2015年11月27日

【逆の見方】トイレの撥ね問題の根っこ

記稿.2015/11/27

 その昔、おしめを洗って干すのは大変な仕事だった。
 その昔、おしめを洗って干すのは大変な仕事だった。
 その昔、おしめを洗って干すのは大変な仕事だった。

 そこにパンパースなるものが発明されて、おしめ仕事はポイ捨てになった。
 おまけに、洗剤がもてはやされて無駄に黄ばみが無いのが普通になった。

 おしめを洗っていた頃のお母さんたちは
 おしめを洗ったあとの黄ばみを以て許容範囲としていた。
 だから、誰かのトイレの撥ねなんて気にしたことも無いだろう。

 でもまぁ、自分の着物に撥ねるのだけは気にしていたかも知れない。
 ‥男にしたってそこは同じだったはずである。


> 許容が失われたことで、無駄に誰かのしたあとの撥ねが気になるようになった。
> 無駄に綺麗であるという形のもてはやしも後追いし、ますます我慢できない性格になった。


 そのカリカリとした空気の漂う分だけ、近づきがたい空気を生み出している。
 結果として、触れ合いも自然消滅することになり、墓穴を掘っている。
 ‥赤ん坊だって、そんな空気では癒やされることなく、訳も分からずに泣くしかねぇのかも知れない。


> 赤ん坊にしても、その分、おんぶの時間が急減している。


 おしめを洗いながらのおんぶ。
 考えてみれば、ものスゲー重労働である。
 赤ん坊もその母の姿を見て育つのだ。
 ‥赤ん坊が焼き付けることになる世界からして違っていた。

 我が子可愛さへの許容にしても
 おむつの大変さが失われたことで、手軽さを求めるようになった。
 手軽さの求められる時代性も合い重なっているのだろう‥赤ん坊だってそうなるさ。

 ‥最近の若い者は根気に乏しい。まぁ織り込み済みってことだな。


> おむつを洗うという大事業が失われたことで、お母さんたちの何かが変わったのだ。


 大事業をせずに済むようになった分だけ
 穏やかになれるはずなのに、そういう事には成っていない。

 そういう形に成らないという苛立ちが、結局‥旦那共に向けられる。

 そりゃそうだろう。時間に追われるだけの欲しいに取り憑かれているし、
 そもそもの時間自体が奪い合いなのだ。

 でも、そんな忙しくなるばかりの競争社会に同意しているのは女性の側も同じことである。

 女性の側が競争に許容を保ち続ける限り、自らのイライラも消えることが無い。
 社会の黄ばみをどんなに許容しても、おむつの黄ばみ以上の許容が織りなした穏やかはやって来ない。

 女性の時代とか乗せられるだけ乗せられといて、その辺は結局手も足も出ないという‥
 ‥てかさぁ、男以上に何かを欲しがるようになっているのが傾向だ。

 だったらいっそうのこと、パンパースを禁止にして
 赤児の世話の大変さを復活させれば良いだろう。

 パンパースなんてものがあるから、赤児の世話が軽く見られているのだ。
 ‥否、それは女性の側の意識からしてもそうである。
posted by 木田舎滝ゆる里 at 22:25 | Comment(0) | 刮目/2015 | 更新情報をチェックする
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