2016年07月06日

【哲学】存在性の肯定の為に

↓6)記稿.2016/07/06

> すべてがまともにないと判断したなら、思考の起点を己に委ねることは、むしろ聡明である。


 ただし、そこに得られた聡明さを以てしても、己の判断が一番に正しいことを誰も確信できない。
 そもそもにして
 すべてがまともでないと判断してしまったのだから、正しさなどというモノは存在し得ない。
 ‥然れども、明らかに己の判断や理解より上だとした評価は、不可解にも可能だ。


 ただしそこには、すべてがまともにないと判断した者同士にしか分かり得ない評価性が発生している。


 ‥すべてがまともにないとは、つまり
 普通とか標準とか常識などというのは、特定の趣を共有する為だけに用いられる所作であるが
 それ以上にはなんの役に立ちゃしないと言うことを理解した上で、
 誰しもが実際にはそこを曖昧にしか踏襲し得ていないという事実を指す。

 翻せば、
 共有されるべき奥行き&輪郭が把握できていればこそ、すべてがまともにないとした判断に届くのだ。

 ‥まったく以て
 それぞれに於いて典型例となるような所作のままを往来する者や事柄などなど
 ほんの一握りに過ぎないではないか。

 「何が普通足りるのだろうか?」

 否、むしろ普通を乗り越えて、上位に立つべきこそが常識だと謂わんばかりだろう。
 ‥超え難いからこそ標準域と思い込んだだけの惰性がそこにあるだけだ。


 何はともあれ、多くの者らが、要領さえ掴めればあとは成り行きだと思っている。
 ‥その要領調子の結果、亜流が蔓延るのだ。出来不出来が発生しよう。事故にも繋がろう。
 そこに、十二分に検討された上での把握などあっただろうか?
 ‥どちらにせよ、失敗こそが優先とばかりに、やってみなければ分からないで蔓延っている。


> ところで、それら評価は、どこまで詳細に且つ客観的に見極めが可能だろうか?


 ‥仮に
 すべてがまともにないとした判断の位置づけが
 己の理想なり観察眼に適わずに不一致だからだとしよう。

 すると‥一致する者同士とは、お互いに百点の評価と言うことになる。
 是により、すべてにおける評価は相対的にしかならず、絶対的なるモノを誰も判断し得ない‥
 多数決で大半だからと云う位置づけにしても同類に据え置かれたままだ。



1-6)1

> ‥では、まともになきと思しき集合であるにも係わらず、
> 全体で常にある程度のバランスを維持するのはなぜだろうか?


 釣り合ってそうで釣り合ってなし‥いつでもひっくり返りそうに見えてそうでもなし‥
 日常の至る所で、そんな塩梅だ。実に不可解にあろう。


> ‥では、拮抗が崩れる時にパターンは見られるだろうか?


 そこに法則性が見られたなら、バランスを司る何らかの存在性を判断でき得るだろう。


> ならば、そこに見出された法則性は絶対的に信頼に足るモノだろうか?


 そもそもにして、法則性たるモノの見方自体に判断力の善し悪しが伴うのだ‥
 また、その法則性が如何様に機能しているかに於いて、擬態がないとも限らない‥
 擬態の目的とは騙すことである。それは遠ざける為でもあり、近づけておく為でもある。
 バランスの維持される経過と擬態の必要には、その目的性に於いて似通った性質をうかがわせる‥


> では、なぜ思考は擬態にのせられてしまうのだろうか?


 思考が思い込みにのせられてしまうからこそ、擬態は機能し得るのだ。
 擬態の効果が多くに通用するからこそ、すべてがまともにないと判断できる構造を醸し出しもする‥

 つまり翻せば、
 そこに見られた擬態性がまともにあるとの判断に至らないのであれば
 全体にまともなどやっては来るまい。
 (言わずとも、理解にはまず、それぞれ思考の焦点を合わせる必要が伴うのだ。)


 ‥擬態性がまともとは‥
 擬態が伴って漸くにして、そこにバランスが得られて、全体が落ち着いて存在し得るとした解釈だ。
 嘘も方便‥まぁそんな感じか。

 斯様にも、私たちの日常は、
 そこかしこにバランスが計られてある様にも見える。
 ‥それは、そこに目的性が無いとは思えない様にも見えると云うことだ。

 またそこに目的が伴ってあるというのなら‥
 バランスを推し量る側が、何らかの目的を達した場合には、急激な変化の訪れも想定されてこよう。
 ‥失した場合も然りなり。



