2016年12月14日

【勝手句帳】057 28-12-9 其の2静岡新聞掲載分から

↓9)向宜詠吟.2016/12/16...20161214...

|子と母の影を夕日が照らし出す     浜松市・浜松川柳社いしころ会

|影法師ならべる親子の帰り道 煙突煙る昭和の銭湯


 ‥ぶっちゃけ、「子と母を夕日が照らす」です
 さらにツッコむと‥影を照らしているのではなく、何か対象を照らすから影ができるのであって
 影を照らそうとすれば、そこに浮かび上がるのは心の翳りつまり闇でしょうか‥

 という勘違いになりかねないので、「影法師」を使う所から始めましょう。
 ‥それとも母子家庭ながらのどん底加減を詠みたかったのでしょうか?
 ‥それはそれで、俳句でしたためるのは無謀かと


> ちなみに、昭和の銭湯のピークは人口差により地域によりまちまちに思われます。
> それでも昭和40〜50年代あたりはまだまだ経営が成り立っていたと思われます。
> やはり、昭和バブル崩壊が大きいかと思います。(風呂だけにバブル崩壊ですかな)




|仰向いて目で追う雲の七変化      浜松市・浜松川柳社いしころ会

|仰向いて目で追う雲の七変化 空なんもせずとも自由を為せり


 ‥季節感が定かに無いので、その点でパンチに欠けますが
 「七変化」には、そこを春か秋に連想させるカバー力があり、良く詠めていると思います。



1-9)1

|長電話終へたるしじま夜長し      裾野市・寿大学俳句教室

|長電話終へたるしじま夜長し しじまふ話寄る辺もなくて


 *しじま‥@口をつぐんで言わないこと。無言。沈黙。A静まりかえっていること。静寂。
 *しじま・う(四段)‥進むことも退くこともできないでいる。
 *しじま・る(四段)‥ちぢまる。ちぢこまる。


 ‥ネタの句だけですと
 長電話のあとの静けさが無性に長く感じるなあという事なんだと思いますが
 +七七に引っぱった途端に、そんな余裕の日常感が一気に消えました。

 ‥ここはいろいろと、引っぱるに変化があると思います。
 そういう意味では、よく詠めているのですが、
 それはそれで、俳句としては物足りない着眼でもあるのです。


> それはそうでしょう‥話の中身の方が気になるのが人情ですから。




の秋山の明きを目で追ひぬ      裾野市・寿大学俳句教室

|秋山の赤きを追ひぬ翅川辺 還らぬとして諦めてゐては



 *翅川辺(はねかわべ)‥蜻蛉や蝶などが舞っている様子の川辺。


 「暮の‥」と綴ってる訳ですから、すでに薄暗くなりはじめている事に成ります。
 「暮」を先に盛ってくると云う事はそういう事ですので、注意が必要です。

 ‥ゆえに「明き」としても
 どうしてもそれだけでは、日暮れの様子には捉えがたい向きになってきます。

 (飛行機等の何かしらの照明かも知れません‥意味は通ります)
 (意図的にそこを狙った詠みかも知れません、わざわざ目で追うと閉じています)
 (でも、+七七にそのまま引っぱるには分かりづらいかなと、抑揚も今ひとつですし)




数珠玉や遺影は今もいとけなく     裾野市・寿大学俳句教室

|この秋や遺影は今もいとけなく 離るる歳よ しじまはましか


 *数珠玉(じゅずだま)‥ここでは季語としての植物を指している。(秋)
 *いとけない(いとけなし)‥年が小さい。おさない。あどけない。

 ‥ということなので、念仏をする時に手にする数珠とはなんの関係もありません。
 それの連想で名前が付いているようですが、斯様な使い方がまずいと言うよりはその中身です。


