2015年12月09日

【哲学】飢えとは何か?

1-4)記稿.2015/12/09

> 飢え、渇き、渇望とは何だろうか?


 飢えは、本能だろうか?
 渇きは、感情としての備わりだろうか?
 渇望は、理性で判断されるべき過不足だろうか?

 否、そうじゃない‥


> 飢えを知性的に判断して制御するとは何か?


 飢えを感じ取る能力が備わっているのなら
 それは始めから必要における過不足を織り込んでいるということになる。
 ‥それは知っているに等しい。だから湧いてくるのだ。

 知っていると言っても、満ちるに足る量は人それぞれである。
 また出現の度合いも様々だ。
 ‥お話にならないぐらいに好みが違う場合もある。

 それでも飢えはやって来る。
 飢えを満たす為に、人は様々に何かをしでかすのだ。
 ‥それはもう、知性的にである。


 時には、その飢えに対して、嫌悪感すら抱き、拒絶しようとしたりもする。


 しかし、飢えを拒絶し続けることは難しい。精々が先送りである。克服など遠い道のりだ。
 拒絶し続けていると、結局は壊れることになる。
 ‥そこは個人だろうが、組織だろうが、社会だろうが同じである。



1-4)1

> では、なぜ人は飢えに対して、拒否または拒絶を試みるのだろうか?


 ・満たし方を知らないから‥
 ・物理的に無理だから‥
 ・諦めているから‥
 ・順序的に、満たす必要の優先順位が下位だから‥
 ・通りすがりだから‥


 飢えが必要として備わったセンサーにあるのなら
 飢えそれ自体になんら問題は無い。
 ‥私たちが、ぶつくさと物々しく語り合うのは、満たし方の定義とも見て取れる。

 飢えを満たすことに善悪は無い。満たし方に倫理が発生するのだ。
 ‥そう思っている。

 そしていつの間にか、次第に私のモノという定義を持ち出すことになる。
 ‥私のモノという定義を付することで、所有たる満たしを望むのだ。
 ‥それは無味乾燥にも、それが当たり前との思考の停止を促す。


> しかし、センサーに故障を来していたとしたら‥どうだろうか?


 センサーに処理できないほどの飢えが羅列されて反応すれば、嫌でも負荷が掛かるだろう。
 ‥それはまるで、ハッキングテクニックのように。

 耐え過ぎることで壊れるのなら、許容以上に満たし過ぎる事でも壊れるということである。

 なぜ壊れるまで、飢えを信じるのだろうか?‥
 なぜ壊れるまで、飢えを退けるのだろうか?‥
 ‥どうして、安定するべき飢えへの制御は、不能に陥り易いのだろうか?


> 飢えは、知性との戦いにより対立を始め、知性に振り回されるがゆえに共倒れに至らしむ。


 飢えを見たそうとして、最先端の距離を保とうとしたり、美徳たる形に従おうとすれば、
 理性も感性も本能も退き‥鈍くなる。疎くなる。
 競争という名において、効率を求めれば求めるほど、知性を重んじ始める。それと同じだ。
 ‥外部からの情報よりも、本当に必要なのは内なる情報だ。

 そもそも‥内なる情報からの飢えを満たすのに、本来的意味において常識など無いのである。


> 常識を組み立てているのは、過程における辻褄への回帰である。


 「なぜ、飢えを見たそうとするのか?」

 それは、安定への回帰である。
 しかし、お互いに於いて、その安定は異なっている。故に、満たし方も又異なる。
 ‥だが、私たちが地続きの構造を有して在るのなら、所々の不備や亀裂は、全体を不能たらしめる。

 私たちが地続きの構造を有して在るのなら、お互いを知らなくては成らない。
 ‥そうでもなければ、全体的な飢えを然るべき許容の範囲に留めることは不可能だ。

 また、役回りとしてだけの個の飢えを満たさんとして、自らだけが安定していても

 全体として覚束ない状況にあったなら、いずれ向こうからの飢えが全体を飲み込まんとするだろう。
 お互いを知っていれば早期に対処できることでも、知らないのでは、飢えの垂れ流しのままだ。
 ‥全体のバランスを計る為にも、お互いに好奇心(飢え)を抱く事は、宇宙的な働きといえる。