1-6)2

 まともに思えないままの判断の多くは、そこに生じたバランスの中身と状況を
 宇宙大にまで遡って判断できないことから生ずる。
 なぜ、大抵の多くがそこまでの視野に立って物事を推し量れないのかといえば、
 対象となる多くが、バランスを司る意思の渦中にあって、尚依存したままにあるからだ。

 (ここでの依存とは、客観的に考える上での知識に乏しき事情を指す。)
 (又、役に立たない的外れでも、同じことだ。)


 ‥絶対的な何らかの作用・意思を想定し得ない限り、バランスなど働くわけがない。
 そして、そこにあるだろうバランスもしくは擬態を認識できないのなら、
 誰であれ絶対性には届かない。


> では、如何にして絶対性に手が届くだろうか?
> バランスを司る絶対性とはなんだろうか?


 すべてがまともにないと思えるのは、こうでなければならないとの概念が薄くなるからだ。
 こうでなければならないという概念が薄くなるほどに
 バランスを保ちたる妙に、喜びを見出し始めるという奇怪なる事実に出くわすのだ。

 そこに見られるバランスを如何様に説明しようとも、妙としか言いようがない。
 そこに秩序性を求めて探求しようとも、説明の付かない物事は往々にして在り続くのだ。

 ‥それはつまり、必要に応じてアイデアが上書きにも付け加え続けられた結果だろう。
 私たちの日常と同じように、宇宙もまた同じ構造にあるとして思わざるを得ず‥


> はじめから作り直して整然とさせようにも、宇宙のどこにメモを残せるというのだろうか?


 残したまま、あるがままがメモになる‥それが宇宙だ。
 こうしようとして試みた結果だけが、宇宙の狭間に、意図的な経過を記録し続ける‥
 そこには一貫した法則性があるようでいて‥またそうでもなく、実験的な痕跡にしか見えやしまい。



1-6)3

> 誰がそのようにしようとしているのか?
> そこに在るのは何だろうか?


 ‥それこそを意思たる何かと呼ばざるを得まい。
 意思が、宇宙を介して素材を造り出し、素材を組み合わせ、命を吹き込む‥
 ならば、その意思からなる作用を、大いなるなどと特別に扱う意もまた不用なり。

 斯様なるに似た作用を発揮し得るなら、対象となるすべてが大いなるに相当するというものだ‥
 それこそが私たち人間の類いである。
 否、意識ある何かとして感じられたならば、同じに考えるべきことだ。

 一つ一つではそうに見えずとも、
 総ずれば、全体像としては、斯様に似て見えもしようか‥
 人間の類いだけで成り立っているわけでは無い、それが生態系である。
 生態系の全体で見てこそ、そこにある機能を以て、大いなるに準えて観ることも適おうか。


 ‥否、むしろ総じて尚、そこに何らかのバランスにたる方向性を見いだせない方が不可解だ。


 仮に、そこにあるだろう方向性に、まともなど有るわけが無いとして見下すなら、
 そこに見られる私たちにある見方と言えば、
 ‥彷徨いであり、その前提として有り続けている排他性にあろう。(無常に嘆くばかりだ)


> では、宇宙的な規模の意思にも、排他性が見られるとしたらどうか?


 そこに訪れた思考の欠片を、経過を刻むばかりのメモ性すらも排除して、
 滅殺、封印または無き物として扱うのだろう。
 其は擬態かも知れないし、限界性かも知れないし、必要と選択からの発動的容認性かも知れまい‥
 (結果として,不可解な風習なり、感情に伴う感覚が身についているのかも知れまい)

 なぜそうするのかと云えば、目的に適さなかったからだ。
 裏付けたる失敗例が過去に生じたのだ。
 ‥ゆえに、同じ過ちの訪れを排除する為だ。

 ならば

 ちぐはぐしているように見えているそこには、排除して置きたき何かを抱えてあるのだ。
 すっきりと見えてくるなら、それはそれで、隠すことなく丸見えということになろうか。

 ‥私たちに馴染んだ言い方をすれば
 人それぞれに於いて成長のテンポが異なる、姿形が異なる、好き嫌いが異なるなどに該当しよう。
 すべて時期なりタイミングなり、その都度着目の仕方が異なることからの印象も違ってこよう。


> なのに人は、己の見方を余りにも過信しがちだ
> 隣からしてみれば‥ギャンブルたるその判断を‥そんなにも信じて好いものだろうか‥
> 異なっているからこそ、多彩な見方がまかり通り、己の不足を味わうことにもなるというのに‥