> 遺影と続くので、如何にもその数珠玉が、片身か何かであるかのようにも見えてしまいます。
> まぁここは「この秋や」と命日の時節が分かればそれで十分かと


 (+七七の注釈)
 ‥私の愛しい子はもう居ない。秋になるたびに命日がやって来る。
 ‥その一年を振り返る遺影を見る度に、歳の差が開いていくのを感じてしまうのは実にしのびない。
 ‥どうせなら、時間が止まってしまえば好いのにと思う(そうであればどんなに楽だろうか)




|曼珠沙華光背にして地蔵尊       裾野市・寿大学俳句教室

|曼珠沙華光あたれる縁地蔵 自ら供ふるごと咲きけり


 *縁地蔵(へりじぞう)‥道の端にある地蔵の意。
 (端の案も考えたが、ここは‥ご縁があるようにとの願望よろしく‥「へり」を盛ってみた)


 ‥曼珠沙華の花咲きは、一気に土の中からもたげてあっという間にニョッキと生え出るのでーす。
 で、さほど長く咲くほどには無いとのこと。

 (NHK番組「足元の小宇宙 絵本作家と見つける生命のドラマ」に映像がちらっとありました)

 そんな曼珠沙華が、道端の地蔵の横に顔をのぞかせました。
 ‥という風景です。


> ネタの句の失敗点は


 「地蔵尊」としてしまったことで、曼珠沙華も地蔵もどこにあるのかが互いに不明になっとります。
 ‥で、やっつけにも、もっともらしく見栄えを繕うように「光背にして」になったのでしょう。
 ‥でも、曼珠沙華には前も後もありませんので、どうにもおかしいのです。



1-9)2

|ゆらゆらと川面にゆれる思慕を追う   浜松市・浜松川柳社いしころ会

|ゆらゆらと川面にゆれる思慕を追う ここに咲きけりいつぞやの○


 *思慕(しぼ)‥恋しく、なつかしく思うこと。

 ‥「思慕を追う」俳句ならここら下五に季語ですが、川柳ながらに自由に置かれています。
 まぁそれはそれで川柳っぽさをも欠いてるように見えますが、詩情は十分です。


> そんなわけで、「いつぞやの○」の○に何かを放り込めば仕上がります。


 春。恋。夏。友。まぁ空想ならそんな所でしょうか‥

 「ここを巡れるいつぞやの鬱」
 「ここをのぼれるいつぞやの悪夢」‥なんてのもありですかな。

 ‥ここは「思慕」だけに、いろいろと引っ張れる風情です。




ひとりの灯落し秋思の始まりぬ     裾野市・寿大学俳句教室

|ひとりの灯落し秋思の始まりぬ 帰るまじけれ黄昏るベンチ


 ‥「ひとりの灯落し」是をどう解釈するかで全然違います。

 「ひとりの灯」で句切っては、肩を落としている向きを誘いますが
 「灯」で句切らずに、「落とし」で区切り
 ひとりの灯だった時間との区切りを思わせるのも有りなのです。
 要するに、「失恋」とも「恋の始まり」とも、両方に解釈してしまえる微妙な所です。


> と言うことで、どちらにも解釈できるように+七七に引っ張ってみました。


 「帰るまじけれ」‥帰れそうにない。帰ることができないほどに。

 ‥フラれてしまい、とても帰れそうになく、ひとりベンチで黄昏れています。
 ‥今、ベンチにすわり、二人で夕暮れの景色の余韻に浸っています(帰るはずもありません)


> 是は是で面白いのですが、内容が内容だけに、勘違いされてはどうにもすっきりしません
> ‥まぁ敢えてそこを狙うなら参考になりますけどね



1-9)3

|月高くもみじ舞い来る露天風呂     浜松市・浜松川柳社いしころ会

|月高くもみじ散りみる露天風呂 盃酌める口のほってり
|月高くもみじ散りみる露天風呂 盃酌みたる顔のほってり


 ‥「舞い来る」ですと、何やら幾分風の強さを思わせます。

 紅葉とありますので、秋の深まりの月夜です。多少の風加減がとても気になるところです。
 ここは、風の度合いを静かにして紅葉の趣を盛る程度かと。


> 「酌める」と「酌みたる」の違いですが


 ひとりで飲んでる分には、「酌める」
 誰かと酌み交わしている分には、「酌みたる」
 ‥で、そこを強調するように、「顔」を放り込んでやるとその差がハッキリとします。

