2015年10月26日

【読書】「新しい道徳」北野武を読んでみた

1-4)記稿.2015/10/26

> 北野武のこの著書には、本質的なツッコミがされていない


 なぜ、最近になって道徳教育が求められているかの背景が省かれている。

 その省いている理由として北野武は、
 大人の方が矛盾を抱えているのに、お前らに道徳を語る資格があるのかと説く。
 ‥まあ当然だ。そうでなくてはタックルの甲斐が無い。


 しかしそれにしても、北野武は自らの答えを先に述べてしまっている。

 道徳は自らが身につけていくものであって、どうのこうの言うのは余計なことだと‥
 多様化の時代でもあるし、尚更だと‥

 それはそれで、正論だろうが、
 ‥教育として求められてあること自体に反対なのかどうかを、自分からそらした言い回しだ。


 (尤も、俺は、北野武の根っこを知りたかったので読んでみたわけだが‥)
 (道徳について書きしたためるとは、そういうことだ)



1-4)1

> 道徳教育の必要の再確認は


 簡単に言えば、北野武が書き示した犯罪が増えた減ったではなく、
 若者の考えが多様化しすぎて、ギスギスしてきたとする向きの方が大だと思う。
 ‥特に、いじめ問題という奴に対応せざるを得なくなった。

 そこで単純に「道徳」の言葉を担ぎ出してきた役所の頭が固いと言わざるを得ない。

 本音は伝統回帰という意味合いになるのだろうが
 それにしたって、日本に伝統としての道徳学など無い。有ったとすれば、礼と孝である。
 江戸時代を見ても分かると思うが、儒学の方がもっぱらにもてはやされ老荘なんか端っこだった。
 ‥道徳なんて言葉は、戦後からの流れでしかあれていない。


 そんな事情から、その昔は、どの大人も子供を諭すのに同じことを言っていた。
 文字を習うにせよ、同じ書物から学ぶのだ。中国の古典という奴である。
 考え方だって似通っていたのは当然だった。
 ‥そんな具合だと子供の方も、そういうものだとして腑に落とし込む。

 ところが現代の事情は大きく異なっている。

 自分の親の考えでさえ、一つの見方でしか無いことを、子供ながらに痛感せざるを得ない。
 ‥大人でさえ、そんな複雑怪奇に正しい躾とは何かについて混乱を見せている。
 ‥だから、学校に丸投げだ。


 そこで、役人は昔ながらのやり方を復活させれば好いものと考えた。

 北野武はそこにツッコんでいる。
 そういう意味で見れば、この書は的を射ているとも言えるが、的外れでもある。



1-4)2

> 抜本的に、日本文化としての原点回帰を狙うなら、礼孝(らいこう)教育と称するべきである


 道徳教育という中身になると、あまりにもすり込みな授業内容が想像されるが
 礼孝教育という言葉に変わるだけで、随分と解釈は様々になっても、方向性はほぼ一緒で理解される。

 そもそもにして、人の道に於いての正しさはさほど変わらない。

 子供の方がそこを良く理解している。そこに大人の浅知恵が混じり込むと
 途端に、道徳を社会の正しさの常識として受け入れなければならなくなり、混沌とせざるを得ない。
 ‥そんな北野武の言い回しを聞いている方が、どことなく洗脳を感じてしまうのだ。


 人の道に於いての正しさは昔からさほど変わっていない。
 変わってしまったのは、様々な科学物質の氾濫から、個人差が甚だしくなったからだ。
 インターネットの普及による情報の氾濫にしてもそうである。
 それらにすべて対応したテキストを考えろという方がどうかしている。

 ‥北野武だってなんだかんだで、例え話に動物を持ち込んでいるじゃないか。いい加減なもんだ。
 道徳の話に動物を持ち込むなと言う哲学を、お前からして貫いていないじゃないか。
 それ程に、道徳を翳して授業を設けることは、繊細な大事だと言わんばかりだ。



1-4)3

> でも、本当にそうなのか?


 人としての理解から羽目を外されて困るのは、何も支配層ばかりではない。
 誰だって同じことだ。
 ‥犯罪の質の変化は、安心には繋がらない。
 (今時代は、犯罪の質が変化していること自体が大問題なのだ。そこに危機感がある)


 そういうことは、繰り返し口を酸っぱくして言い聞かせないと身につかない時期という奴がある。
 身につけた物事を誰がいつ窮屈を感じるかなど、教育のカリキュラムには無い。
 そういう現場の対応こそ教師力が求められるのであり、それは指導要領になんか書いてない。
 ‥そんなのは当たり前のことだ。(役人だって、役人力のマニュアルなんかねえよ)

 マニュアル馬鹿の役人には、マニュアル(代替案)を以て示すしかない。

 大体だ。子供の言葉を信じない教師根性の癖に、教師を続けているって事自体が信じられん。
 それでは、何を以て教育というのだろうか。本質はそこに行き着く。イジメ問題だってそうだ。
 ‥親にも信じてもらえないのに、何を以て道徳というのだろうか。


 身につけた物事に窮屈を感じて着替えるのは、人の自由だ。
 身につけるべき一通りの理解を与えるのは、大人の側の責任だ。


 北野武だって、自分の経験を書き示して言わんばかりだ。
 ‥なんかこう、ちぐはぐだなと思った。



1-4)4

> 信じる事から道徳は始まるのだ


 ならば、泡沫の躾事を馬鹿みたいに信じ込んだって何も筋違いにはなるまい。
 着替えてはいけないような空気がそこにあったなら、それは道徳ではないと言うだけのことである。


 ‥着ることに抵抗が有ろうと無かろうとそんなことはカリキュラムには必要ない。
 義務教育が、半分は迷惑な押し付けだって事ぐらい誰もが知っている。
 そんな所を逐一神経を尖らせるのは、トラウマ迷惑というものだ。


 だからこそ教師に相談できる環境が求められている。


 だが、その肝心の教師は、マニュアルが無いと困るような顔にある。
 ‥教師が困るほどに、科学が進んでいく方がおかしい。
 ‥教師が困るほどに、生活の多様さが甚だしい方がおかしい。

 教師をダメにしているのは、その辺のバランスを一切関知しない役人でもある。
 役人の命令権限が上であることから、これまた市民が教師を下に見る傾向にあることも問題だ。
 稼ぎの多い少ない‥権限の上下で教師を見ることしかできない社会に道徳なんか身につくわけがない。

 教師にとっての支えこそ、礼儀と孝の教えにあった。
 そこを見失い尊ばなくなった教育に、明日なんかあるわけがねぇだろうがよ。


 仏教にしたって、仏陀以外はクズやカスなんかではない。
 生きながらえることに意味があるわけで、仏教が存続することは釈迦の願いでもあった。
 ‥でも釈迦は、そんな風には諭さなかった。

 それでも、教団の存続に関して、随分と知恵を絞っている。

 そこには確かに先輩を敬えとある。
 人として求められる本質など、昔も今も変わらないのだ。
 ‥だからこそ馬鹿の一つ覚えみたいなテキストも出来上がっちまうって事だろう。


> 北野武のその辺のツッコミは、あまりにも見苦しく、トラウマとしか思えない。
> まあ尤も、道徳で点数なんか付けられたくはない。そこには同意できる。
posted by 木田舎滝ゆる里 at 13:03 | Comment(0) | 日記/2015 | 更新情報をチェックする
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