2015年10月25日

【考察】道徳教育×→礼孝教育○と名称すべし

記稿.2015/10/25

> 「新しい道徳」北野武著作を買ってきた。
> ‥第一章を読んで気になった点をいくつか


 読んでいて、道徳の言葉のニュアンスがそもそもにして気になった。
 字引を引いても‘道徳’=‘倫理’で通っている。世間的に言えば、人としての常識だ。

 でも実際の「道徳」は、老子の言葉から始まっているわけである。

 その老子は、世間の常識についてうんちく垂れて語ってなどいない。むしろ離れている。
 隔世の観ありなのは、孔子との対比からも常識である。

 そこに見られる思想の趣は、内面の鎮まりへの導きである。
 「道徳を以て人生に花を咲かせましょう」などとは、これっぽっちも説いてなどいない。


> いつから道徳は、老子から離れたのだろうか?


 ‥そこでふと思った。
 日本語の中に於いて老子の語らんとしていた意味合いは、すでに「禅」に置き換わっていると。
 つまり、道徳は宙ぶらりんの言葉に果てていた。

 人はその余った余韻に対して道徳的という響きを当てた。
 (その昔は、倫理の言葉は用いられていない)
 道徳的という響きは、表面的に何が道徳的に見えるかを誘導する意味合いを果たした。

 結果、それが道徳の意味にすげ変わった。

 次第に、‘道徳的’も‘道徳’も同じ意味として見なされるようになった。


> そもそもの道徳とは


 人が下した行動に、賛同を集めれば、付いて回るものであり
 そこに道が開け、徳が付いて回るという次第を指している。
 ‥だから、時の経過と共にそれの経験則を指すようになった。(知識による形骸化)

 一方で、禅は、自身で徹底的に考え抜く姿勢を指している。(自分で気がついて身につける)


 まぁようするに、道徳教育とは、
 本来の道徳から魂を抜いて、抜け殻を着せようとしている教育観ということだ。


 考え切ってから行動をすることも然りだし
 状況に応じてとっさに行動することも然りだが、
 実際に道徳として付いて回るかどうかは、ケースバイケースだ。

 だがしかし、花を求めてするような行為を道徳とは決して呼ばないのだ。


> まぁそういう花や実を求めるのは、仁義の方に値するのではないかと‥


 だから、道徳教育という言葉は間違いで、本質的には「仁義教育」と呼んだほうが近いか。

 そもそも、江戸の時代は儒学だった。善悪を形式的に諭すなら礼儀作法で十分だった。
 なにも世間にお着せがましく、仁義を持ち上げる意味合いもなかった。
 ‥なにしろそれは、士の専売特許だった。

 江戸時代からの乖離を図る為に、明治政府は、そこに「修身」なる言葉を填め込んだ。

 そして戦後‥言葉の意味を持て余していた「道徳」にスゲ変わった。
 ‥仁義と付けようにも、どうしてもヤクザを連想してしまう。そりゃ無理というものである。
 ‥礼儀と付けたくても、すでに米国追随になっており、自由化の流れに於いて遠慮された。


> 北野武のツッコミの多くは言葉の綾からでしかなく、まぁうんざりの部分が多い。


 普通に「礼孝教育」(らいこうきょういく)と冠して揶揄すれば一言で終わる内容だ。
 所詮、教育などという代物は形式的でしかあれていない。
 ‥そんなこたぁ誰も重々承知なんだよ。


 「教育とは、過去を学ぶことから始まり、過去への敬意で綴じられるべきである」


 中には賞賛に価しない過去もあるだろう。でもそれがご先祖様の生き様だった。もしくは今である。
 「お前の所の先祖or親は情けねぇなぁ」なんてほじくり返されては、いつまでも胸を張れまい。
 ‥だってそうだろう。そこにしつこい隣国を相手にすればするほどそう思うばかりじゃないか。


 「また、自身の人生の蓄積に少なき者らに道徳という響き自体が不相応である」
 「叩き込むと言う意味合いで言えば、礼と孝である」
posted by 木田舎滝ゆる里 at 23:22 | Comment(0) | 考察 | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
コメントを書く
お名前:

メールアドレス:

ホームページアドレス:

コメント:

※ブログオーナーが承認したコメントのみ表示されます。