2016年07月02日

【哲学】脳内報酬と価値観形成の差異

↓8)記稿.2016/07/02

 一般に脳内報酬と聞くと
 脳内麻薬としての物質が、如何にして脳内で放出されるかという解釈だが
 よくよく考えていくと、何を以て悦びとしているかの方が肝心な事だ。

 ‥ここでは、各々の求める脳内報酬の在り方の違い‥
 つまり価値観形成の差異のあらわれに焦点を置いて考えてみる。


> 三つ子の魂、百までと云われるが、それはどうしてだろうか?
> 世代間に文化の呑み込みに依る差が生ずるのはどうしてだろうか?


 ・脳内報酬が出やすい年齢
 ・脳内報酬を関連づけやすい年齢

 経験的に自分を含め、回りを観察してみると、この二点は明らかに時期があるモノと考えて良い。

 ‥人生が詰まらなく思い始める年齢差と云うのか
 以前より楽しく思えない、飽きてしまっているなど、個人差や対象の差はあれど
 誰しもが経験していることだろう。

 それは同じ物事に対して、脳が脳内報酬を吐き出さなくなったからと考えられる。
 是はまた、脳が如何に反応するかに依存しては、其を境目にやる気が失われるという意味合いだ。

 しかし

 そんなにも人間が新しきへの意欲に脆いということを定義するのは、些か残念な気もするが
 ここで肝心なのは、脳内報酬との付き合い方であり、その見方であり、活用の仕方である。
 やる気の善し悪しを脳の脳内報酬に支配されていては、どうしたって心許ないのである。



1-8)1

> まず始めに、脳内報酬の順位付けが始めから決まっているとして考えてみよう


 どうして決まっているのかを個人差を含めて考えだすと別の話になるが、
 今はとりあえず、そこは置いておくとする。


 想定される順位付けの高いモノを始めに覚えてしまった場合、
 ‥どう考えたって順位付けの低い次第への興味関心は鈍くならざるを得ない。
 ‥かといって、反対に、どこかに拒絶感を植え付けてしまうのも問題だ。

 人間の活動性から述べるなら、

 自身の脳が、脳内報酬の対象として見なせる角度、視野、範囲が広ければ、
 それだけ何事に対しても意欲を失わずに済むと言うことである。
 (それはつまり、脳内報酬に対して、マニアックな脳であるということでもある)

 ‥それでもなぜか

 歳を重ねると、何でもかんでも受け入れられるかというとそうでもなく、
 学習したパターンを先読みして、門戸を閉ざすという傾向が次第に強くなる。
 要するに、
 脳内報酬の対象として学習できなかったことに対し、
 脳の側の受け入れが、なんらかの要因で阻害されるものと予想される。
 (是を脳による脳内報酬選択肢の切り捨てとでも読んでおこう)


 その時、
 新たな受け入れに対して、柔軟さが有るか無いかと言うことで述べるなら、(価値観の多様性理解)
 それは、柔軟さを得る自分自身の姿を以て脳内報酬が放出されるかどうかの見方になる。
 ‥尤もこれは、アイデアがホイホイ湧いて出る勢いがないとなかなかそうは行かないだろう。


 アイデアが出て来ない=苦手意識が伴う時点で、すでにストレスが付きまとうのだ。
 是は、脳が、脳内報酬を放出する一方で、
 ストレスに関する違った何かを吐き出すということでもある。


 とは言え、その境‥対象とする何かが、
 どのように決まるのかは、謎であり、個人差は往々にして付きまとうのだ。

 ‥それらが何らかの要因で定義づけられるというのなら
 要因次第では、脳内報酬の順位もストレスとして感ずる対象も書き換えられるという事でもあるが、
 世代間に見られる傾向を超えてまで、柔軟性を取り戻せるかどうかと言うことになると
 柔軟性が損なわれる要因こそをまずは考えるべきだろう。



1-8)2

> 何はともあれ、色々としたホルモン分泌との関わりも十分に検討されるべきところだ。


 生理的な欲求への脳内報酬が、各自で肉体的に共通していると考えても
 その対象の好みとなると、人それぞれで、柔軟性や価値観の多様性の受け入れに差が生ずる。
 その何かを脳内物質に求めるとしても、対象の度合いは同じにはなるまい。

