2016年03月05日

【哲学】存在価値の不確定性

改稿.2016/03/06...20160305...

> 基本的人権とか言ってみても、所詮‥
> 人は本能的に、他者との間に優劣を持ち込んでしまう生物である。
> それはなぜだろうか?‥を数式的に考えてみた。


 基本的人権を数式でイメージすると
 問答無用で A=B=C・・・=□と定義することになる。
 そしてそれは、A−B=0つまりA−□=0である。


 ところがである。


 A+B+C・・・+□・・=0と言うのが、仏教で言う不増不減の世界観である。
 私たちがどのように変化を遂げようとも、宇宙からしてみたら何も変わっていない。
 ‥右辺が0でも∞でも用は同じと言うことだ。

 つまり

 A=−{Aを除いた全体}
 −A={Aを除いた全体}である。

 なぜ、マイナスが付いて付きまとうのだろうか?
 先に挙げたA−□=0であるはずなのに、実はそうじゃ無いらしい。

 これを詩的に表現するなら
 私に自信が凸る時、なぜか周りの世界の方が残念に見える。
 私の自信が凹んでいる時、なぜか周りの世界の方が頼もしく見える。
 ‥というのが、不増不減の世界観であるという次第になる。


> では、A−□=0の世界観はなんだったのだろうか?


 人が、自分と何かを比べる時、それは全体を意識しない。
 つまり、□の中身は全体とは限らないと言うことである。

 基本的人権と言ってみても、それは地球人の想定した枠を意図した用語である。
 ‥宇宙人にも適応する権利だとして、無造作に応じるに及ばないとした意見もあるのと同じことだ。

 詩的に語れば
 A=□の世界観とは、自身の認知しうる限界を意味することになる。
 日常感で語れば
 自分の世界観に準じた生き方でしか満足感を得られない次第になるだろうか。

 即ち、自身の存在性に適った環境の大きさもしくは質ということになる。
 私をよく知らないのに、リッチな暮らしぶりを先に考えてもなんの役にも立たないということである。
 ‥お互いをよく知らなければ、お互いの暮らしは良くならない。そう見ることもできる。


> では、もう一度‥
> A=−{Aを除いた全体} & −A={Aを除いた全体}をどう見るか?


 自分はそこそこに満足しているらしい。
 でも、周りからしてみたら、凹んでいるように見える。
 ‥もっと頑張るべきだ。

 というのが、全体が言い方向にある状態と言え、
 自分の方が満ちているように思える時は、逆に世間はそうでも無いのだという見解になる。

 ならば、自分の思うマイナス気分を打ち消す必要は特にないのだろうか?
 ‥そこで、A=□を満たしているかどうかが、その問いの鍵になりそうだ。


> まずは、自分を識ることと、周りを識ることから始めよ‥ということである。


 でもねぇ‥自分を識るという意味は、体験を積むことでもあり
 周りを識るにしてもそれは同じことなのだから、食わず嫌いはまず成長できない事を意味する。
 まぁ本能的に受け付けないことを、無理強いする意味合いも薄いわけだから
 ‥そこはお互いに理解すべき所だ。

 でもねぇ、気分とかプライドとかくだらないことを理由にして冒険しない輩も多いわけで
 体験を増やすことに興味関心の及ばない集団に未来が乏しいのは当然である。
 ‥それは自身にも言えることだ。それが汝らの枠組み、つまり=0の状態になる。


> 感じたことがない事象は詩にはできない。
> 感じたことのない世界観の言葉を読んでみても理解なんかできはしない。誰も同じだ。
> 自分の言葉にするためにも、まずは体験してみないことには詩にはならない。
> 時には一定の理解を求められるだろう。その理解を以て、私の想いが詩としての水準を得る。
> 成長を望むにしても、自らに不足を思えばこそ辿る気にもなる。
> 満ち足りたと思う者は、詩人から遠ざかるのみである。
> 発見こそ詩なり。発見する者こそ詩人なり。
posted by 木田舎滝ゆる里 at 11:39 | Comment(0) | 哲学/宇宙的に | 更新情報をチェックする
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