 ‥だがしかし
 思考の起点を己に委ねることを止めるわけにも行くまい。

 どんなに信じるにたる気持ちを強く抱いても、
 宇宙のそこここに垣間見えるちぐはぐからは
 己と似通ってあるとした程度の共通痕がうかがえるぐらいの判断しか付くまい。
 そしてそこには、己と似通った排他性を抱えてあるという意味合いを併せ持つ。
 ‥同調してると思うなら、そこに今存在するのなら、そのちぐはぐをすでに了解している事にもなる。



1-6)4

 ‥過剰な同調が錯覚を招き、己の見方に過信を生み出しているやも知れぬ。
 渦中に呑み込まれてあると思うなら、依存せざるを得ないというのなら、つまりそうなろうか。

 まずは、周りを見定めると同時に、己を確認する必要がある。

 そこに生じうる思考に善も悪もない。
 在るのはただ適応できるかどうかというその程度の関心だ。
 適応、同調、反発、崩壊‥それのどれが発生するもせずも、お互い生命ゆえに意思のままである。


> 私たち人間において、剥き出しの排他性はどうしたって課題にある。
> そこを助長して在り続ける競争に何の意味があるだろうか?


 問題は、区切りを付けられないという脳の構造にあるとも言えるが‥
 それにしても、公平になければ、区切りなど誰も認めるまい。

 そして、区切りを受け入れれば、そこで経過も一旦リセット&整理されるのだ。

 ‥一時的であれ、己の姿までが凸凹したように見えても来よう。
 アレはダメ、コレはイイ‥そこに混乱が伴うのと一緒だ。
 一時的にあることを理解できなければ、そこで区切りを付けることなど定まるまい。


 区切りを理解できずに過去形に思考を続けようとすれば‥
 そこに起こり得る判断として、己自身にその排他性が向かうことにもなりかねない。
 己の存在を、まず自らが排除してしまうという因果を纏っても、生きづらいだけである。

 運良くその逆も起こり得るかも知れぬな‥所謂、現実逃避的美化世界依存症である。
 ‥そこでは少なくとも、己は特別扱いにも優遇されるのだ。
 ‥自己排他性よりは幾分ましだが、排他の過度の方向性が違うだけで本質はさほど変わらない。


 少なくともこう言えよう。

 勝敗(存続)にこだわる余りに、
 自らの価値性たる判断をも、その勝敗を以て基準と化してしまうと‥
 他の要素を切り捨ててまで、そこに基準を委ねてしまう必要などあるわけもなしに拘わらず。

 はじめにこう判断したはずである。

 ‥すべてがまともにないと‥
 だからこそ自分に必要と思しき判断を己に置いたのだ。
 なのにそこを放棄してしまったのだ。それこそが勝敗依存である。

 「それでどうして公平が生み出せるのだ?、手にできるのだ?」

 そこに見られる勝ち負けへのこだわりが収まらぬとすれば、それは単に排他性に他ならない。
 (それも、ひどく曖昧な基準からなる排他性に染まっておろう。)


> そこに見られる人の抱く排他性とは一体何だろうか?


 その正体とは、
 それは、あなた自身が排除したい本当の目的が、自らの思考と言うことだ。
 (気持ちとも、感情とも、記憶とも‥)
 そこにある思考を殺したいのだ。忘れたいなどとしても似たようなものだ。
 (‥納得できないから、納得を付けたいのとは、随分と異なってある。)


 己に価値が無いと思えば思うほどに、自らの存在性に疑念を募らせ、自らを遠ざけるばかりだ。
 翻せば、其は相対的な作用の中に置かれてもいよう。
 他者への‥他者からの‥妬みも恨みも憎しみも同じことだ。

 ‥どれもこれも、価値が無いとして切り捨てんばかりだ。

 そこに智慧など訪れるわけがない、それをエゴというのならエゴなのだろう。

 それこそ、自分勝手な思い込みに染まり切った言い分にすぎまいて、
 自らのエゴでもって、自らを遠ざけ、滅する方に導かんとして、あろうとし続ける‥

 実に救いようがない‥
 ‥何がしたいのだ?
 ‥そのように自らを、お互いを、貶める思考で、何を期待しているというのか?



