2015年09月28日

【考察】言葉は元気を与えもするし奪いもする

1-3)記稿.2015/09/28

その時その時、私たちは、常に言葉を選んでいる。
それらの言葉には質が伴う。

人の心に響く言葉。人の心を穢す言葉。
その違いは明らかに、放った人の性質と教養と経験と求道に拠る。タイミングにも依る。

言葉を掛ける側の慮りの善し悪しが、その放った言葉で以て、
相手の元気を奪うことにもなるし、元気を与えることにもなる。
その違いを如何にして見極めるかが、実はとても大変且つ大切である。

また

言葉を放つことは、関わりに関与するよすがを与えることでもある。
元気は与えれば良いという事でもない。奪うならそのままを悪と見るという事でもない。
言葉に表裏があるように、言葉のもたらす効果にも表裏がある。

言葉を選ぶことは、運命を選択し続ける行為でもある。

だから誰しもは自分らしくない言葉をまず避けることになる。
しかし、言葉に精通できていないと、知った範囲でしか使い分けることができない。

その知った範囲にしても、人々が使う上で培われた認知の集合が土台にあるものだ。

それでも、人々の認知の集合の方が必ずしも優れているというわけではない。
何はともあれ、多くの者らは、言葉を極めようなどと考えてはいないのだ。
‥その程度の志では、言葉からして、その程度の認知集合からしかもたらされて来ない。

細かく述べれば

言葉の認知集合そのものの中に、すでに分野別の仕分けがされて在る。
それはつまり、人の個性が始めから造られていたも同然に置かれているとも言えるべき状況だ。
‥自らの居心地の良さに惹かれた言葉の認知集合を土台にして在ると言う事だ。



1-3)1

言葉の奥が深いと言うよりは、
人の好き好きが異なっている。また、その時々の心境により言葉がもたらす心象も異なるものだ。

それは心理を理解することに等しいが、
正確にその響きを理解するには同じ境遇を経験するしかない。
だから、狭い人生しか歩まず者らの吐く言葉は、どうしたって偏って見えてしまうものだ。

周りにいる者らが、日々付き合う者らが同じように偏っていては、そこにある偏りは検知できない。
どんなに薄汚い言葉でも、それが日常になる。
それで良いと思っている世界観では、言葉の幅は広がらずその程度を漂う。
‥否、言葉の幅が広がらないのではない、そこにある世界観の許容が狭いのだ。


言葉のキャパの広い文化ほど、より多くの境遇を経験した社会性を内包する。
また、特化された文化には、それの精通を言語に刻むことになる。


言葉が行き詰まり、バラエティに乏しくなった時、そこにはリピート台詞があるばかりだ。
謂わばそれは、洗脳とも強拍とも呼べるべき状態だ。経験の拒絶とも限定とも呼べるだろう。

ただし、リピート台詞を避けようと、多くを使いこなそうとしすぎても宜しくない。

そもそもにして、それでは、人格を疑われかねない事態を招くことになる。
なにしろ、そんなことに挑戦すること自体が不自然だ。
だから‥言葉を極めるとは、与えることと奪うことの使いどころを究めるという所に筋が立つ。



1-3)2

人が言葉に行き詰まる多くは、多くを一度に相手にする時だろう。
人を使うなり教育する時がとくにそうなる。その時、警戒すべきはリピート台詞だ。

人に向かって、リピート台詞しか吐けなくなっている時、それは無駄な時間だ。
繰り返すことで身に付くだろうなどとの思いは、傲りに過ぎない。
つまらない時間を与えるばかりの次第は、その者の時間を奪っているに等しい。
口癖やカリキュラムだとしても、自覚して吐くのとそうで無いのでは、受け取られ方は大きく異なる。

いつの間にかのマンネリズムは、自らを閉じ込めるばかりだ。
‥自らを閉じ込めるばかりの所作で、どうして他者を導くことができるだろうか?‥
だから、リピート台詞は傲りだというのだ。


「ではなぜ、リピート台詞はやって来るのだろうか?」


それは、教えようとしているからだ。
教えられるだけの差がそこにあると自慢気にある。‥でもそんな自信は糞みたいなもんだ‥
なぜなら、誰しも教わるなら超一流に習いたいと思っている。「お前は何様だ?」とね。

差があるから教えられるのではない。差を無くするところに教えの神髄があるのだ。

その時、そこに在るのは、お互いの存在への感謝でしかない。
お互いの距離を縮めていく‥お互いに学ぶのだ。お互いに生きて行く為に学ぶのだ。
ならば、言葉からしてそのように在ろうとするだろう。



1-3)3

勝つとか負けるとか浮かれていては、すでに敗れている。
余裕の無い気持ちから出てくる言葉など死んでいる。

クズはどんな言葉を聞いてもクズのままだ。
クズが輝き出すまで、どれ程の長きを要するだろう。

お前だってそうだったはずだ。
なぜそこで一々引っかかるのだ。何様だ。

お前はただ、昔を見て恥じているだけなのだ。急いている。
お前自身まだまだの癖に、クズに急いては、まだまだクズがこびり付いている。
クズだからこそ恥ずべきポイントがズレている‥「そんなの当たり前じゃないか」

そう思っているうちもまだまだだ。

そこに見られるクズの図々しさ、大胆さはそこにしかないのだ。
ならばもっと大きく構えるべきである。

小さい山にしかないと見ていては、お互いに大きくなれない。
posted by 木田舎滝ゆる里 at 23:46 | Comment(0) | 考察 | 更新情報をチェックする
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