2016年04月23日

【詩】妄想からの脱出

記稿.2016/04/23

> 動きと動きとが絡まった瞬間、その一瞬に焦点を注ぐ
> 命と命が絡まった瞬間、その一瞬に焦点を注ぐ


 命のやりとりがとくにそう‥攻防一体の達人芸‥
 実力は五分五分、釣り合っているから起こり得る生き生きとできる瞬間‥
 でも、命のやり取りだったら、繰り返すことは叶わない‥


> 主張と主張が絡まった瞬間、その一瞬に焦点を注ぐ
> 私が求めてあなたが求めて絡まった瞬間、その一瞬に焦点を注ぐ


 私の妄想だったそれが、あなたの妄想だったそれとなぜか共鳴していた。
 それが広がれば広がるほどに、現実感が湧いて来た。
 でも大きくなりすぎると、誰も私を肯定しなくなった。

 それは簡単な理屈だよ。私の妄想が、私たちの妄想にすり替わったからだ。

 「私たちの妄想と共鳴するあなた方という妄想はどこにあるのだろうか?」

 それは常に戦いだ。意見の衝突だ。家族としてのそれではない‥
 私たちが家族になったという証として、どうして分離を描かせるのだ!
 誰だって、冗談じゃないだろう。それこそ妄想だ。誰にでも共鳴する妄想ではないのだから‥


 「だから、どんなに共鳴が起きたとて、精精は家族と呼べる大きさにしか成り得ない」


 そうだ。そこに村ができたとて、
 余所の村に影響されて、そもそもの共鳴が失われたらそれはお終いになる。

 しかし誰しもは‥
 そこに見えた大きな何かに憧れて、家族になろうとする。なりたがる。
 でも、その憧れは‥どうしたって家族ごっこだ。

 そこに見えだした勢いのある村とは、良かろうと悪かろうと
 誰かの共鳴が土台となり、柱となり、梁となりそうやって構築されてきた。
 「あなたがそこで暮らすことを夢見たとて
  あなたはそこの暮らしに何を添えられるというのだろうか?」
 ‥そこが空っぽで、ただちゃっかりと居たいだけのお客さんとしてなら
 いずれお暇しなければならないばかりだろう。

 だってあなたは家族として住むことを望んでなど居なかったのだから‥
 ‥どう見たって、お客さんだった。

 例えお客さんでも、気の良いお客ならそれなりにちやほやされて長居もあるかも知れない‥

 でも、どうして、住んでいる人たちの気持ちを掻き乱すような人が受け入れられるだろうか?
 ひっくり返さんとした思惑を少しでも抱えていたなら、そこで暮らせることなど有り得ない。
 家族になろうというのに、そこに居る人たちを追い出そうと目論んでいるなら尚更だ。

 「人は其を否定と呼び、忌み嫌う‥」

 余所の村と影響し合えば、良くなるだろうなどと考えるのは、それと一緒でどうしようもない。

 始めから支え合うことが目的の連合にあったなら、始めから共鳴して在り続くだろう。
 ‥もし、そうでなければ、中はどんどん朽ち果てて、見るも無惨に引き裂かれるばかりだ。


> その中で、あなたはどんな妄想を描いている‥囁いている‥叫ぶのか‥


 あなたが、心の底から嘘を張り上げてみても、誰にも共鳴するまい。
 「あなたの本音の叫びとはなんだ?」
 「嘘の叫びに、あなたは満足しているのか?」
 もし仮初めのそれに満足があるのなら、そこに起こり得る共鳴は、あなたを幸せにはしないだろう。
 その後に訪れるだろうあなたの後悔が、精精の満足感という程度で費えることになる‥


 仮初めに見えている誰かの共鳴の華やかさを真に受けて、横から掴もうとする必要は無い。
 あなた自身の本音の妄想が、いずれ共鳴を起こすだろう。
 しかし、本音をわからずに疎かにしていては、
 そこに起こり得る嘘の共鳴は、いずれあなた自身を嘘の谷に放り込む‥


> 大好きと大好きが絡まった瞬間、その一瞬に焦点を注ぐ


 ‥そこを発見しようとしないのでは
 いつまで経っても、仮初めに見えるばかりの共鳴に翻弄されるばかりだ。
 「なにをしたいのだ?」
 妄想一つ取っても、本音で大好きを貫き通せぬ者に、大好きでいっぱいになど訪れるわけがない!
 少なくとも、あなたがその中で‥死に切れる瞬間など訪れやしないのだ。
posted by 木田舎滝ゆる里 at 00:59 | Comment(0) | | 更新情報をチェックする
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