2016年12月10日

【勝手句帳】054 28-12-3 静岡新聞掲載分から

↓4)向宜詠吟.2016/12/10

|ゆっくりと杖をつきつつ歩く我それをおいこす若き足あり      牧ノ原市・浜木綿短歌会


 ‥いやはや、老いの視点ですなぁ
 まぁ、杖といっても怪我すりゃ突く松葉杖もありまーす。

 追い越す追い越されるにしても、何をそんなに意識なさっているのでしょう。
 確かに‥若さが気になる点は誰しもに訪れる問いにあるにせよ、

 ‥詠みにまで老いを持ち込む必要を誰も強いてなどいないのです。

 つまり、そのように思ったままに、自分を追い込むのもまた自分なのでーす。
 普段の何気ない小事でそれでは、何事も気持ちからして大事には対応できませんな。


> 大事こそ共生なのです。
> 斯様にも、比較意識がちらついては、とてもとても乗り越えられない方の選択でーす。
> ‥選択と云うよりは、性格‥もとい症候群ですな


|ゆっくりと杖をつきつつ歩くたびお呼びになきや吾の内より
|挫けては支えて貰えぬ世の中のさらに選別成果優先
|明白や関わらぬ方が身のためと反りもそれたる吾が道ぞ亀
|朽ち果てて逝くからこその雅なら雅を求む敢えて用なし



1-4)1

|外壁をま赤に染める沈む陽のその赤僅かに移ろいてゆく       焼津市・高草短歌会

|内政をま赤に染める冬夕濃き 韓紅に晒されて闇


 ‥上の句の掴みはまずまずですが、下の句はなんか視野が狭いですな
 「外壁」を掴みにして、夕日の沈む様子を詠まんとしたわけですが、
 どうにも印象‥壁しか見えて来ないのは、お宝を手に悦に入ってるだけの趣です。

 どうしてそう思うかというと、極端かも知れませんが

 壁を見たままでも、その照らされている明るさを以て、陽は想定できますし
 その想定が少し動きました‥その辺の影が動きました‥だいぶ暗がりが濃くなってきましたよ‥
 つまり、夕日に向き直ったとする言葉がどこにも無いので、そうに思わせもするのです。


> ‥狙いを絞ってさえしていれば
> わざわざ夕日に向き直る必要も無いわけですけどね。(夕景にこだわる意も詠み次第)


 (手直しの注釈)
 ‥日本の内政は、まさに半島に手を出して以来の冬めく様相を呈し始めている
 ‥それもこれも、日本の政治は売国奴だらけで、在日の息が掛かった連中ばかりだと聞く
 ‥今や日本の繁栄は、日の丸が沈むが如しに置かれてしまっているのだ(ああ、なんと嘆かわしや)


> ネタの「ま赤」‥の読ませ方が独特で、
> さらに、夕日の色を韓紅(からくれない)と称し加えただけで
> ‥全体の空気が、嫌韓のムードにまとまってしまうのには、驚いちゃいました


 「ま赤」なんて絶対言い回さないし、連想でもない限り韓紅なんて絶対使わないから
 ‥手直しならではの詠みっす。




|続きたる落葉松の道たたずめば明日はあしたの風に乱れむ      裾野市・石蕗歌会

|続きたる落葉松葉のみち踏みね明日はあしたの風に乱れむ


 ‥「明日は明日の風が吹く」と云えば、いくぶん楽観的なもの言いですが
 ここでは、「風に乱れむ」となんだか達観しています。

 確かに風の強い日々が続いては、明日にそこの光景がどうなっているかなんてわからない訳です。
 それに備えるように注意を払うことは欠かせないと諭すかのようです。

 ‥それならそれで「松の道たたずめば」では、なんかこう、上から目線の余裕にあるかのようです
 「松」と「待つ」を掛け合わせたのかも知れませんが、
 「佇む」立ち位置が不明ですので、余裕にも思わせてしまうのです。


> そこで「踏みね」です。踏む+助動詞[ぬ]命令形[ね]


 命令形を使うとなにか、強い主張のような感じを受けるのは思い込みで
 「踏みぬ」「踏みて」などと止めるとどうしても、自からの動作を主張してしまうのです。
 そこで、選択できる範囲として命令形というわけです。
 自分がしているのではなく、「そうするものだよ」と勧めている感じです。


> ‥命令形にはそんな用い方もあったんだなあと、改めて思っちまいました。


 (手直しの注釈)
 ‥落葉松葉になりかねないような、どうなるかなんて先の分からない景気が続いている
 ‥そうともなれば、いよいよ以て、
 ‥なり振り構わずそこを踏み歩いて行くように進むしかないだろうよ
 ‥どうしたって、明日、明日にどうなるかなんて誰にもわからないのだから