 つまり、決め手となるのは、脳内物質以外の何かだ。


 ‥そもそもにして、脳は成人に至るまで、その容積を拡大させている。
 一度にすべての順位付けなり、選択の取捨が形成されているとはとても思えない。
 その過程のそれぞれで得られる情報が違うのなら、
 結果が同質性をもたらそうとも、まったく同じになるわけがないのだ。

 そこにはなんらかの成長過程に於ける共通したパターンも兼ねて、それらの差異を検討すべきである。


 ‥特定のホルモン分泌の盛んな時に、
 一定の関心事に脳内報酬との関連づけができないとなれば、
 それはそれで、一種の症候群的な因果をもたらすと思われる。

 尤も、当の本人にとってそれが重要でないとした場合、なんの不都合も生ずるまい。

 (‥同じ症候群を抱えていたとしても、性格や環境によっては深刻になるとは限らない)
 (このような違いを考えれば考えるほどに、脳内物質以外を考慮せざるを得ないのである)


> なにが言いたいかというと


 ‥脳内報酬の学習効率&ホルモン分泌を加味した時期相応の学習効率から外れた場合
 そこからは、当人の意欲の増進の積極性を以て克服することが求められると言うことである。
 目的とするそれを悦びと感じられるように、自分の脳を騙し騙しに鍛える必要が伴ってくるのだ。

 ならば、始めから騙し騙しにしているも同じこと。
 ‥つまりそこに係わる大きな要因こそが、意識ということになる。


 「意識」をどう考えるかは置いといて


 人生に上手いと下手があったとしたら、
 如何にして、脳内報酬の度合いを自分の成長と目標に合わせられたかという事になるだろうか‥
 ‥それらを得るための環境の引き寄せにおいても、上手い下手は往々に当てはまって来よう。

 (人生に何を求めるかは意識からの介入で有り、結果に対してどう思うかも意識の介入だ)
 (ならば、脳内物質とは、肉体にそのパターンをすり込ませる為に有ることになる)
 (それがどうしてかという疑問も募るにせよ、脳全体の反応を都合付けるには欠かせないと予想する)



1-8)3

> ‥以上から思うに(すべては予想に過ぎないが)


 三つ子の間までに形成された脳内報酬パターンは、
 覚えていようが居まいが、かなりの割合で当人の人格に深く係わるモノと思われる。
 (苦手意識も同様に思われる)

 そしてまた、

 世代差に見られる文化の呑み込み差は
 歳を重ねるほどに、若い頃ほどに、それに見合ったホルモン分泌が及ばないことで
 流れに乗れずに、脳に刻まれた脳内報酬パターンが更新されず
 過去に学習した内容に依存しがちになるモノと思われる。
 (それは、苦手意識に対しても同様かと思われる)


 しかしだからと言って

 己の意思で以て、その脳内報酬パターンを上書きできないという事ではない。
 ‥脳を騙してでも、脳内報酬パターンを追加する意欲があるかどうかのたすけとしても
 ‥他者との繋がりある。
 ‥誰かを起点に新しい価値観が創出されたり、見直されたりとの関わりは往々にして日常である。

 ならばこそ、他者との繋がりをもっと柔軟に捉える視点が求められて然るべきである。
 (アイデアや視点が柔軟になくても、付き合いの柔軟さもまた突破口になるのだ)


> ‥では問おう
> 人は何故に、効率なり利便性だけを求めて画一的に物事を考えようとするのか?


 他者との関わりが、脳内報酬のパターンを書き換える拠り所としてあるとすれば
 積極的に画一化ばかりを重視していては、そこに蓋をするも同然である。

 斯様にも、多様性を失いかねないような着眼は、どうしたって盲目だ。

 これはまた
 他者との繋がりのみの期待に偏ることもまた同様になってしまうわけだが‥
 そこの塩梅が、如何にして生じているのかも甚だ謎である。

 人がそもそも易きに流れやすいというだけであるにしても
 気がついてみたら、自分で考えるタイプか、他者の思考を借りて立ち回るタイプかに分かれている。
 ‥もしくは、そのどちらにも興味を示さない不都合に陥っているケースも見られる。


 どちらにせよ、
 お互いに画一化、横並びが好いなどとした思考パターン(安易な脳内報酬期待)は
 年齢相応に於ける行き詰まった脳内報酬パターン改善の手助けを妨げることになる。
 ‥そこの改善のきっかけを減らすばかりの社会構造は、矛盾を抱えたままだ。

