2015年10月20日

【ガンダム】鉄血のオルフェンズに思う

1-3)記稿.2015/10/20

> ガンダムの解釈がまた変わった感じかな


 主役側で、躊躇無く人を殺すタイプのガンダム乗り。
 今のところ心の中にそれへの不快も動揺も描かれていない。
 ‥あるとすれば、弱さへの憤りだろうか。

 今後の変化に注目と行きたいところだが

 組織上、ダチの命令で動いているという展開が、うんともすんとも苦々しい。
 自分の意思で殺しているわけで無いとした見方が、すれすれでずるい感じだ。
 そういう奴ほど、殺すことへの躊躇に後悔の色は薄い。


 「そもそも、それをガンダムでやる意味があるのか?」
 「ガンダムという影響力を過小評価しているとしか思えない」

 ‥変化させるべきなら、単純にダチが死んじまって、三日月がどう出るかになる。



1-3)1

> 人類が


 戦争の命令で動くことに、人として大して無念を抱かないからこそ
 戦争というよりは、戦う上での‥対抗する勇姿を過剰に讃え合う体質になっている。
 (経済に置き換えれば、それは尚更にダブって見えてしまう)

 まずは、足元を振り返るべきだ。


 近年のマンガアニメ表現では、その手のキャラ性が、なぜかもてはやされている。
 ‥躊躇しないスーパー殺人マシン的キャラクター像の増加がそれだ。

 (躊躇しないことが一番に強いと考える思考ゆえの産物だ)
 (その対比として、まったくヘタレな主人公のキャラも描かれている)
 (しかも‥躊躇しなくなることが成長だと言わんばかりにしか見えない)
 (‥そこを経済や暮らしに置き換えるとぞっとするよ。軍事色と変わらんからな)


> どうしてそんな表現方向ばかりがもてはやされるのだ?
> おかしいだろう!


 強さへの憧れからか‥強さのインフレからか‥
 それとも、強い恐怖心ゆえの裏返しからか‥競争に負けたくない‥
 その辺のトンチンカンに心を奪われている内は、何も分かっちゃいないって事になる。


> 問題は、そんな映像が世界に飛散している現実だ。


 そもそも、なぜそんな発想ばかりに包まれているのだ。おかしいだろう。
 目も向けるべき世界観は、もっと様々で良いはずなのに
 バトルを描かんとすると直ぐにその手の物の見方しかできないでいる。

 ‥それはもはや、教育と言うよりは洗脳だし、表現と言うよりはただの思い込みだ。
 表現上の自由と言うよりは、妄想上殺人の自由と言わんばかりだ。

 そんな代物を描くことばかりに偏るのは宜しくない。

 その証拠であるかのように、いつの間の世間では、興味本位な殺人事件も増えている。
 くだらない表現に感化された割合の増加として見てもおかしくない。
 ‥そういう意味では規制が必要だ。



1-3)2

> 表現の自由としてまったく駄目という中身にできないのなら


 ‥大胆に時代の変化を理解させる上でも
 一定期間、その手の表現が絡んだ作品の一切を凍結する法案を提示すべきだろう。
 自戒の意味を考えれば、五年間とか十年間とか‥まぁ本気で必要なんじゃないのか。


 「まずは、政治の場で、そこを話題にすることから始めるべきだろうか‥」


 是は、文化色の排除ではなく一時的凍結措置だから
 発効以前の所持や保管は留意されて穴になるけど、あくまで世間の雰囲気を変えることを主眼とする。

 以前所持に絡んだ視聴事象上、それの中身を知らないケースではどうかも絡んでくるが
 見せないように努めるのが目的で、何だかんだで見ちまったならまぁしょうがないだろう。

 ‥その辺りが面倒くさいなら、もっぱら
 規制対象となる新規制作と公開の禁止、規制的過去対象の販売の凍結だけに的を絞っても良いだろう。


 制作としては見せなきゃ良いとも解釈できそうだが
 見つからなきゃ良いと考えるか、その発効期間、他のテーマに意欲を振り向けるかになる。
 ‥時効法案での解釈で考えれば、まあそんな見方もされるだろうか。

 ‥無論、取り締まりは当然としてあることになる。



1-3)3

> 無表情的殺傷表現規制法案


 人を躊躇無く殺傷する場面を映像にした表現作品の新規制作と公開の特定時限期間の禁止。
 並びに、規制的対象となる既存作品の公開と販売の凍結。

 映像と文章表現から受ける殺衝動の差は明らかであり、是は文章表現までを対象にせず。
 映像の連続性が物語性を有する場合は、概ね主人公側の性格や行為を対象とする。
 並びに、世界観が殺しメインや殺戮サバイバルに特化した内容を不可とする。

 ただし、現実歴史観に酷似した範疇の舞台設定、実際の資料提示や説明は分けて考えて良し。
 この点の曖昧は、正義感並びに正当防衛の有無、人間性とくに感情や動機の度合いに基づくとする。

 対戦型ゲームのように作品の世界観の提示のみで、
 キャラクターを動かすのがプレイヤーの場合は、爆発アクション等の表現の如何なるも対象としない。
 是は、制作側の表現に留まらず、プレイヤー自身の同意と行為を含む点を考慮する。

 ただし、殺意を仕向け合わせる世界観、中途劇中に於ける映像は対象になる。

 又、プレイヤー自身が、ゲーム画面上にてクリアー対象を殺傷する行為のそれは、
 訓練性も含めて考えるべき要素でもあり、熟練度の差違を裁くことをしない。


> 主人公側の対応として、成り行き上の正当防衛をどのように描いているかが求められる。


 考え方として、悪が残酷をきわめているのは想定内であるとしても
 映像表現としてのエスカレートは、気分の良いものではない。
 それへの応戦とばかりに、主人公の側も同様に差違が見られなくなるようでは
 正義も悪も無く、理解に苦しむばかりに置かれる。

 そもそもにして

 強くなければならないとした理想が、最もであると伝わるような経験的事象が描かれるべきである。
 ‥それらが提示されない場合は、制作側の見落とし又は思い込みとして注意対象でしかない。

 (そこに見られる形がぶっつけ本番の戦場というのがそもそもにして安易だ)
 (そこから強くなる経過はそこそこ見られるにせよ、優しく変われるかどうかはさらに何倍も大変だ)
 (‥そこの解釈があべこべになっているから、おかしくなるのだ)


 正当防衛の強さに絶対的力の差を安易に求めるだけの筋書きは、
 見る側に思考の停止を促すばかりで、作品として成立しているとは言い難い。
 ‥制作側が噛み砕いていないそれに課金させられるのは、迷惑行為そのものである。

 ‥その安易な流行りと感化から殺人が日常に多発するなら、テロ行為の片棒に罵られても仕方なし。
posted by 木田舎滝ゆる里 at 16:14 | Comment(0) | アニメ | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
コメントを書く
お名前:

メールアドレス:

ホームページアドレス:

コメント:

※ブログオーナーが承認したコメントのみ表示されます。