> 助動詞「り」と「たり」の本来的な意味が再認識できたことで
> 近頃は、助動詞の「つ」と「ぬ」、「き」と「けり」の違いが気になってます


 助動詞「つ」は、下二段専用につくような説明がある一方で
 「つ」は[何(誰)がどうした]という意志または作為的な動作を表す場合に使うのに対して、
 「ぬ」は[何(誰)がどうなった]という自然推移または無作為的な作用を表す場合に使う。
 なんて解説があるんです。

 ‥なんか矛盾を感じざるを得ません。(へんてこりんな解釈だなぁと、今になって思ってます)
 正直、以前はよく分からずに鵜呑みにしてました。(是についても過去詠みの見直しが必要です)

 最近気がついた点は、

 自分が従来的に「ぬ」を好まなかったのは、強意の意味があるとするおぼろげな感覚と
 「つ」の方は、連用形[て]に馴れがある点でした。
 でもよくよく比べてみると、「つ」にも強意の意があるのです。
 こっちは馴染みが薄いなと思いつつ、この差について‥なんら答えを持たぬままでした。


> まずは


 「ぬ」はナ変ですが、「つ」は下二段である点です。
 この違いが分かれば、事の根っこがわかるようになるだろうと思ってます。



1-4)2

|弟よ病気に勝てず息絶えぬ残す会社に命は生きる          牧ノ原市・浜木綿短歌会

|弟よ仕事ばかりのきのうけふ 病に果つる今ぞ安まれ


 ‥なんかもう、自分で歌に詠んだあとになっても気がつかないんでしょうね
 これぞ仕事病の症状です。弟の事を労って詠んだつもりが、仕事のことばかりです。
 さらにツッコめば、会社のこと、経営のことで頭が一杯のご様子です。


> と言うところをツッコんで手直ししてみました。


 下の句の括りが「安まれ」と「安まる」の已然形または命令形になっています。
 どこかぶっきらな印象にも思えますが、自分が休む訳でもないし、弟もこの世に居ないわけですから
 已然形・命令形のどちらとしても、(そうなってしまったのであれば・・・そうしておけよ)と
 ‥軽く諭しているような感じです。


 そもそも已然形・命令形なんて言い分は、近・現代の教育の都合に生じたものです。

 実際はもっと大ざっぱな意味を秘めてきたのではないのかと、
 ここにおいて、実にそう思わざるを得ません。

 ‥「命令」なる響きに対する思い込みが、随分と日本語を変えてしまったように思われます。

 そもそもの江戸時代の期間が歴史的にも長かったことから、
 全国規模での主従意識が無駄に均一化され、地域による主体的な趣を欠いたままに
 武士訛りな敬語表現だけが、進展してしまい
 結果的に、上の者のみが命令形を使うモノだと思うようになったのではないのかと
 斯様な推理が成り立つように思います。

 所謂、武士言葉を中心に、明治教育の体系が整えられ
 戦後の義務教育にて英語教育が進むにしたがい、多くの国民が敬語の無い言語体系に晒されたことで
 本来の庶民的な自由闊達な「ら抜き」言葉がもたげてきたという向きにあるかと


 そもそも、大ざっぱにとらえれば

 助動詞「り」「たり」は進行形の役割をしていたわけですから
 助動詞「る」にみられる丁寧に話す必要は庶民にはなかったように思われます。
 そうすると‥活用のルールが随分とおかしくなるような話にもなりえますが
 そもそものそれは、
 武士の世界観の反映でしかなく、庶民の感覚にはなかったのではと訝しく思うより外ありません。
 ‥尤も、古典の多くは公家の世界観の反映ですので、その辺の方言絡みの違いもあるように思います。


> ちなみにもう一つ、「病に果てる今‥」or「病に果つる今‥」の比較です。(悩ましい)


 現代用語で行けば、「果てる」でも十分ですが
 「果てる」では、どことなく病室で果てた感触です。(今果てました)
 「果つる」なら、どうにも通夜に葬式のような感じで、振り返っている趣でしょうか。
 (今果ててあるそれを目の前にしている)

 ‥そのぐらいに違うように思えます。




|生きて来た涙の多い想い出は心の糧と今はなつかし         牧ノ原市・浜木綿短歌会

|今ここの涙に多きも今やなつかし私の半生


 *皹(あかぎれ)、半生(はんせい)


> ‥どうにも上っ面に見えちまうべたな詠みだなぁと思っちまいます。


 涙どうこう言っても、一つ一つを取り上げるような感覚にはないと思います。
 (どちらかというと抽象表現なのです)
 総じて、振り返ることが出来る何か代償みたいな拠り所があるからそう思えるのであり
 思考や反省、解釈だけでそう思えるわけではないと思います。

 それらはそれらとして、当時の気持ちが変わるわけもありません。

 ‥変わるわけが無いんです、それこそが糧としての汝の始まりだったんですから‥
 だからこそ、大ざっぱに振り返えられるような視界から見て
 ああ、今の私があるのは、全部欠かせないことだったんだなぁとおぼろに思えるだけのことです。


