2016年01月08日

【刮目】長の意味と会議の意味

改稿.2016/01/11...20160108...

> どのような制度であっても、自由に意見を述べられる空気は活気を生み出す。


 しかし、能力主義を意識し始めると
 途端に、如何に賢いかということに集約されがちだ。
 ‥そこで、我先に自分の意見または技を、まくしたてるという流れを醸し出す。


> どのような制度であれ、長たる者に決定権がある。


 そこを顧みるならば、自由に意見を述べることと能力には関係が無い。
 自由に意見を述べることに、如何に賢く、どの考えが正しいかなどを考える必要など無い。
 なぜなら、最後に決定を下すのは長の務めであり権限である。
 ‥会議に求められているのは、考えを持つことと述べることと出し尽くすことである。


 そしてまた

 長は、一番に正しいと思える考えを、常に採用する意味も無い。
 なぜなら、そのような解釈には兎角パターンを発生させる。
 負荷と経験は、均等に与えるべきである。

 特定のパターンにハマっていくと、偏った人選に陥りがちになる。
 満足と経験が異なるばかりなら、細かい理解には及ばない。
 ‥不均衡があれば、そこに負担が掛かりいずれ崩壊する。

 それが人であれば尚のこと。不満を理由に去るか、派閥を形成して独占を目論むかだ‥
 ‥上への不満、下への不満、どっちもそんなところだ。

 うまく行こうと行くまいと、均等に負荷を与えていれば、そのような分裂は生じない。
 誰しもが活躍できていると自覚できるだけの状況を生み出すことこそが、
 長としての最上の決定方向である。
 ‥利益利益と何を以て利益とするかは、組織全体のやる気を見れば明らかである。


> やる気こそが成功を引き寄せるのであり、アイデアや理屈が利益を引き寄せるのでは無い。


 ‥長期的展望で推し量れば推し量るほど、長のすべきが何たるかは明らかである。

 しかし通常、十分な人材などと言う傾向には無い。
 それゆえ、ハイリスク、ハイリターンなどと言ってみては気取りたくもなるのだろう。

 もっとも恥ずべきリスクとは、経営責任を担う側が現場と対象を知らないことだ。
 開拓すべき課題ともなれば尚のこと。知らないのであれば長としての資格などあるまい。
 ‥机上の妄想しかできぬ輩を上に戴くなど、これほどに愚かしい選択もない。


> 成功があるのではない。活躍の機会と場が均等に割り振られているかどうかだ。


 均等に割り振られておらぬ状況とは、結局、そこに居る人を見ていないということになる。
 ‥人を見ることができていないから、成果主義などとまくしたてるのだ。呑まれてはダメだ。
 ‥人を活かす・育てるとした気概に欠くから、ずさんに扱う鏡似性ということになる。汝はどうか。

 社会全体で、ずさんに陥ると本当にどうしようもない。
 ‥その本質が能力主義&成果査定。


> じゃ給料はどう決めれば良いかって?


 活躍の負荷が均等に割り振られていることを、皆が納得できていれば、
 ドングリの背比べでも構わないと言うことになる。(差の緩やかな給与体系)
 ‥そもそも何を前提にわたしが一番に頑張っているなどと思い込めるのだろうか。
 ‥そこにあるのは不満でしかない。そこを具体的に訴えることができない時点で人並みなのだ。


 貴重な体験の裏では、誰かがリスクを感じてハラハラとしているものだ。
 ‥させて頂いているのに、隣の人以上にさらなる待遇を求めるのもどうかしている。
 ‥さらなる待遇を求めた時、その時は、別のことをしているはずである。
 ‥機会を得られることこそが待遇に当たるからだ。


 貰える金額に気持ちが傾くなら休めば好い。
 ‥負荷が見合っていないのだ。そう訴えれば良い。その時、必ずしや課題が浮上するだろう。
 ‥課題を克服するだけの見切りを持ち合わせていないのに、金額云々はお互い様だ。
 ‥しわ寄せが嫌なら、不公平だと思うなら、それを選択せずに済むように負荷の視点を変えれば好い。
 ‥得意な事・してみたい事だけがあなたを生かすとは限らないのだから。
posted by 木田舎滝ゆる里 at 05:03 | Comment(0) | 刮目/2016 | 更新情報をチェックする
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