 (‥鏡でも無ければ、自分の顔を見ることが出来ませんから)

 尤も、自分の顔の赤み具合を予想することは出来ますから
 ‥「酌める顔のほってり」とも詠めるのです。(それはそれで上の句の風情が上の空の雲行きです)


> 紛らわしいと言えば、そうですが、ここはキッチリとルール分けして見るのも良いと思います。


 ‥四段活用の活用の時だけ
 自分の意図的動作の進行形と第三者的動作の進行形で、用いる助動詞が異なるという次第です。


> じゃ、下二段の場合はどうなの?
> では、手っ取り早く「名詞+する」で考えてみましょう。


 (「〜す」は基本サ変ですので、助動詞「り」が付きません)

 例えば‥「帰省す」
 ‥帰省したる時、帰省したる家、帰省したる吾、帰省したる人
 動作としては、概ね第三者視点です。
 なぜそうなるのかと言えば、「たり」には完了の意も含まれるからです。
 自分の動作にあろうと、第三者視点を誘うのです。

 では「り」との違いはどうか?、その完了の意において「り」も同質です。

 「たり」と比べると「り」の活用はラ変で、四段とさほど変わりません。
 ‥四段系に活用するか、下二段系に活用するかで、
 ‥主体的動作として、自立するかどうかの差があるように思われます。


 例えば‥「愛す」「和す」「解(げ)す」
 ‥こちらはサ変では無く、四段に活用するタイプです。
 ‥ところがどっこい、口語「する」だとサ変になります。(ややっこしい)

 (どうにも助動詞「す」の解釈に、四段と下二段の両方があるせいです)

 「愛せり」「和せり」「解せり」
 「愛したり」「和したり」「解したり」‥並べてみると、もう明らかです。

 「たり」と比べてみると「り」は明らかに主観の向きたり得、「たり」は客観の向きなのです。


> ちなみに、上に挙げた三つの共通点は、「競る」に染まらない意で独立しています
> だから、「名詞+す」でも、四段活用として成り立つという訳でーす!!!


 ついでに追加しておくと、その逆もありのようです。
 つまり、「競る」をなぞらえる言葉も「名詞+す」で四段活用を見せます。

 トラトラトラ、我、奇襲ニ成功セリ
 「奇襲セリ」「攻撃セリ」「成功セリ」「退却セリ」‥軍隊用語には付きまくりかと。


 (是一つでも卒論の価値あるだろうから大卒資格くれ)
 (‥というか誰か是をテーマに、徹底的に調べて論にまとめてみるべし)




|新蕎麦を切る音のあり山の雨      富士宮市・裸子(はだかご)

|新蕎麦を切る音のあり山の雨 声しじま食めり香る喉ごし


 ‥憎いぐらいの詠みっぷりですな。
 そこの如何にも蕎麦の味に期待したいところを‥「声しじま食(は)めり」
 と引っぱってみました。


> 今自分は、声を閉ざすかのように蕎麦を啜り続けている
> 誠以て‥蕎麦の香りが、喉ごしを駆け抜けていく秋のようだ。
> 雨に降られて、道すがら寄ってみたところの蕎麦屋の美味いこと(新蕎麦だけに、皆には黙っとこ)



1-9)4

|独り身は淋しさ窮むる雨月かな     裾野市・寿大学俳句教室
|独り身の淋しく窮む雨月かな      手直し1

単身のきわみ淋しき雨月かな 月のあるなし君のあるなし


 *雨月(うげつ)‥雨夜の月。また、名月が雨のために全く見られないのをいう。雨の月。(秋)
 ‥ちなみに、陰暦五月の異称(皐月。夏)の意もあるそうです。(概ね梅雨入りの意でしょうか?)