 かといって、その逆としての、個性を尊重しすぎてしまうのもまとまりを得るところが無い。

 何故に脳内報酬に対して柔軟さを求めるのかと云えば、
 それは、息苦しさを改善せしめる為であり、お互いの解釈の差に生ずる衝突を避ける為である。
 ‥そのように社会全体で認知すべきことだ。



1-8)4

 ‥さりとて、そこの都合をどう考えて行くかにしても

 お互いのメリットなどという脳内報酬を理屈づけに欲するばかりだろう。
 持続可能であるという以上のメリットを理解できないという矛盾は、ほとほとに病的だ。
 持続不可能と理解したなら、そのやり方を捨てるなり変えるなりすれば好い。
 始めからその様に心掛ければ良い。

 ‥それができないのだ。

 それはそうだろう。きっかけとしての横の繋がりを普段からそのように捉えてなどいまい。
 気がつけば‥好きな奴と嫌いな奴、賢いと馬鹿、かわいいと鈍臭い‥
 まぁそんな感じに色分けすることばかりを覚えている。

 ‥そこが理解できれば、さぁ競争だとしか教え込まれていないが如しでもある。

 競争主義=秘守主義でもある。オープンだけでも勝てないと思い込むばかりだ。
 斯様にも、
 お互いを競争相手としてでしか見ない社会構造は、その欠損を埋め合わせる処が無い。
 そこからの脱却を誰しもが抱けども、どうしたって勝ちたいと思ってしまうのだ。
 おいしい生活、上位の暮らしを望んで止まないのだ。
 それもこれも、脳内報酬のそのままだ。そのような憧れに注いで止まないという症候群だ。
 ‥止まない。調整できない。それこそを病状と呼ばずして何と呼ぶべきだろうか‥

 (‥人工知能なら明らかにバグに相当しよう。人間同士の欠損すらも改善できずに何が心回路か‥)


> では、次に
> ‥脳内報酬の順位付けなど存在しない‥としたらどうだろうか?


 順位付けが存在しないと定義した場合、
 人の方針に一貫性が存在しない次第を余儀なくせざるを得ない。
 ‥付け足して述べれば、それは価値観の暴走を意味する。

 代替できれば何でも好いということでもある。

 それでは何を以て脳内報酬を得ようとしているのかに、目的性もまた存在し得ないことになる。
 セックスで言えば、セックスだけが目的だ。
 誰が好いとか、どういうのが好みだとか、そんなのも端から存在しない。
 とくに同じ人間としての形に無くても好いのだろう。男と女の区別も関係ない。


 「何でも好いから生物を作ろう」そう言っているも同然だ。


 それでどうなる。どう生かされるのだろうか?
 その辻褄合わせとして、自分の手作りだから、何だってかわいいというのだろうか?

 ‥そう思えばこそだろうか
 人はそんな気持ちから、安易に愛の理想とか言い始める傾向もまた理解しよう。

 だが、目的性の無い形を以て、愛などと叫ばれても困ろうというものだ。
 ‥造られた側が、そこをどう思うべきかに戸惑いを感じたなら尚更にあろう。

 ‥ならば、そこを考えなくても好いように作っておけば好いのか?
 ‥それはつまり、造る側の目的性がそれほどに深くなかったという落ちでもある。
 ‥まさに、造ってみました。それだけだ。其を愛と思い込むのは造られた側の勝手である。


 目的性が無いと言うことは、とりあえず事が済めば用済みと言うことなのだから
 どうして同じ相手をパートナーとして大事にしようと思うだろうか‥
 ‥そこと同じであろう。

 それでも尚、順位付けが存在しない形こそが愛の理想だと抜かすのなら

 ならば一層のこと、願いなど叶わずに手の届かないところにあれば十分と告白したも同然だ。
 ‥手元に有っても無くてもどうでも好いと言うことでもある。
 ‥ならばこそ、望ましき現実を引きつけようとの力が作用しないのだ。する必要を肯定していまい。



1-8)5

> では、なぜ順位付けは起こり得るのだろうか?
> そしてそれはなぜ、作用だけ同じでも、各々で微妙に順位対象が異なるのだろうか?


