2016年07月31日

【哲学】非凡なる目標論

↓2)記稿.2016/07/31

 自由にほだされると、目標はなぜか自己中になる。
 ‥なぜかそう‥
 そうやって、まわりが動き出すと、もう、バラバラだ。
 そして、能力主義がもたげだす。
 それをなぜか誰も咎めない。
 咎めようが無いと思ってしまうほど、できる側に頼り切る。
 自由と言いながら、実は頼り切る事の方が大きい。

 その頼り切った様は、上に立つ側も実は同じだ。

 できない奴らが居たから、上に立てたというその今の居心地がある。
 其を失うことを非常に怖れ、先手を打たんとして策を練る。
 そりゃもう小賢しい、しかもそれらを尤もな顔で社会的な目標に押し上げるのだ。

 誰しもがレールから外れることを恐れ、いつの間にかそれでさえ受け入れ始める‥

 ひとり一人の程度や気持ちにそぐわぬそれらは、どうしたって
 次なる出来不出来を撒き散らすばかりだろう。


> 目標のそもそもを自己中にしているのはなんだね?


 それこそが、自由だよ。
 他者を選り分けて始まるという自由の基盤だ,蹴落すとも言う‥
 自分が頑張っただけを手に入れる‥そんな言い分だ‥
 それだけの為に‥よくもまぁ頑張れるものだよ、それはもう呆れるね。
 大体だ‥そんなところから始まるヤリタイを、よく目標だと言えたもんさ。



1-2)1

> 本来、目標とは種を蒔くようなものだ‥純粋にそれだけだ。


 種は蒔くだけで、種自体は私では無い。
 でも、誰がその種を願い望むように育ててくれるだろうか‥
 だからこそ、自分で育てる姿勢こそが肝心だ。

 そしていつの間にか、種=自分というエゴが顔を覗かせるようになる‥

 ‥だがしかし、どうだろう‥
 人生に撒くべき種が如何にして芽吹くかなんて、自分自身謎なんだ‥誰だって同じだ。
 育てるべきは種であっても、実は自分自身でもある。
 頭ではわかっていても、エゴが顔を覗かせるようになると
 種の出来具合を突っつかれただけで、自分までが馬鹿にされたと思いだす‥


> 結局、人として大きくならざるを得ない


 ならば、そこに同じ方向性が見えたなら、似た同士、お互いが手をより合わせるしかあるまい。
 なにしろ、目標は誰であれ、種が芽を出して実りを見せることにある。
 決して、実りの具合を競って、自己満足にも実りの出来映えを自慢することではない。

 そもそもにして、種が実るのは、種そのものからの生命力に依ろう。

 人のしたことは、その実りがひん曲がらないように手を加えただけのこと。
 そこに、自分が創意工夫したなんて言えるだけの何かなんて本当はそれほどに無いのだ。

 つまり、私がしなければならないなんてきっちりとした方法論もまた存在し得ていない。


> そうだ、「種を蒔いて待つ」それだけだ。


 心構えとしては、それだけが適切だ。
 他にあれこれとした心構えなど必要ない。

 「実りを待つ」‥それに尽きるのだ。

 その為にもまずは、キッチリとしたイメージが求められる。
 ‥ぶれたイメージからは、何も生み出さない‥
 イメージと現実が釣り合うようになるには知識も必要だ。
 否否、知識などさほど重要では無い、そんなのは知ってるところに行ってお願いすれば良い。
 肝心なのは、「信じて待つ」ことだ。「堪える」とも言う。
 信じられるだけのビジョンと人格と信頼があればこそ、尚更にそこに始終するだけである。


> その時こそ、人ははじめて「至遊」を得るのだ。


 至遊【じゆう】‥それは、したいことをしているとした爽快感と言えるだろう。

 ‥自分の目の黒い内に結果を見たいなどと言い始めるからおかしくなる。
 そんな欲も捨てて、気長に構えられるかどうかだ。

 勿論、これは単に心構えの話でしかないから
 現場に出れば、自分は種の側になるわけだから、色々と角の立つこともあるだろう。
 でも、自分の種だけが優先的に大きくなれるなんて道理は一つも無い。
 ‥そんなのはお互いに二の次だ‥
 イメージに変更はなくとも、完成には常に変更が付きまとうものである。

 「自由度の低き至遊など無し」



1-2)2

 誰しもは、自分の力だけでは力不足を痛感して前を歩いている。
 「お願いします」と「手を合せましょう」がもたげているようなものである。

 ‥人間なんだから、其に生きているのが自然体というものだ。
 ‥そんな人の自然体を否定しても、前進など有り得るわけもなし。


> しかしどうか


 目標もその気も無いくせに、馬鹿の一つ覚えで、
 「お願いします」と「手を合せましょう」が前を歩き出す。
 ‥形から入ればそれで好いと思っている‥
 まるで、人様の役に立てればなんでも構わないとばかりの自惚れだ。

 ‥中にはどうした風の吹き回しなのか
 自分なら、その問題を解決して見せますと謂わんばかりである。
 そんな単純じゃ無いからこそ、手を合わせる必要があるというのに‥

 なのにどうしてか‥「私ならやって見せます」が大手を振ろうと我がもの顔だ。

 ‥種を蒔くだけのそれにどうして、誰かから承諾を得る必要があるだろうか?
 ‥それをそんなにも成し遂げたいなら、すでに始めてるだろうに。

 そうに無いという口先だけの中身が実に胡散臭い。
 そんなのは大抵、上手く行かなければ逃げることになる‥
 右と左を比べて、良い方に付くという幻想に抱かれるのが落ちだ。


> どんな種だろうと、実るまでには、根気よく待つ必要がある。


 その待つ気構えができているかどうかを見極める力とは、
 結局の所、どれだけ辛抱強く自分と向き合って己を観察したかに尽きるのだ。

 それはそのままに‥自らの積み重ねの中の様々な思いを己に刻み込む。

 結果、他人が今どの辺を彷徨っているかの判断の参考にできるのだ。
 辛抱する心理なんざそんなに違わないんだからな
 辛抱したことの無い輩に限って、そこがまったくわからないらしい。
 屈辱を知らぬ者が、屈辱の先を理解できぬのと同じだ。

 ‥尤も、屈辱の先を識ることができる者もそう多くあるまい。
 (だからこそ、競争にほだされて過当競争にもなろうというものだ)
posted by 木田舎滝ゆる里 at 00:35 | Comment(0) | 哲学/一般 | 更新情報をチェックする
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