2016年05月23日

【詩】人の自由を見ているだけの自由

向宜詠吟.2016/05/23

人の自由を見ているだけの自由
誰かの自由を見ているだけの自由
それは本当に自由だろうか?

一般に、一方通行に置かれた自由を不自由と思っている
でも一方通行だからこそ機能している形もある
それはそれで自由を為しているのだろう

‥疑問に思ったなら、そこに自覚が無いだけだ



人の自由を見ているだけの自由
其を一般に悟りたる境地と呼べり

そんな慈愛に満ち足りてそうな自由がどれ程にあるだろうか?

人の多くは自分から動いて取り合うのが当然だと思っている
見ているだけのままではおまんまの食い上げだと思っている

人の自由を見ているだけの自由からはそんな風にも見えている
でも大抵の人は、見ているだけの状態になかなか耐えられない

人は同じように誰かに準じて生きることを求める
どことなく均衡であることを求める
誰彼となく公平さを意識して生きるのだ

そして、人の葛藤もそこから生えて来る



同じ目的に寄り集まっても、意見の違いという葛藤‥
違えた方向に進んでも、孤立たる疎外感との葛藤‥
葛藤がさらなる葛藤を呼び、混乱した状況に溜息も出る
そこをよく自覚できていると
どうしてか、すんなり‥
人の自由を見ているだけの自由が、誇らしげに映り出す

無論、そこに自覚を培えてる人に向かってだ‥

でも、そこにだって葛藤はある
それが均衡というものだ
公平というものだ
‥そうにあれていないことに彼らとて悩ましい

ならば、人は自由など選んでいまい
葛藤を選んでいるだけのことだ
ゆえに、そこにある葛藤をどうにかできて始めて自由と言えようか。

‥次から次へと自身の内から生えてくる葛藤‥
まるで雑草か、日々つもりたる塵に砂だ
瓦礫を見て思うように、それら葛藤をショイとどかせば良い

自由とは何かと問われたなら、そんな風に答えざるを得まい



「ならば問おう、地球の現実に見られる不均衡とは何か?」


簡単な話さ
自由という言葉に乗せられて
自分たちの住まいをゴミ捨て場と化して尚、平気なままだ

誰かの裕福を見ていた頃に身に沁みた不幸体験を思い浮かべたままだ
そこにあった瓦礫こそ、自分から動いてなんとかしたいとの憧れだった
でも見ているだけの自由にあったのは、ただただ体験への貪欲だった。
それでは、瓦礫をどかしても尚除いただけだ
瓦礫はそのままに残ったままだ
誰も彼もがそうでしかないのなら、ゴミ捨て場にならざるを得まい


葛藤は誰だって無くすることができない

‥葛藤は繋がっている‥
それが均衡を求めざるを得ない人としての自然体にある

それは、地図を開いて移動に用いるようなモノだ
均衡を失して生きたなら、葛藤からは逃れられるだろうが存亡は不可避
結局は、地図を欲して葛藤することになる
それは、職人が職人を訪ね歩くようなモノだ


葛藤はそのままに、各々の意識に均衡をつらぬこうとして漂う

だからこそ、その都度その都度
個々お互いの単位で少なくするように心掛ける必要がある
ひとり一人が心掛けないのなら、決して望むような天晴れは天下に訪れまい
社会規模に問題化するなんて日常は、それこそ腐敗しているのだ
ならばこそ、まずは、人の自由を見ているだけの自由に徹するべきだろう

そんな視点から格差を問うなら、格差現象は本能からの問いそのものだ

だが、そんな大げさに考える必要はまったくない
所詮、瓦礫は目の前の一つ一つからしか片付けられやしないのだから



> うた詠み終わります、ありがとうございました。
posted by 木田舎滝ゆる里 at 10:48 | Comment(0) | | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
コメントを書く
お名前:

メールアドレス:

ホームページアドレス:

コメント:

※ブログオーナーが承認したコメントのみ表示されます。