこから何とかしようとした余計な試みで一杯だ。
 蛇足の付録で溢れかえっている。それらは間違いの伝播を引き起こす。

 ‥本当に欲しい安心と繋がりには手が届かずに遠ざかる。

 寸暇を惜しめば寝るのが遅くなる。結果、人様には丁重のつもりでも自分の身体は低調だ。
 WBSキャスターの顔をよく見よ、若手にチェンジしたのに老けが早い。それがよく分かる。

 生物の身体は、生態の自然体を成り行かせるようにできている。
 頑張れば自在に進化するのではない。明らかに負担だ。何かを失っている。何かとの交換だ。

 なぜそうかは、神々が集って、そのようにプログラム調整したからだ。

 頑張るばかりの私たちの世情は、明らかに弱肉強食だ。
 だから、進化の過程もそこに固定されて見えてしまう。
 「ダーウィン以来の見方は本当か?」
 乱れは乱れしか呼び込まない。それでは進化する前に自壊しよう。資本主義世界はまさにそれだ。

 統轄する存在が居てこそ、始めてバランスはやって来る。企業経営だってその枠だ。
 生命の神秘に、調整役が居なかったなんて有り得るわけがないのだよ。


> そこに秘められた天地自然の妙には感心させられるばかりだ


 ならば、たまには諦めて祈ってみるのも筋というものだろう。
 ならば、たまには諦めて羽を休めてみるのも自然体にあろう。
 ならば、たまには諦めろの有り様だって巡ってくるのだろう。

 宇宙はそのようにしか造られていない。だから撓りを保つのだ。
 そこを固定した目で見てしまっては、揺らぎ表現から前進を得ないままだ。

 「宇宙は、揺らぐに非ず、撓りを有するのみ」

 私たちが暮らしの中に撓りを取り込む為にも、まずは諦める分別を理解することが肝心だ。
 然らば、弱肉強食とて、再生へのプロセスにしか見えてこなくなるだろう。


> 持続可能が広がるようなら、それは悦ばしき状態を意味する


 ‥ダメになったら諦めざるを得まい
 誰かが見切りを付けて先を見据えることも必要だが、それが優先ではない。
 味わい深さが今の選択支と共にあるのなら、それを味わえば良きことだ。
 先を見据えることの必要でさえ、諦めを余儀なくされた枠の中にある。すべては公平だよ。


 「人の小賢しさだけが、不幸不公平を維持し創出し信じ込む」
 「そんな考えこそまず諦めなさい」

 「人が頑張ろうと息巻くと、途端に、小賢しいだけのパターンが渦を巻く」
 「頑張りを押すべきか、諦めを押すべきか、その加減が大事」

 「人生何が愉しいかって、それは撓ることだよ」
 「右肩上がりなんざただの静止だよ。ドリフト、トランポリン、ジェットコースターの方が最高さ」

 「撓る次第を以て自信と健康を得る。右肩上がりなんざストレスとふんぞりだろうに」
 「神々が人間に自惚れや平和ボケを与えたいのではないことぐらい察するべきである」
posted by 木田舎滝ゆる里 at 11:55 | Comment(0) | 宇宙な? | 更新情報をチェックする
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