> ネタの解釈が今ひとつ判りません。


 ‥明らかに活用が変です。
 まずは正しく「しく活用」させましょう。そして、句切りを意識しましょう。
 というところで、手直し1になります。

 こうすると、(独り身で淋しい上に雨月ではますます残念だ)‥すっきりした意に整います。


 ‥「淋しさ窮むる」ではまったくのちんぷんかんぷんです。
 続く「窮むる雨月」は、さらに判りづらいかと‥

 最近の「形容詞+さ」でなんでも通じると思う傾向は、形容詞の不活性傾向です。
 なにが気になるかって、形容詞の使い方の乱れほど眉をひそめるものはありません。

 (文科省が指摘しないのが不思議でしかねぇんすけどね、国文学者も「さ」で満足なんでしょうな)
 (形容詞が乱れると是程にちんぷんかんぷんになることを知って貰いたいところです)


> まぁ手直し2と並べてみるに、句またがりにしてしまった方がくどさが引いて判りやすいかと




|雲間より孤独な星や鎌の月       裾野市・寿大学俳句教室

|雲間より孤独よぎれる鎌の月 箒で飛びたや魔女の気分


 *鎌の月‥いわゆる三日月のような細い月を例えた呼び方。三日月。

 ‥で、「孤独な星」ってどこ指してるんでしょうかね??
 日本の文化では、月を指して星とは、口が裂けても表現しません。
 そんなのは、鹿を指して馬というのと同類です。
 川を見て「筋を行く水の塊や川なり」などと詠んで悦に入るのと同じでDQNです。


> 天文の分類上、其を星として束ねる扱いはあるでしょうが、文学上有り得ません。


 ‥でも、掴みはまずまずです。助動詞の「り」を使いこなしたいところでした。(残念)



1-9)5

|稲刈りに長老の指揮今もなほ      裾野市・寿大学俳句教室

|孤軍したる長老の指揮稲の外 黙してなんぼ見守るが筋


 ‥長老の健康の度合いが判らないのが、気になるところかと。
 土地や組織によっては、単に「長」を「長老」と呼ぶ向きもあると思います。

 まぁ要するに、村の長老がワンマンと言うことで、
 老いて尚、ほとんどやっつけでも十分に出来るはずの稲刈りの時まで口を挟むという下りのようです。

 稲刈りですから、まぁそこそこ端でやる分には、歩けるようなら出来るでしょう。
 ‥機械でも、真っ直ぐ運転できるなら尚のことです。
 (まぁそれだったら、別に指図したって有りだと思いますけどね)


> その辺の状況を鑑みるに、稲の外で見てる側になってしまっているのかどうかなんだと思います。
> ‥怪我なり持病なりで一時的に動けないのもその部類です。




|妥協かな思いやりです老いの道     浜松市・浜松川柳社いしころ会

|妥協かな思いやりです老いの道 斯様な若きわがまま三昧


> ‥ボケにツッコんでみました。


 妥協の何を以て、その程度を思いやりとか‥なにを言っとるんですか!?
 それじゃ、年配者同士なら尚のこと「いいわいいわ」の世界観にしかなりえません。

 同世代同士の「いいわいいわ」が
 ‥思いやりに成り得ないのは、今の若い世代の方が良くわかっとることでしょうに。
 ‥是だから、いじめを始めとした細ごまとした問題が減ることも無いと。


> 思いやりはマンツーマン、妥協は多対多。解ってますか?
> 人間には、それ以上のよすがは今のところありませんので。




|年を取るどれも時間のいる仕事     浜松市・浜松川柳社いしころ会

|歳とれば仕事のどれも手間同じ 手かずの少なき望むれば老い


 ‥加齢で、身体が動かなくなる程にそう思うようです。
 人によっては身体が重いと感じると聞きます。一方で、元気一杯に畑仕事をやっとる人も居ます。

 その違いとは、つまり、
 手かずの多さを嫌うかどうかの積み重ねなんだろうと思わざるを得ません。

 若人でも、面倒くさいとばかりに、掃除もしおしおで嫌いな口ほど
 早い段階で、老いが進むように思われます。


> 斯様にも、龍神(神道の神々)は、働き屋で、不老不死と聞き及びますからね。


 一方、ブラックよろしくにも、多忙ゆえか、人使いも荒いとも聞きます。
 ‥まぁそれはそれとして
 ‥手かずを惜しむ輩程、そこにある学びゆえの慮りを味わうことも無いと云う事らしいです。

