記稿.2016/03/06
唯物論こそ科学であるとし‥
偶然の中から規則的な何かが生まれるよすががあるとして自然を信奉する。また
その反対に‥自然そのものを偶然の賜として思い込んでいるのが現代に生きる多くの人々である。
しかしそれでは、規則的な何かをうみだし得た奇跡を「不自然」と呼ばざるを得ないのである。
その誤った定義で問うならば
私たちが規則的と思っている宇宙の科学法則の方を「不自然」と呼ぶことになる。
これでは、不自然性から生じた奇跡こそを普遍性であるとして、「科学だ」と叫んでいるに等しい。
‥随分と不可解なトンチンカンを言い放っているのが、現代人の科学見解と言うことになる。
ゆえに、偶然を唱えてしまう衝動こそを「非科学的」と、定義できるのである。
> では、その非科学的と思しき偶然衝動は、どうして多量的に発生し得るのだろうか?
誰しもがそう思うのだ。その反応はすでに自然的な作用に至っている。偶然などではない。
私たちはその認識し得る感覚を、どうしたって「意識」と呼ぶのだ。
意識が誕生したのは、超自然的なことである。偶然などではない。
必然とも、当然とも、法則的根源にあるとも支持できるのだ。
ならば、宇宙に意識は普遍的に満ちていると言えるだろう。
むしろそう考えた方が自然である。
だとすれば、すべては私たちの暮らしと同じように
意識のやり取りが、宇宙に絡んでいるとした宇宙観&歴史観を抱かずには居られまい。
> 私たちの意識の内に、善と悪、多様性を理解する認識が備わる以上
> ‥宇宙の側にも、そのように在るとして、受け入れざるを得ないのだ。
「私たちが科学と向き合う時、悪を消滅させたいと望むだろうか?」
否、むしろそれを望むのは悪の方だ。
悪として善の消滅を望むのだ。だから対抗せざるを得ない。
無論私たちの日常は、科学をそのような手段として用いることを望んではいない。
うまく調和させることで、破壊的なエネルギーとて創造的に活用できるはずだと考えようとする。
‥私たちが科学として求める形とは、そもそもにしてそのようであるはずだ。
しかし、宇宙的に見た場合、それら力の制御はとても難しそうである。
ならば、普段から気持ちが乱れてしまう‥その程度の浅はかな私たちに
宇宙の奇跡たる意識のバランスの前に、云々言えるような立場はまず無いと言えそうだ。
それでも、意識が意識として成長を遂げる為にも、私たちには自由が許されているのだろう。
‥では、その自由の尊重を以て、宇宙の唯物的なる思索を続けることに何の意味があるだろうか?
そこにあるべきは、もっとワクワクとした感情であり、
何ができるのかとした好奇心にあるべきである。
大いなる存在たちは、其を感謝として表現することを人間に期待している。
‥そう考えずして、私たちの人生が、尊べるエネルギーで満ちることなどない。
‥地球の現実を見れば、明らかだ。
> 一方で
意識は自由なのだから
「太き同意」と「細き同意」が、それぞれに宇宙に蔓延していることになる。
私たちは、その太き同意の姿を一生懸命に物理法則だとして追いかけているにすぎない。
細き同意を、人間の醜さとして嘆いているにすぎない。
私たちが、科学に魅了されて、太き同意の正体を突き止めることに夢焦がれているのなら
同時に、私たち人間の方も‥自由ゆえに互いの意思の身勝手さを越えて、平道を勝ち得なければ、
宇宙の太き同意に触れることなど叶わないだろう。
なぜなら
宇宙は、弱き私たちが偶然だと思い込みたいほどに
実際的には、徹底的に管理し尽くされた空間にあるからである。されど
如何なる管理に置かれているかに思い悩む必要などない。天の川の輝きを見れば一目瞭然だ。
だがしかし、どれ程の細き同意が散らばっているのかにも、同時に注意を払うべきである。
‥思い悩むべき必要があるとすれば、それは私たちの日常とさほど変わらない所にあるはずだ。
「もはや、天体や大地には意識が満ちており、
「意識のあるがまままに、関わり続けていく次第を私たちは受け入れるべき時期にある。」