2016年04月26日

【人文】時間軸と人権

1-2)記稿.2016/04/26

> 人権に時間の概念を入れて考えてみよう!


 「なぜそう思ったのか?」それは‥
 生存権の解釈を、最低限の文化という意味にのみ特化している人たちが居ることを知ったからだ。
 それでは、どう考えたって幸福の追求権の意味と変わるまい。
 なぜ、そのように勘違いを引き起こすのか?‥それは法律上の「文化」とやらに定義がないからだ。

 そこで、時間軸という考え方をしてみようということになった。

 文化を体験する権利‥そんなのはただの消費の問題だ。
 選択の自由とか言う前に、提供してくれる側がいないと始まらない。
 ‥別に居なくても好い、無ければないで、自分たちで考えれば良いのだ。


> さて問いである。


 消費することを最低限の文化という思考ですすめると、
 どうしたって格差が起きることになる。
 ‥それが消費の収集力の差=人気の差=流行りの差と言うことになる。
 ‥それこそ、そこにあるのは自由性なのだから、公平になど保障できるわけもない。

 しかし

 創造する時間を経たか経ないかを、最低限の文化と捉える思考ですすめると
 基本的な教養を身につけていることは、その第一歩にもなる‥
 でもまぁ、学など無くても、絵を描くことも歌うこともできる。
 ‥その意味で問えば、創造することへのステップに制限も定義も必要ない。

 基本的に、そこには、積み重ねた何かがあったかなかったかの差だけが‥あるばかりだろう。

 それが、公平に最低限の文化の意味を文言に表して考えた場合の「時間軸」と言うことになる。
 ‥そういう解釈にならざるを得ない。


> それでも、同一のジャンルだけで見ていくと‥


 多くの人は、進んでいる人を見て、そこで諦めてしまうパターンにハマるか
 後に付いていくというパターンにハマる。
 ‥その結果、時間軸としては、進んでいる人以外に時間軸の成長はほぼ見られないという経過を得る。

 (ヒエラルキーのピラミッドの下に居るだけでは、そこに発生する時間軸は私にはならない。)
 (我々という時間軸の中に居ると錯覚を起こすばかりだろう。)
 (ポツンと一人になった時を考えてみればいい。あなたには何が残されたか?‥そこに差が生ずる。)



1-2)1

 自分から創造の時間軸を放棄したままを良しとするのは、自由権の行使になるが
 それはそれで、自らの最低限の文化を放棄したも同然だ。
 それでは、幸福の追求も発生することがない。何を以て人権の保障と言い切れるだろうか?

 ‥どうしたって、差は開くばかりだろう。
 そして、自分には何もできないとの思いを煩わせることになる。

 自分から進んで積み重ねた何かを得ないことには、最低限の文化の保障も糞も無いという事だ。


> また、進んでいる人と言えども


 ご褒美が欲しいとばかりに、要求を始めてしまうものである。
 人が集まると‥そこでは、文化を共有することよりも、誰が舵を取るかに始終してしまう。
 それが人類の現在の程度でもある。
 ‥それにしても、それは、一つのジャンルに縛られたままに居るからだ。

 創造に於ける時間軸などいくらでも持てるはずである。
 挑戦すべき課題も主旨もいくらでもある。
 手段にしたっていくらでもある。
 一つぽっちの分野、視野で、謳歌しようなどと言うちっぽけさが、
 権限だ、褒美だ、名声云々だに囚われるよすがをもたらすのだ。

 誰にでも等しく、なんにでも挑戦できる立派な能力が有ると言うことを前提にするなら、
 それこそ、代わりばんこに指揮権を発揮できるようにすれば好いだけのことだ。
 ‥そこに得られる社会性には、どうしたって、一つにこだわる意味などどこにもあるまい。
 ‥一つずつを尊重していく。そこに自分たちの次なるステップを見計らうばかりだろう。



1-2)2

 次から次に枯れることなく、やってみたい挑戦が湧いて来るようなら
 驚くべきことに‥欲しいご褒美など、それこそ機会と寿命ということになる。
 ‥それこそが、人生の謳歌であり、お互いへの肯定と言えるだろうか。

 (一人でできることなど、すでに飽きてしまっているだろうから)


> ところが、残念にも‥誰だろうと‥そこまでを望んで文化を捉えてはいまい。
> それが人類の今段階の程度である。


 外野で野次を飛ばしているのも文化だろうとか‥そんな感じなのだ。
 それは、自らの積み重ねに注目がないからだ。自身の創造に関心が乏しいからだ。
 どうしたって、見栄えの好い物事に心を奪われるとそこで思考が停止してしまう。

 「なぜそうなるのか?」‥そりゃ自慢癖だからだろう。

 お互いにそこを了解したままにふんぞり返っていれば、
 ブランドだ、カリスマだ、実績だ‥そういう空気にどっぷり浸からざるを得まい。
 ‥それもまた文化には違いないにしても、偏見がまん延してそうなだけに不気味だ。
 (確かにそうじゃないか、それ以外のなにものでもない、それだけの文化力にしかないのだ。)

 ‥そもそもにしてそこでは、創造よりも消費(人気)の方を推進するばかりだろう。
 ‥できる奴が頑張っていればとりあえず安泰。まぁそういった空気だ。
 ‥その結果、権利の放棄が塵のようにつもり、でき上がって来たのが、格差社会だった。


> ゆえに、どんなに鈍重であろうとも
> 自分自身から創造する時間を積み重ね得なければ、人権の保障など成り立たない。


 お互いが、自らに創造を保てるように積み重ねを尊ぶ社会性‥それこそが肝心だ。
 創造を持てる生活時間としての文化の保障。まぁそういう意味合いになるだろうか。

 ‥まぁそういうことを唱えていくと、途端に所有権云々でぶつかることになる。
 ‥それにしたって、良い悪いではない。どこに落としどころを見出すかである。其もまた創造なり。
 ‥これで十分だと満足したままに終えようとすると、それこそ本当にお終いになる。
 ‥でも創造したのだ。それなりに、それの成り行きを見守るのも大切だ。
 ‥そこの塩梅を、如何に在るべきかをまだ人類の多くは知らないままだ。(受け身=飽きの連続)
 ‥なぜなら、自分たちが創造したという味わいに自覚がないままだ。(格差社会)
 ‥まずい料理を出されて、ひっくり返すか食べずに去るか、そこの二択でしかない輩が多すぎる。
posted by 木田舎滝ゆる里 at 11:29 | Comment(0) | 刮目/2016 | 更新情報をチェックする
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