1-6)5

 生きているという一点に於いて
 生かされてあるという一点に於いて
 お互いはお互いからの思考を介して、存在性を介して、存続を為してあるのだ。


> 自己を表現するに於いて、他者の気配をうかがってばかりでもよろしくない。
> また、顧みるに第三者の視点を借りて来ないというのもよろしくない。


 発言を畏れてばかり居ては、畏れから逃れ出ることも無く、
 その畏れは、いつまでも己の上に戴いたままだ。
 ‥それでどうして自由に表現されるなどと起こり得るだろうか。

 自由とは、言葉の定義などではない。実際に心の中で認めてしまっているままの如しだ。

 ‥認めるから自由、はみ出るから自由
 ‥自分らしくあろうと願おうと、自分などと言う枠が何の役に立つというのだろうか?
 ‥望んだ思考にたどり着けないのなら、辿り着いたにたる者に向き合ってみるのも良いだろう。


> 己を肯定すべき旅路から始まり


 どのような道のりを渡るにせよ、
 まずは、自らの思考が、自立にたる自由を如何にして確保しているのかを確認すべきである。

 思考の上に置いて

 他者をどれ程に上に戴いてしまっているかという矛盾は‥
 他者をどれ程に下に据えてしまっているかという矛盾は‥
 そのままに、自らの視野を狭めて存続させてしまうだけである。

 ただし、視野が自在に有れば有るほどに、

 そこに同調してあるからこそ、上下もまた発生し得るのだとの理解にも及ぼうか。
 わかっているかいないかの違いだけがそこに在るだけだ。
 ‥それにしたとて、いつまでもそれがそのようにあるとは限るまい。

 (ど忘れ、不覚、勘違い、体制の崩壊などなど、いくらでも起こり得る。)


> 必要がなくなれば、変わるのだ。
> 必要が伴えば、変わらざるを得まい。


 ならば、必要のない内は据え置きだ。
 物理的にもそうでしか有り得まい。無理に己を卑下する必要もないのだ。逆も然り。

 そこをはみ出して、是が非でもというのなら、等価交換は求められるだろう。
 それにしたって、見所がなければどうしようもあるまい。
 ‥意思同士にてもたらされる等価交換の前提は、あくまで見所なのだからな。


 その見所を極端にしたのが能力主義になるわけだが、
 それにしたって、何を見込まれているのかなど知らずに居るのが大概だ。
 ‥自分の目の黒い内に、お得にあれば好いと思っている。

 そんな主義主張のどこに自立が伴うというのだろうか?

 ‥斯様にも、大概にせよと申し付けられる程度の扱いは、往々にして知れた程度のままだ。
 真に自立とは、自分勝手な無鉄砲を指してなど語るまい。
 何が自立に適うのかと問うなら、その判断の方向性に不適またはブレが少ないと言うことである。


> そこには、すでに目的が求められてあると言うことよ。



1-6)6

 自らに強き目的意識の姿を以て、「愛」と叫びたければ、
 尚のこと自らに成し遂げんとした行動力を欲しているだけにあろう。
 その念いだけを以て、愛とか慈悲深きとやらは、ちと早とちりにあろうぞ。
 実際は時が経過してみなければ、説得力など誰にも与えるに足るまいて。


> それで、どれ程に、事は成し遂げられたのであろうかのう?


 ‥当人がバッチグーというのなら、それはもう呆れんばかりじゃろう。
 ‥愛を叫ぶなんてそんなもんだ。実に恥ずかしくて口に出せないのが本音であろう。
 ‥昔はそんなだったから、「日本魂」と口にしていたというわけよのう。
 ‥当時の女子の大概は、そんな男児の心意気に萌えとったんじゃろうのう。

 今の時代はかなり違っておる。
 世間ではそこを「欧米化」と言いよるのう。


> ‥で、世界は日本魂を学べるのかのう?


 世界が日本魂を学べるとなると、日本もいずれ衰退せざるを得んのう。
 ‥学べないとなれば、日本はいくらでも甦るということじゃのう。
 ‥実感としてあるじゃろう、人は其を「神州」と呼んでおる。

 さてさて

 それでそんな思考をどこまで信じて好いのやら‥鵜呑みではダメというのが日本魂にあるのだ。
 そういう意味では日本人も又、血の気は多い方だろうな。
 ‥西洋の血の気の多さとは、意味が随分と異なっておる。
posted by 木田舎滝ゆる里 at 23:00 | Comment(0) | 哲学/一般 | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
コメントを書く
お名前:

メールアドレス:

ホームページアドレス:

コメント:

※ブログオーナーが承認したコメントのみ表示されます。