2015年12月21日

【淘汰】敬いとは自分加減なり

1-3)記稿.2015/12/21

 味の決め手とは何かと聞かれたら、それは塩加減である。火加減である。水加減である。
 だから、敬いとは何かと聞かれたら、それは自分加減と言うことになる。
 ‥自分加減の中に、人間性を示さんとするよすががあるのだ。


> 自分をどのように加減すれば良いかを、他人に聞いても誰も識らぬこと‥


 通常は、その自分の加減の仕方を考える前に
 素材としての性能を高めようなどと考えるものだ。
 それはつまり‥良い素材になろうとしているようなものだ。

 良い素材になろうとして、無駄に何かを詰め込んだりしている。

 素材の持ち味は、その過ごしてきた環境にあり旬にある。
 塩加減その他諸々の加減の習得は、どれだけの素材と対峙してきたかにある。

 だから良い素材になろうとばかり考えていると、無駄に良い環境を欲するようになる。
 ‥だが、どんなに環境を自分に都合良くしたところで、塩加減諸々の習得には至らない。
 ‥精々が、己の限界の壁を前にして打ちひしがれるだけである。


 より豊かな人生を歩もうと願うなら、素材と対峙することが大事になる。
 ‥お互いの素材をどのようにして活かしたなら、味わいが深くなるのか。
 ‥そこに視野の広がりが伴うのである。



1-3)1

> ところが不思議なことに


 己を、素材としての副菜よりも主菜を好むことになると、そこにも壁が立ちはだかることになる。
 その逆も又然りである。
 ‥自分を前面に押し出すべきか、否か。
 ‥何を以て、その場での主菜となすべきか、否か。

 おいしいところばかりを見せようとしても、そこにも壁が立ちはだかることになる。
 ‥教え諭すにおいて一番に味わいの深さを示すのは、失敗談にある。
 ‥しかも自分自身の失敗談である方が新鮮味をより与えることになる。
 ‥だが、自分のネタなどすぐに耳にタコができよう。他を知らぬのも味わいに欠くというものだ。

 また、己が失敗の恥を直に掻かずとも、出来損ないが目の前に訪れることはチャンスでもある。
 ‥所詮、一蓮托生なのだ。成功談の蓄積ばかりを追わずに、その逆も又乙なものにある。
 ‥良き素材とだけと付き合うなどとの人間性では、何様の関係しか生み出さない。


 競争競争と言っても、許容を大きく外した一方的な強さなど不味いだけである。
 だからといって、マンネリ過ぎても物足りなさを感じるようになる。
 それでも、ちっとも飽きが来ないのに、新しきを促すのはぶしつけというものである。

 ‥競争云々に限らず、まずはやってみないことには伝わらないところもあろう
 それにしても、変化が、ぶしつけである点をわきまえているか否かの差は、計り知れなきをもたらす。

 お互いの中に成功もあれば失敗もある。美味いもあれば不味いもある。
 変化したいもあればしたくないもある。変化に興味津々な者、変わることを嫌う者。
 ‥どれにしたとて、それが自然のままにあるということだ。
 ‥それぞれの違いを如何にして見極めるのかを、日本人は其を「空気を読め」と表現する。


> しかし


 「空気を読め」のノウハウを具体的に明文化することはなかなかに難しい。
 それはつまり、法整備化しようと思ったら人任せではダメだと言うことだ。
 どれだけの素材を知っていたにせよ、
 それぞれの可能性のすべてを知り得たと思うのは、自惚れに当たろう。

 神や役人を完成したかのような目でしか捉えられないというのなら、
 その国民の可能性は、その神なり役人次第ということになる。
 ‥神の教えなり役人の能力が国家の限度、そこに培った環境が国民の土壌の限度に成りかねない。

 ゆえに、多少の知己に富んだ者が、それらの文章を見聞または明文化しようなら

 ありとあらゆる段階に於いて、どうしても手入れが求められる次第を段階的に検討せざるを得ない。
 ‥なぜなら、失敗を味合わざるして、大衆に理解など及ばないからである。
 (良い意味でも悪い意味でもそれは同じである)

 ‥其の分からぬ者が多いともなれば、どうしたって所々で争うことも起こるだろう。



1-3)2

> では、争う事の是非を問うって、争いを敬いでは無いと言い切ればどうか‥?


