2016年07月20日

【哲学】{遺伝子の可能性}={意識の想像性}

↓1)記稿.2016/07/20

> 仮定1:意識が存在しなければ、遺伝子も存在し得ない。
> 仮定2:意識に想像性が発生しなければ、遺伝的可能性も創造(再構築)されない。
> 仮定3:意識が宇宙に投影しなければ、宇宙はその投影エネルギーを具象化させようとも思わない。


 意識を不活性のままに据え置けば、遺伝的可能性も発動せず、種の存続にも繋がらない。
 この時、意識の活性化は何も個に限らず、全体的な伝播による恩恵の方が有利に置かれるが
 ‥個に於いてお互いに活性化を求めなければ、全体の活性度も緩やかなモノとなる。

 遺伝的可能性のみを直接的に弄ろうとも、それは弄ったという想像性において具象化されるのみ。

 遺伝的可能性に於いて
 意識を作用させ続けなければ、そこからの進化たるよすが(再適正化)が発生することもない。
 (新たな因子の植え付けに対して再適正化がされないのは、意識とが釣り合っていないのだ)
 (‥意識との釣り合い、環境との釣り合い、必要との釣り合い‥)


 仮説から言えば、
 基本則として、遺伝子は意識の作用に添い従うのであり、
 又同時に、意識は全体意識の相互作用にも置かれている。
 結果として、宇宙全体の意識の相互作用により、取捨選択の因果に沿った流れに据え置かれる。

 ‥人類はその作用を歴史的見地から「無常」と呼ぶ。

 創造的見地から言えば
 不用なモノ、不適切なモノは時として排除され整理される。(管理人意識の存在想定)
 ‥それは意識に拠るセキュリティ機能とも言えそうだが、時としてなりすましにも見舞われる。
 ‥それは、セキュリティが意識を有するがゆえに引き起こされる気まぐれとも。力の逆転とも。


> 予想


 基本的に、宇宙全般に於ける事象には
 意識による想像性の作用に対して、作用と反作用の経過が存在し得、そのように因果が作用する。


 一過性の想像力もしくは思念エネルギーから及ぼされる作用は、
 常に同時的に反作用からなる打ち消しが引き起こされ、時間差を伴うも、
 次第に打ち消し合って消えていく。
 ‥例えるならそれは、空気抵抗、又は、電気回路上に存在する熱摩擦のようなモノだ。


> では、想像性エネルギーはどこからやって来るのだろうか?


 私たちの日常から言えば、エネルギーは宇宙に満ちてある。
 宇宙そのものがエネルギー体にある。
 その中から、如何なる性質のエネルギーを取り出すかは、はじめから因果付けられた何かが在る。
 人の想像性エネルギーもそんな因果の一つと考えられる。(予想&未確認)

 だが、私たち人類に於いて必要なことは

 より大きな想像性エネルギーを取り出すことではない。
 どのようにして、日々日常に於いて、それら想像性エネルギーを無意識的に用いているのかに尽きる。
 ‥その無意識的な中身を紐解けば、上手に活用している者とそうでない者とに区別されるだろう。


> 想像性エネルギーが自らのまたは互いの遺伝的性質に影響を及ぼすならば
> 余計な思念エネルギーの放出、放流が自らの望みに対して反比例をもたらすことは予想に難くない。


 ‥過ぎたるは及ばざるが如しであり
 想像性エネルギーを上手に活用すると言うことは

 余計な波風を立たせないことでもあり
 必要があれば、上手にまわりをその気にさせて牽引することでもある。

 どちらにせよ、エネルギーの流れには、中心と回転の流れが存在する。入口と出口である。
 ‥はじめとおわりである。節目である。
 ‥焦点を欠いていては、どのようなエネルギー活用も効率よく作用しない。



1-1)1

> もう少し具体的なことを述べるなら、こんな風だろう‥


 ‥世代ごとに顔の特徴というのが見られる。
 種族というのは、交わりの度合いから形成されるモノという解釈のままだとしても
 どうして、世代ごとで顔の特徴が明確に現れるのかは非常に謎である。

 それは、親世代が、どんな顔を望んだかという因子として、世代の遺伝子に影響を与えるからだ。
 また、同時に
 如何なる暮らしぶりをしてきたかによる影響からの最適解を、無意識的に調整していると考えられる。

 ゆえに

 親世代から見て、年頃になった子世代の暮らし認識を見て違和感を覚えれば
 それは、自分たちの暮らし方の問題点のあらわれであり、
 親世代から見て、子世代の顔つきが精錬されていると思えば
 自分たちの思い描いてきた美意識の現れと言うことになろうか。

 ついつい、見てくれさえ良ければすべて良しのノリに優先されがちだが

 そんな方向に意識の主体を向けてみても、何も変わらないのは相変わらずである。


> ‥しかし遺伝子の成長的展開はまさに過去の追体験からの始まり同然であるのだから
> ‥どんなに好き嫌いしようと、気をつけてみせようと、訪れるものは訪れるのだ。


 {遺伝的追体験}={正体不明の得たい無さ}={先祖的未消化なる葛藤}
 ‥から逃れられるなんてことは有り得ない。

 むしろ、そこを乗り越える為に用意されているのがその手の葛藤であり、同時にエンジンたり得る。

 だからといって、葛藤を中心に据え置く考え方や思い込みは、正しくない。
 ‥如何にして想像性を発動させるかに、踏襲など前提にする必要はない。
 ‥まぁ暴走してみても、生命生物の性質上、収まるところに落ち着くのが流れだ。
 ‥まわりを差し置いての、DQN的想像性フルコンボ発生など自滅と同義である。
posted by 木田舎滝ゆる里 at 22:23 | Comment(0) | 哲学/一般 | 更新情報をチェックする
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