1-4)2

> 価値観が別の所にあることで、周囲それぞれの飢えへの関心・対処は変質したものに変わり出す。


 競争・生き残り・サバイバルという名において、個の上位性の確保にばかり価値を据え置いていては、
 ‥お互いへの好奇心は、常に後回しでしかない。
 ‥それはつまり、自身ですら見えていない次第でもある。執るべき手段に確信が得られない状況だ。

 広がらない価値観などという奴は、すぐに窒息する。
 相手と対峙した時点で、それは覆い隠せていない。

 ゆえに、自と他を切り離したものの見方は、宇宙には存在しない。相対するにおいて地続きである。
 ‥もし是の概念に類さないというのなら、それはまったく道理の異なる宇宙ということになる。

 ならば、私たちは道理の通じる宇宙に於いてのみ、飢えを満たし合うことがかなうのだ。
 ‥飢えを満たせないばかりか、拡大する一方の道理など求めずに限る。


> では、問おう。なぜ、道理の通じ合わない宇宙にまで好奇心を向けるのだろうか?


 それは、自と他が切り離れた宇宙領域は存在しないものとして信じるからである。
 ‥肯定的にも、否定的にも、科学という名において盲目的にそこを焦点たらしめようとしている。

 ‥如何にも、互いを知る上での熱意に欠いていては、無知が満たされることは未来永劫に訪れるまい。
 ‥即ち、飢えも充実も、全体のバランスにおける揺らぎの連鎖たるのだ。



1-4)3

 私の飢えはあなたの飢えでもあり、あなたの飢えは私の飢えでもある。
 されど、私の飢えとあなたの飢えの中身は多くの点でまったく異なっている。
 ‥だからこそ、概ね自分で何とかする次第が求められてもいる。


> ところが、それぞれが互いをよく知らないのなら
> お互いの飢えに対する見解の多くは、異質なるモノを眺めるが如しでしか成り立たない。


 ‥そこに起こり得る大抵の構えとして、防衛本能が挙がるだろう。疑念である。
 しかしどうしたことか、積極的に和を求める者と、そうで無い者が在る。
 飢えの度合いがそれぞれで異なるのなら、それは当然の見解である。

 しかし間違ってならぬのは、
 その時、相手より優位に立つべきと考える次第が、不可解であるとの実際だ。

 お互いの素性が知れてもいないのに、先手優位を得ようとする様は、どう考えても平和裏ではない。
 ‥そこに根ざした構えとは、申し述べるまでもなく闘争だ。
 ‥そしてその根っこにあるだろう飢えは、とりあえず、自身の側にしか存在しないと心得るべき事だ。

 矛を掲げることしか出来ないようでは、その者は滅ばざるを得まい。
 ‥矛を掲げずとも、心に上位性を求めんばかりに闇を抱えていても同じである。


> この点に於いて


 特に、そこにある飢えを‥自らのモノとして解釈を始めると切りの無い次第に陥る。

 それぞれに飢えの形が違えども、好奇心なる針は振れるのだ。
 ‥結果的に、理解が出来ないことに過剰反応するなどの負荷も生ずるだろう。
 ‥それを見たさんとして、染まることにもなろう。

 されど、

 引き返す勇気を持たざる者ほど、端から自らの優位を誇示しようとするものだ。
 受け止める勇気を持たざる者ほど、本質において身も心も脆いものだ。狡いとも言う。
 ‥そこに飢えが有らば、そこをテーマに抱えて在らば、常に恐怖に対処しようとするばかりだろう。

 そのような飢えは、分離しかもたらさない。

 分離することで和が保たれるというのなら、それも有りである。
 混じり合うことで、得るべき変化がもたらされるというのならそれも有りである。
 ‥何も、変わらぬままの仲良し小好しがすべてではない。


> 尊重すべきに、形としての完成など無いのである。


 ‥お互いの素性や性質を知らぬことで、飢えが生ずるというのなら
 そこには、何かしらの発見をするとした期待を抱えてもいるものだ。
 ただし、それは相手側の発見の形でしかない。こちらから提示することも定義することもかなわない。

 その結果、なぜか、想定外が巻き起こる。

 そのままが嫌なのなら、そこからの切り返しをどうするかでもある。
 ‥ならばその時、自らの知らずに居た姿を垣間見るばかりだろう。
 ‥惨めを抱え飢えるも、自らを高め高揚するも、ヘンタイに至るも、選択次第である。
 ‥その選択が、自身の尊重と言う事になる。何も問い掛けなければそのままに置かれよう。