> つまりは、少しは癒えるようになりましたと思えるよすがの部分が言葉に欲しいわけです。
> ‥ネタの句には、そこがまったく見られません。


 ‥その辺、古風に「あかぎれ」を放り込んでみました
 今時のご時世だと、イジメ・DV・リストカットなんて文言の方がしっくりきたりするんでしょうね。
 あと、膝痛・腰痛・肩痛・頭痛・○○ハラと‥その辺も出てきそうです。

 ‥並べてみると、沢山あるっす
 全部違うんすから、歌を詠むにしたって、言葉にするにしても
 泣いてるだけじゃわからないと云う事です。



1-4)3

|秋寒のラジオ体操の輪の中にハクセキレイは尾を振り遊ぶ   焼津市・「菩提樹」小川短歌会支部

|秋寒のラジオ体操の輪に来たるハクセキレイの振り振る黒尾


 ‥「ラジオ体操」のお題に「ハクセキレイ」の組み合わせがなんとも新鮮です
 でも、くくりの「遊ぶ」が、どうにもすっきりしない向きに思いました。

 「輪の中に」としているのも余韻として面白くありません。
 ‥併せれば、誰かが鳥かごの中に入れて持ち込んだかのような印象にも思えるのです。


> なんでもハクセキレイの特徴は、黒尾だそうですから、黒尾を入れてみました


 ‥手直しの方が、どのように動いているのかが連想しやすいかと。




|尻上げてペダル踏み込む坂に左右にを割り振る夕日       牧ノ原市・浜木綿短歌会

|尻上げてペダル踏み込む坂の下 右に左に夕日に伸びて


 ‥なかなか、マンガの一コマに連想できる着眼です
 でも、ここで気になるのは、「道」と「影」を盛る必要があるのかどうかです。

 「尻上げてペダル踏み込む坂‥」とまでくれば、自転車しかないんですよ。

 その時、上り坂を行くのだと強調するためにも、「坂の下」とハッキリ示すべき所です。
 そこが示されるかどうかだけで、後々の余計な説明を一気に削ることが出来るのです。

 ‥さすれば
 「右に左に」夕日に伸びるのが何かなんて、影を連想して当然です。(もう一息でした、残念)



1-4)4

|窓越しにハイッタッチして帰路に着く「バイバーイ」の声闇に響かう  裾野市・石蕗歌会

|窓越しにハイッタッチせり出す車 姪の「バイバーイ」耳に残れり
|窓越しにハイッタッチせり車出る 残れる「バイバーイ」見送りぬ


 ‥孫か姪か甥かわかりませんけどね、孫はありきたりなので姪にしてみました。

 その別れ際に、タッチしてバイバイするということですが、
 どちら側が車上に居るのかが実にわかりにくいのです。
 「帰路に着く」って誰が帰路に着いたんだよ‥まぁそういう落ちです。(勿体ない)


> ‥まぁそうなりますと
> 「車をだす」、「車がでる」のどちらかを盛って頂きたいわけですな


 あと、「闇に響かう」‥なんか意味が変だと思います。
 ‥それ以前の話として、昼か夜かをここに盛る意味がわかりません。

 助動詞「う」は推量・意志を示すわけですが、
 ここでは、「響くようだ」ではなく、すでに響いているのです。
 そしたら、「耳に残れり」の表現で十分です。

 ‥そもそも、それは誰に向けられた「バイバイ」なんですか?

 どこかの誰にと思っているから「闇に」になっちまうんです。
 ちゃんと受けとめましたよと言う意味でも、「耳に残れり」が定番です。
 ‥ここのところも、誰が帰路に着いたんだよと‥わからなくする要因です。

 仮に自分が見送る側で発っせられたのだとすれば、手直し2の具合かと。




|秋風がひろがりて吹く境内の地面を紅葉が明るく染める       裾野市・石蕗歌会

|これほどの紅葉に染まる上と下 秋風誘う参道を往く
|これほどの銀杏に染まる上と下 秋風誘う外苑を往く


 ‥なんか詠んでるようには思えはするんですけどね
 どうにも、「境内」×「地面」が、賤しいというか見苦しいというか品がないというか


> 縁起を担ぐ意味でも、そんな風にはまず詠まないでしょう
> 縁起を担ぐ意味でも、そんな風にはまず詠まないでしょう
> 縁起を担ぐ意味でも、そんな風にはまず詠まないでしょう


 ‥風情とゴミの違いを履き違えては元も子もありません
 境内の区画は掃き清められていてなんぼです。
 「境内の地面が散らかってますが、好い感じですよね」‥なんて思われかねないのは×です。

 (‥て、これ選者の句だよ、はぁ☆)



> うた詠み終わります、ありがとうございました。
posted by 木田舎滝ゆる里 at 23:19 | Comment(0) | 名句にポン/2016 | 更新情報をチェックする
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