 長い目で見れば、対象の自然な成長を取り上げてしまうかのような次第にも映るだろう。
 無論、それら争いに巻き込まれたがゆえの被害にしても同じことが言える。
 ‥その塩梅に、何が正しいのかは、それこそ各々の心が感じ取るべきことだ。

 参加せずに中立を決め込むことは、争いを避ける意味での知恵ではあれど
 ‥所詮、独りよがりで在り続け、それ以上の成長を己に見出すところに乏しい。
 ‥己に成長が伴わずして、どうして周りが成長して見えるだろうか?

 ‥否否、周りが成長して見えたとしたなら、それは脅威に映るだろう。
 もしくは、好奇心と共に同化せんとばかりに、下っ端からの経験を始めることを余儀なくしよる。

 それもこれも、自分加減の方向性次第と言うことでもある。

 自分加減の構え方次第でも、周りの見え方が違ってくるのである。
 ‥ならば、敬いの形などというは、尚更に明文化することなどかなわぬ。


> 「空気読め」の言葉とて同じこと‥


 そんなのは、発した側の意図するところと異なれば、空気など皆無である。
 ‥仲間意識の合言葉みたいなものでしかない。
 ‥だからそこには、家族・仲間でありたいのなら、習わしに従えと暗に語っているようなものだ。
 ‥始めからNOならそこに向こう側の空気など無い。あるのは己自身のそればかりだろう。

 敬うにしろ、敬わないにしろ

 その結果が自らを追い詰めたのなら、それは理にそぐわないということである。
 しかし、能力の如何によっては、ひっくり返ることも有り得る。
 そのひっくり返りを尊重し出すと、途端に「力こそ正義」が幅を利かすことになる。
 ‥時代の末に、それは良くないことだと認識し合えば、歴史評価だってひっくり返ることになる。

 (まぁ実際、頑張ろうと頑張るまいと、始まりに於いて人としての価値は対等だ)

 ならば、各々の自分加減に本質があるのかと問えば、そこもまた本人次第ということである。
 ‥まずは自身がどちらの側に居たいのかを決めれば良い。
 ‥その所々での蓄積が、己の器に成り得る。まずはそう腹を括るべし。

 (右に転ぼうと左に転ぼうと、どれだけ腹を決めていたかの違いが、その人の血肉になる)
 (何も考えずに通り過ごした者に、時の流れが、己の血肉になるところなど何も無い)



1-3)3

 様々な素材が転がっていて、様々な対峙を経験して、自分加減も完成していくのである。
 ‥敬いとは、その一つ一つを味わい深く尊ぶことだ。その歩みにかしずくことだ。

 どれが一番などと興味本位に選び掴むことでも、其を支持することでも無い。
 それら素材は、ただ、そこに在り続けるだろう。滅んだなら惜しむだけのこと。


> そして、誰しもは自らの滅びを望んでなどいない。そこに敬いの形としての原点がある。


 ならば、少なくとも、人がお互いを滅ぼし合うことを程度前提に据え置いたままの競争社会など
 ‥愚かとしか言いようがないではないか。


> どうして、かような大事を蔑ろにしたままに、見過ごしたままで居られるだろうか?


 キチガイが増えるには、それなりの理由が付きまとう。
 ‥キチガイが上に据え置かれたままであれば、尚更である。

 されど‥斯様なる上に対しても、敬いなどと称してかしずくもかしずかずも

 キチガイに言わせれば、好き勝手せよと言わんばかりなのだ。
 ‥向こうも好き勝手しよるからそういうものにある。
 ‥それで真に受けて、好き勝手に走った結果が如何様にあったかを今更に述べるまでも無い。

 ‥そこには明らかに、敬いなど皆無の流れが在った。ただそれだけだった。


> 自分の勝手を押すことのみを正しいと思ったがゆえの顛末だった。
> そもそもにして、その自分とは何だったのかでもある。


 自分探しの言葉には、つまり自分加減探しも含まれていたのだろう。
 誰しもが、自分の必要程度を見失っていた時代だったのだから、それが必然の流れだった。
 ‥なにも「甘ったれ」などと言われる筋合いも無い。

 自分の足元の故郷を汚して尚、開き直って居られる方が
 ‥ほとほとに、甘ったれと言わざるを得ないのである。


 だってそうだろう。デスクワークの方がお得な時代って何だよそれ。
 ‥数値の入力の仕方が秘訣の時代って何だよそれ。寝ぼけたままに居るのも大概にせよ。
 ‥すべての必要は等しいにせよ、なぜ汗を掻く方が不利になるのか?
 ‥そんな社会構造では、あっという間に滅びることになるのは火を見るよりも明らかだ。
posted by 木田舎滝ゆる里 at 20:56 | Comment(0) | 考察 | 更新情報をチェックする
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