 順位付けの書き換えは常時起こり得ても
 順位付けが存在しないという人間性を以て人間らしさを定義づけることなど不快なだけだ。
 ‥否、価値観の順位付けが存在しないなどと言う人間性を人間とは呼ぶまい。

 ゆえに

 価値観の順位付けにおいて、思い煩い、悩み抜くのもまた人間性としての特徴と言うことになる。
 ‥悩みのそもそもは、順位付けそのものでもある。

 ならば悩むもまた善しである。

 ただし本来的な目的は悩むことではない、
 順位付けを書き換えて、今すべき事に集中したいというそれだけだ。

 ならば、順位付けが起こり得るとは、目的を見出すからに他ならない。
 各々で、見出す目的が異なれば、作用が同じでも順位対象が異なるに何ら支障は無い‥



1-8)6

> では、なぜ目的は生ずるのだろうか?


 ‥生きているから
 ‥それが人生というモノだから
 ‥生きがいなくして人生立たず

 本当にそう思うのなら、生まれてきたそれ自体に目的が無いという判断は不適切になろう。
 そしてその問いには、生まれ来る以前を解釈せざるを得ないのだ。

 ‥そうなら

 興味本位に順位付けを書き換えることに意味も無いということにもなろうか。
 正確に言えば、挑戦する段階ですでに諦めているような方向には適性がないと判断してよい。
 つまり、目的として対象に目覚める処が得られないようなら、そこに道は無いと言うことである。


 其を問い掛けるように、三つ子の魂百までとした構造におかれているとしたらどう思うだろうか?

 それはそれでどうしたことか‥
 三つ子の魂にこそ、人生に於ける何かが絡んでいると解釈せざるを得まい。


 ‥だがしかし
 それは本当に正しいだろうか?
 そこが正しいと思えるほどの何かをその時期に掴んだと言える確証はあるだろうか?
 また、少なくとも‥目的を達成した場合はどうなるであろうか?

 一方で、生まれてきた目的と呼べる目的など早々簡単には分かるまい。

 ‥しかしである

 途中から割り込んで来ることになるのは、年齢が行くほどに新しき何かと言わざるを得ない。
 でもだからと云って、
 元々に培われてきた己の気持ちをほっぽってでも価値があるなどと言うのも頷けるほどにないのだ。
 それでも、思い込んだままで好いという程の確かさもまたどこにも無いのだ。



1-8)7

> では、そこに生ずる抵抗感とは何だろうか?


 脳内報酬として見た場合、
 自分が宿った肉体には肉体としての許容が存在しているも同然だ。
 実際、そこには遺伝子上の差というものが絡む。確かに何らかの蓋があるようなものだ。

 ‥そこを超えてまで求められる自体には無いということでもあるのだろう。
 ‥それはまた、社会全体の構成にも当てはまることだ。

 ‥なのに人の理想は
 そこかしこに存在し得るだろう蓋を知らないがままに思考する。


 蓋があるからそこを乗り越えようとして思考するのに
 蓋があることを前提にしないで思考しようとするのだ。

 一般に其を「稚拙」「お花畑」と呼ぶが、それにしても、蓋を先になど考えるまい。
 其をまた、「夢」「ロマン」と称してもっともだと謂わん顔である。それが人間だ。

 されど、其を恥じる必要など、これぽちも無い。


> 恥じるべきは、蓋があることでへたれてしまうというそこだけだ。


 ‥へたれてしまうことには恥を感じる癖に

 いざ書き換えようとすると、途端に以前から培ってきた脳内報酬の価値を惜しむのだ。
 名が廃れるとかなんとか、努力がリセットされるとかなんとか、まぁそんなところで引っかかるのだ。
 ‥そんな過去形の悦びに何の意味があろうか?
 ‥そしてまた、どうしてそこが否定されると思うのだろうか?
 ‥自分が続いてあり続ける限り、いくらでも再発見はされるだろう。

 そこを理解しない限り、前進も前向きも脳が受け入れることなど無い。


 ‥昔と今と未来、私と貴方とみんな、それぞれに差が無いというわけではないにしろ
 ‥どれかに焦点が注がれれば、回りがぼやけて見えるのは物理的な理屈でしか無い。それだけだ。
 ‥そこの焦点がぼやけるのが許せないというのは、どれ程に病んでいるのかと疑わざるを得まい。
 ‥病状を個性と考えては明らかに暴走だ。否、暴走しか引き起こすまい。

