2015年11月25日

【短歌】お題‘デスる’

1-3)記稿.2015/11/25

|デスり交う雲を手にした連中の藁をつかめと堂島しよる



 中之島とは、かつて淀屋が開発した淀川の中州。
 中之島は後に、幕府に公認されて、世界初の公設先物取引市場「堂島米相場会所」を経る。
 ここでの意味は、米を運ぶ→カネを持って来い。転じて、かつあげにゆすりの意。
 並びに、周りからすれば飛び火回避の相場同調の意。

 ‥不名誉な言い回しになるが、歌としては、しまりが好いと思った。


 ディスるとデスるは、意味がかなり違うようだ。
 ディスるにすると、‘堂島しよる’の意がネットイジメの意味に見えてくるかなと。お粗末。



1-3)1

> ところが、米相場は淀屋が始めたものではない。
> その前段階で淀屋はお取り潰しになっている。


 その理由が、商人のくせに贅の仕方が出すぎているという言いがかりだった。
 なんでも淀屋が中之島を基点に得た資産が、現在換算で100兆円ぐらいだったと言われている。

 まぁそんなのは当然建前で、本質の根っこでは、相当な絡みがあったものと思われる。
 ‥普通に考えても淀屋の繁盛ぶりを妬むライバルの幕府への入れ知恵と考えるのが相場だろう。


> その頃までの幕府の無駄遣いと言えば


 家康以降、江戸城の建て替えが三代将軍にまたがって二回続いた。(壮大になるばかりだった)
 犬公方、徳川綱吉が供養とばかりに全国の寺院の立て替えをしまくった。
 ‥これら普請事業で一番に潤うと言えば、材木商である。

 考えてみれば、木材という奴は、
 そのまま植えておいても、切り出して貸し付けておいても、商売としては同じことである。
 ‥その辻褄を考えれば、幕府が支払いを迫られて、淀屋を潰したと考えて好いだろう。

 符号としても、
 
 中之島では、1716年頃より帳合米取引が始まる。
 時同じく、徳川吉宗八代征夷大将軍に就任。
 時の相場師、本間宗久、1724年〜1803年。
 1730年、堂島米相場会所始まる。



1-3)2

> ググってみると、本間宗久は


 16歳の時、吉宗将軍の江戸へゆき見聞を得る‥とある。そこで、投機を学んだらしい。

 材木商がそのまま堂島の利権を仕切って表立つと、ミイラ取りがミイラにされかねない。
 自分たちの入れ知恵で、淀屋を貶めたのであれば、偽装する必要があった。
 だから、才覚のありそうな者を担いで利用しようと画策したのだろう。
 ‥で、タイミングとして本間宗久はドンピシャリ。

 本間宗久は、地元酒田の米相場で成功するも、江戸で大負けしている。
 支援援助がなければ、その後大坂で相場を張るなんてできるわけがない。
 なにしろ、父親は投機商売に反対。後を継ぐことになった甥の光丘も投機商売に反対。
 ‥しかも、宗久は甥の光丘から絶縁を言い渡される始末だった。

 是はもう、誰がどう見たってパトロンが居た証拠でしかない。

 宗久は、大坂の相場で成功したその後、江戸の相場でも成功を見せるわけだが、
 タイミング的に、江戸では大火が見られる。
 まぁただの偶然の追い風かもしれないが、江戸の相場師の面々が亡くなっていたり、
 全体的に先細っていれば、嫌でも、市場の乗っ取りに成功できるだけの素地が出来ていたことになる。

 その材木商としては、西の銀相場、東の金相場を手中に収めたかったのだろう。

 当時、双方の相場には無理が生じており、江戸ではデフレが発生していた。
 江戸の米相場から資金を吸い上げる為の目論見が読み取れる。

 まぁ、その材木商にしてみれば、日本の山林は財産であるわけだから、
 どう見たって攘夷派だったはずである。

 ‥となると

 明治維新当時、江戸の開城と共に消えていた徳川の軍資金は、流れから考えても幕府の金では無い。
 取られては大損になることから、自分の所の蔵に移し替えたと考えるのが自然な解釈になる。
 ‥当然、埋蔵金話は偽装だったと疑って然るべきになる。


> はてさて、その後その材木商がどうなったかは、まったく以て行方知らずである。


 日本の木材が価格下落で商売にならないと言うよりは、そっちの絡みがあるのかも知れない。
 もしくは、鉄とコンクリートに商売替えしており、材木商としての智慧が失われているとか‥
 木材を運用して儲けるにしても、それなりの事業ビジョンが成り立たないと話にならない。

 ‥株式市場なんて翻訳にしても、まさかのその辺の意味が込められているのかも。
 ‥ローソク足の経緯にしたって、本間宗久だけの発案では無いのだろう。



1-3)3

> ‥淀屋の傾向を振り返ってみよう。


 西洋のケースだと、淀屋ほどになると死の商人と化する。
 それは、自らの地位を安泰にする為だ。

 強敵が共倒れ、もしくは大敗してくれれば、案配良し。
 王様が自分に寄り添えば、尚良し。

 でも日本の場合は、そうではなかった。

 誰もが戦を望まないがゆえに、ライバルからしてみれば切り崩す上での糸口が乏しい。
 そこで、とある材木商が、ジリ貧覚悟で虎視眈々と機会を窺っていたというわけである。
 ‥平和裏に戦が繰り広げられていたと見ても良い状況だった。

 そこは兎も角、

 米相場が江戸時代の庶民の暮らしに与えていた影響がどれ程のものだったのかは、
 あまりよく語られていない。
 少なくとも、江戸時代に米相場が誕生することが無かったとしたら、
 ‥日本の材木文化もまた違ったものだったに違いない。

 ‥そこの運用能力の差が、お江戸を世界一の人口都市に仕立て上げていたのは明らかだ。
 ‥ならば、今の時代でも、そこは変わり映えがなさそうじゃないか。
posted by 木田舎滝ゆる里 at 13:42 | Comment(0) | 考察 | 更新情報をチェックする
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