1-3)記稿.2015/10/06
> 法律で定めるところ、宗教の前提には礼拝施設が求められている。
しかし、「礼拝施設とは何か?」に触れた文言は一切述べられていない。
礼拝施設の解釈は雰囲気になっている。デザインの余地が残されているとも言えるだろう。
‥解釈の仕方によっては、教祖を拝む場所との見方も生じている。
新興宗教の多くは、
既存している何らかの教えからの派生である場合がほとんどだろう。
だから、礼拝堂の雰囲気もそこから極端に離れることがない。
> ところが、まったくの自身が教祖を拝む対象とする場合
英雄気取りにも、教祖自身自らの写真を飾らざるを得ない次第となる。
無論、そんなことをせずとも、礼拝堂としての機能性を持たせることは可能だ。
‥むしろ、雰囲気を求めているのは、どちらかと言えば信者の方でもある。
(教祖が商売としての宗教を狙っていたなら、そこはもろになりそうだ)
(政治に例えるなら独裁政権さながらの雰囲気を醸し出す)
‥まぁその辺、オレオレに陥らないように三人以上の役員が求められている‥
‥それはまた始めちゃった以上、役員が全員辞めると言い出さない限り終われない仕組みでもある‥
‥なまじ信者数が多いと、俺が役員になるとか言い出しそうでもあるな‥
あとはまぁ、信者が付いてくるかどうかだが‥
1-3)1
> 課題は、そこに続けるほどの意味があるのかどうかだ。
続ける為の意味を見いだす上で重要になるのは「教義」である。
‥信者も馬鹿ではないからうんちくは達者だ。
でも落とし穴もある。
ご利益が欲しくてそこに来ていると、
「〜しなければならない」とした概念を信者自身が有している。
それは当然、教祖に向けられる。
‥何もできそうにない教祖に、誰も魅力を感じない‥
‥誰もは、まず、教義を裏付ける上での特別な何かを期待している‥
‥まるでエンターテイメントさながらだ‥
教祖も教祖で、商売として信者を集めたいのが本音にあれば、
どうしたってそれに応えなければならない。
ところが
そんな能力を身につけたいと思う者は得てして少数派だろう。
そこを思えば、修行うんぬんよりも、修身の方に重きが置かれてもいる。
‥それらを修めることで、功徳が得られ、暮らしぶりも良くなるようでなければならない‥
そこには、「〜しなければ得られない」とした空気が蔓延している。
教義の多くには、いつ間にか、猛烈な目的達成が目玉に掲げられている。
‥その条件達成の鍵としての自分を演じ続けるのが「教祖の資格」と言わんばかりだ‥
1-3)2
> 社会的な経営のすべてに言えることだが
この「〜しなければ得られない」概念にとらわれれば、お互いに闇に足を突っ込む寸前に置かれる。
その時、飲み込まれれば、歴史的通念を裏返してみることで「やっぱりそうなんだ」と思い始める。
歴史からどうして争いごとが無くならないのかを、心情では無く、行動原理から肯定し始めるのだ。
その手の教祖も信者も、そこにある自身の変化について、こう考えてそこにいる。
「この道を辿ったからこそ、この境地に至ったのだと‥」
そもそもにおいて
宗教信者の多くは、幸せとは精神的な何かだと思ってそこに来ている。
精神的な何らかの境地の会得を期待せずとも、そこに来たのなら、自身を高めたい気持ちで一杯だ。
そこに
「〜しなければ得られない」概念のドツボにはまろうなら、
そこに、より近き自身が居れば、さらに満たしてみたくもなるものだ。
‥なまじエリートにあったならば尚更だろう。それは不可解な見解ではない。
> しかし、真に平和を唱える姿勢に「〜しなければ得られない」の論は不用だ。
ただ平和を願うだけのことに、如何なる条件も必要ない。
「そこから始まらない平和とはなんだろうか?」
‥そこに疑問が疎いのが世の中の大半でもある‥
願いが叶うかどうか以前の見方として、願うこと自体に損得など無い。
それは自分が何を望んでいるのかを、人の前に晒し続けるようなものだ。
自分の思うところを述べるのに、何を恐れる必要があるというのだろう。
‥まずは、そう有るべきが当然だ。
> ではその時、「‥斯様な信念を抱いた教祖は、何を口走ることになるだろうか?」
それはもう、圧倒的に「吾が名を呼べ」を連呼することになる。
‥自からを拝まさせることになるわけだが、特別な才能を見せるようなことは一切しない。
まぁハッキリ言って、誰しもは、それにポカンとしてしまうのが普通だろう。
‥なんだかんだと、人の多くは、自分で掴み取る幸せを選んでいるということだ。
具体的には、祈りの言葉の末に、お願い先の名前を付する形を取る。(教祖自身の名前)
‥是は、あの世での祈りの形でもある。(その者の名はその者の力を意味する)
お願い事をするのに、宛先を付さないのでは、郵便は届かない。
‥双方共に、なりしまして貰ってもOKとばかりでも困るだろう。
‥祈りの言葉の末に、宛先を述べ付け加えるのはセキュリティ上の常識だ。
1-3)3
> しかし、少し考えれば、「なんでお前なんだ!」と思うだろう。
「そんな宗教観が成り立つというのなら、誰だって好いって事じゃないか!?」
日常的にも、祈りの言葉とは、「お願いします」の挨拶言葉同然にある。
しかし実際は申し上げるまでなく
格の違いやら、自覚の違いやら、請け負う上での時期による可否やらと‥
神々の誰もがそのお願いを、やすやすとした二つ返事で引き受けるわけではない。
‥でも中には、物好きにも、その二つ返事を大安売りしている存在もいる。
大安売りの受けは良さげに見えるが、人がそこにしか目が向かないのではそれは問題だ。
自分がよそ見していても、そのままで善いなどと言う論は無い。
基本的には、お願い事はフェアーにあるべきだ。
‥だから、多少の自力が問われてもいる‥
そもそも大安売りの前提にあるのは、誰かへの無理なお願いだ。
‥誰が無理をさせているのかは明らかだ‥
お願事をしようと言うのなら、それはお願いされることを了承したも同じだ。
‥お願い事がまったくのあなた任せで通る訳がない‥
‥お願い事はその方向に向かうとした自からの宣誓でもある‥
その時
呆れられて放り出された願い事は、誰かが拾うことになるやも知れぬ。
‥そんな場合にも備えて、願い先の名前を付して唱えることは欠かせない所作である。
また
日々それで気持ちが落ち着くというのなら、別に文句なんか垂れる筋合いになんかない。
‥人の付き合い・向き合いにケチを付けて良いのは、危うい中身に限られる。
そこにあるのは祈りではない。付き合いだ。
気軽な付き合いとしてのお願い事は絶対ではない。優先して貰いたければ拝み倒すべきだ。
‥何遍でも、何遍でも、拝み倒せ。それぐらい真剣を見せるべきである。その辺は日常だ。
‥また、物理的に無理なら潔くもあるべきだ。考えずともわかるだろう。
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