 ‥暴走のままで好いというのなら、明らかに意図的に仕込まれた暴走もとい性格なのだろう。
 ‥同じであっては全体は機能しないし、持続とてできないのだからな。
 ‥ならば始めから、違った要素を織り込まれてあるという点に注目せざるを得ないのだ。



1-8)8

 画一した子育て・教育・はたまた自身の過去のパターンに当てはめようとする親の傾向は、
 当てはまるもしくは当てはめることで、該当例が存分に適応すると思い込んだ思考停止に他ならない。
 親が思考停止を求める傾向のままでは、子も同じ傾向を辿らざるを得まい。

 ‥そこを乗り越える意味でも、横の繋がりの意味をもっと咀嚼すべきことだ。

 横に繋がるべきは、親ばかりではない。
 子は子から刺激を受けて、脳内報酬としてもその広がりを確保するものだ。
 ‥そこをダメダメのパターンを繰り返していては、身も蓋も無いと言うことである。

 だからといって、何でもかんでも解放というのも、画一化と同じ結果をもたらそう‥
 ‥要は、子は大人の方針とやらを見ていると思えば良い。
 ‥方針のハッキリしない乗り手では、馬だって気持ち良く走らないのと同じなのだ。

 そしてなぜか

 子は始めから、好きな方針と苦手な方針を刻み込んでいる。
 教えられるまでもなく、覚えているかのようにそこに差が現れるのだ。
 ならば、親が方針を決める必要もあるまい。すでに子の側に方針が示されているのだからな。
 そこを汲めない親に、社会に、納得が行かないのは子供も大人も同じことだ。


 ‥そんなのは言われんでもわかるべきである。
 ‥わからんのなら、親には向かないというだけの話だ。


 わからなかったら、わかるように、試してみれば好いだろう。
 尤も、試すべき視点も要領も分からないからこそ、画一に並ぼうとするわけでもある。

 そうだ

 社会に出たって同じことを繰り返している。(自分自身にだってそうだろうに‥)
 ‥子供は特別だからなんて言っているのは、
 取引先に頭が上がらないままに振り回されているのと一緒。
 聞いて恥とか、逆らうと愛想を尽かされるとか、空気読めとか、
 それこそ上から目線の教育に他ならない。
 (それがまったくダメとかは思わないにせよ、要は、度合いの問題だ)


> そもそも、そこに求めて止まぬ脳内報酬とはなんだろうか?


 ‥どう考えたって、報酬を優先にした考えに過ぎまい。
 報酬を優先に考えていては、どうしたって書き換えに応じられる状態には無い。
 どんな人工知能だって、そのようにプログラムしてしまえば、それ以上に学習などしないのだ。

 人でさえ日常であろうに、{能力主義}={報酬主義}‥ただそれだけのこと。


 対処とする当人の成長の糧になるならと、生きがいの糧になるならと、
 敢えてお馬鹿を演じて見せるのかどうか‥(ボケとツッコミだ)
 勝ち負けしか計算しない思考ルーチンでは、そんなユーモアなど発生しないのだ。

 ‥人工知能に何を求めて行くかにしても、ユーモアの干渉、そこの先読みということになる。
 ‥どれ程に人間の成長過程を知り尽くしているかを識らぬ輩にそこまでの知能を宿らすことなど不能。
 ‥そもそもにして、成長の糧とは、決して喜ばせる事だけでも無いのだからな。
 ‥そのような代物、恐ろしすぎて責任を負えまい。
 ‥ならば、始めから人工知能に求めて叱るべきは、安全性の指摘とした方向付けにあろう。


 親が子に伝えるべき姿勢もまた同じ。
 親自らが、安全性の何たるかを心掛けていないのに、子らの未来もあるまい。
 ‥現代経済のインチキ性を知れば知るほどに身に沁みるであろう。

 脳内報酬として順位が始めから備わるとしたら、そういう次第にならざるを得まい。

 でもまずは、それがどうしてダメなのかという失敗を植え付けるのも先となる。
 ‥何はともあれ、若さをどう活用するかでもあるのだからな。
 ‥生物に寿命が付きモノなら、程ほどにそれらを鑑みてプログラムせざるを得ないのだ。
 ‥もとい教育か。
posted by 木田舎滝ゆる里 at 12:19 | Comment(0) | 哲学/一般 | 更新情報をチェックする
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