> 高揚せんとして願ったなら、お互いを立てずして成り立つことなど一切にして在らず。


 勘違いの解釈を嫌うのなら、自らそうでは無いとして示さねばなるまい。
 大勢から袋叩きのようにレッテルを貼られるような様なら、その壁はとてつもなく厚いだろう。
 ‥知らず知らずのうちに、目立たぬように縮こまるのが主義になっているのかも知れない。

 しかしそれでは、お互いを立てていることには成り得まい。

 ‥自分から筋を立てずして、向こうから立てようとの礼儀など目覚めぬ。
 ‥否、自分から筋を立てようとせぬ者は、向こうの筋を闘争としてでしか受け取らないのだ。

 そのような渦中に於いて、

 自らが立てるべき筋が見えておらぬ者は、弱さゆえに、もまれることを嫌うことにもなろう‥
 だが、所詮もまれるのである。
 ‥得手に優位を求めたところで、一過性のルール下での安堵にしかならない。
 ‥不得手を埋める上でも、お互いに筋を立てて保つべきである。



1-4)4

 相手を覚る、自らを覚る‥
 対峙することで覚る、体験することで覚る‥
 ‥飢えがあってこそ、それは漸くにして身につくことにもならむ。

 「識らず」との自覚を面前で示せぬ者は、その点に於いて

 お互いの飢えの違いを知ろうとすることもなく、ただ過ごすのみである。
 ‥臆病にもただ過ごすだけの者は、自らを常の飢えに据え置くばかりだろう。
 ‥効率・横並びにあれば、惨めでは無いとした見解も程ほどにすべきである。


> 常の飢えを感じなくなったなら、


 それはお互いが穏やかに整っているからだと、そう思っても善きことだ。
 ‥しかし、其を実感し得る者は、その時こそを恐れてもいるものだ。
 ‥ストレス&プレッシャーに慣れきったがゆえに、重しが軽くなることに抵抗を抱くのだ。

 本質に於いて、其もまた飢えである。

 穏やかさを識る中に、同時に飢えを抱えた有り様は、本当に切りが無い。
 ‥それは好奇心の拡張とも言うべき展開だ。
 ‥見えていなかった世界が見えてくる。宇宙に生きるとはそういうことのようだ。

 されど、お互いがバランスを保たぬのなら前になど進めぬ。

 より前へと抜きん出ようと願うなら、尚更に、地続きにあることを信じざるを得ないのだ。
 ‥閉塞から広がりに出れば出るほどに、識らぬ事ばかりである。自惚れている暇など無い。


> ならば、閉塞の中に安寧を築けぬ者は、自らの中に底なしの闇を飼っているも同じ。


 ‥前に進もうとすればするほどに、巨大な底なし沼に映り出す飢えに渇き。
 ‥宇宙を垣間見ようとすれば、そこばかりが目に余ることにもなる。

 ゆえに‥坐して蓄える。蓄えた力で養ってみる。育ててみせるのだ。

 その時、自分の飢えの都合など、物事の成長の何の足しにもならぬ次第を思い知ることになる。

 ‥見えているがゆえに、見えておらぬ側の善し悪しを取り上げるだけに始終していては、
 見えておらぬ側の飢えを大きくするばかりである。
 所詮、飢えゆえに、どこからともなく調達されるのだ。
 見えている側がしてやれる次第とは、適切な時期に与えるべきとした経験値に基づくだけである。
 それにしてもその多くは一般論であろう。その者に対してどうかの判断はまったくの未知である。

 ‥当然だ。自分の内の飢えや渇きが連鎖し得る次第を忘れては成らない。
 教えを請うにしても、そこは常に付きまとうものだ。
 誤差は生ずるものであり、気がついた者が補正を問い、正すべきかどうか‥そこに人の道がある。

 だが、改善のもたらしが心地よくあるかどうかに、誰も確信など持てておらぬのが相場である。


 「目の前の飢えや渇きと対峙する時、其は、自らが担うべき約束と心得るべし。」
 「特に注目に値する飢えも渇きも心に対峙せぬのなら、随分とお目出度き出番無しと心得よ。」
 「しかし、真似してみたくなる・させてみたくなるのも又‥生命の根本にある。」
 「根本から遠ざかれば、いずれ飢えと化するのは、当然の成り行きに成らざるを得ず。」
posted by 木田舎滝ゆる里 at 15:48 | Comment(0) | 哲学/一般 | 更新情報をチェックする
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