2015年10月24日

【夢日記】現代の教育は、壁と机と椅子にこだわりすぎ

記稿.2015/10/24

> リアルな教室の風景に誘導された


 始めはゲームのタクティクス風の建物をアバターが移動している感じだった。
 ‥だんだんとアバターがリアルに生命っぽくなって、いつの間にか乗り移ってた。

 で、その建物の中の光景をあれこれ見ている内に、廊下に出ると、
 2クラスほどの繋がりのある教室の風景がそこに‥

 向こうの方から、「ようこそ」歓迎の声が掛かるものの

 まぁ夢だし、学校だし、俺は即行で立ち去った。
 ‥大体そんなん興味ないし迷惑だ。


> しかし、その夢はしつこかった


 いつの間にか、豪華なロビーの空間に居た。
 「まぁ特に興味なんかねぇな‥」と思いつつ、夢の流れの前後を考えてみるに
 「もしかして‥ここは学校なのか?」とふと思い、踵を返して見学することにした。

 人だかりだと即行で俺が逃げ出すからか、そこに授業風景は無かった。

 ただ、だだっ広く絨毯が引き詰められた椅子の置かれていないロビーそのままな感じながら
 ホテルのような教会のような多目的に使えそうな雰囲気を醸し出していた。
 ‥壁というか仕切りという概念を排除している。


 「まぁ、これだけですべては賄えまい」と考えると隣に移動していた。

 直ぐ手前に、図書館にありがちな配置の机と椅子が見られた。奥は視聴覚室だろうか。
 あまり良く確認しなかったが、その空間は二つになっていた。
 廊下伝いにさらに隣に行くと、これも二つのブロックのようになっていたが
 奥にはピアノらしき代物が見えた。

 そうするに

 「物事を考えさせて学ばせるのに、壁と机と椅子はそれ程に重視する必要がない」と‥


> 目を醒ましてからそこを考えていると


 俺の中にあった学校嫌いとは、
 沢山の机と椅子がキッチリと並べられている光景そのモノということになりそうだ。
 自分の席という限定が嫌いとも思える。
 ‥そう考えると、仕事ですらそういうのは選んでいないからそうなのかも知れない。

 それでも、俺の才覚は、机上での作業の方が向いているように思えるものだ。
 ‥兎に角、そういう机の並べられた光景が好かんということらしい。(早い話が社会性不適応)


> それにしても、夢の中の会話は、なぜか良く聞こえん。


 何語なのかがまるでよく分からん状態にしか聞こえない。
 どうせ夢だしするから適当に聞き流すことになるわけだが‥
 まぁ考えてみれば、ガキの頃から会話のある夢を見たためしがない。
 ‥ここ最近の突発感としての妙な変化がちらほらと見られる。


 俺の不器用は、そこまで不器用みたいだ。これはこれで、疾患としか思えない。

 そもそもにして、人との会話を前提にした生存的欲求が薄い。
 ‥まぁそういうのは、帰る家の無いこどもの行き着くコソ泥感覚に近いものがある。
 ‥無駄にそういったストリート感覚の筋書きを好んで読んでいたりする。

 そのせいか

 しあわせぶりな環境が前提にあるストーリーを見ていると、無性に空しくなってくる。
 ‥まぁなんというのか、別にどうでもいいやという感じだな。
 ‥幸せなる光景などという奴は、客観的にしか存在し得ないのだから、まぁ向こうの勝手だと。


 だからだろうか、しあわせぶりな会話のある日常的な夢見を味わうところがない。


 そもそもにして、画に描いた幸せを欲していない自分を識るばかりだ。
 ‥ある意味で、幸福の追求とばかりに縛られているだけの人類社会は迷惑だ。

 現代教育に見られる壁と机と椅子の関係は、特にそこを象徴していると思う。
 ‥高が行き当たりばったりの誰かの思いつきの文化色なんかそれこそ迷惑だ。

 もう一度言っておこう。

 「汝の浅はかな欲の皮のツラ的な糞文化を、他人の暮らしに持ち込むな!」
 「そこのくだらない糞競争を煽るだけにあるような教育の形なんか消えて良し」
posted by 木田舎滝ゆる里 at 18:30 | Comment(0) | 日記/2015 | 更新情報をチェックする
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