 ‥ちなみに、ラブラブ大好きなどと宣ってるプレアデスの平均寿命は千歳とのこと。
 千歳あたりが人間もとい生命体の限界とか、こちらが知らないとばかりにそそのかす話です。



1-9)6

|新藁の匂ふ積荷や夕日さす       富士宮市・裸子(はだかご)

|新藁の匂ふ積荷や夕日さす はみ出せるご機嫌山のよう


 ‥風景としての「新藁」を勘違いしておりまして、脱穀したあとの束なりを指すようです。
 (稲架のそれを指してなどいません)


> それを季語で「積みわら」とは用い無いのが少し気になりました。


 昔で言えば、そのまま田畑に積んどけば腐って肥料代わりの筈です。
 ですが、「そのような認識が、昔にはなかったのでは?」との疑問が湧きました。

 ‥どうしてそう思ったかというと
 馬の餌に回っていたからと、その餌に於ける干し草文化の程度が怪しく思えるからです。

 江戸時代にしても、馬を持てるのは武士階級のそこそこ上の方だったと思います。

 それにしたって、干し草よりは「米」です。干し草なんてわざわざやらんと思います。
 ‥どうせ同じ部類でも、せいぜいが畳向けのイ草です。
 ‥藁にしても、生活の日用として、様々な活用がありました。
 ‥それを、「積みわら」にしとけなんて、お笑いぐさだった筈です。


> だから


 文明開化と同時に入ってきた西洋の文化に倣って
 「積みわら」をするようになったのでは?‥とふと思いました。

 西洋では、牧畜が盛んだったので、
 冬の餌の確保として、なにかと自然の流れで「積みわら」が生じたと思います。




|新藁の匂ひなつかし父母を恋ふ     富士宮市・裸子(はだかご)

|新藁の匂ひに刻む父と母 継ぎたるこその秋里らしけれ


 ‥ということなんで、これの心象風景にしても
 実は、明治以降である可能性が高いかと思われます。

 なんとなしに「積みわら」を以て、秋の田舎をイメージしてしまうと思いますが
 どうにもそれらが見られるようになったのが、明治以降‥


> そうだとすると驚きです。よくよく考えても


 江戸時代ぐらいですと、雪国なら、まだまだ篭りで暮らしていた筈です。
 同じ稲わらでも、使い道がまったく違ってくる所です。

 (積雪の違いは、今や、昭和戦後とを比べてみても明らかです)
 (決定的に違うとすれば道路の本数です。そりゃ昔は移動なんて簡単に行きませんでしたから)



1-9)7

|時という特効薬を飲みほして      浜松市・浜松川柳社いしころ会

|時という特効薬を吐き出して 識るまじけれあれこれの自死


 ‥詩情としては厳しいところですが、哲学に誘うような余韻は面白いところかと


 已然形・仮定形の意味が分からないとの向きもありますが
 それほどに難しく考える必要はありません。命令形と同じで促す感覚です。

 (最近になってようやく気がつきました)

 自分でする行為でも、してしまう行為でも無き事象の動作を語るのに
 誤解の生じないように語るのが、已然形・仮定形・命令形の類です。
 ‥とまぁ覚えておけば、使い所も判り出すと思います。


> 例えなんですけど‥みたいな断りが已然形・仮定形かと


 (リスペクトの注釈)
 ‥時という特効薬を吐き出してしまっては
 ‥知ることも無いんでしょうね、簡単に自殺してしまうような者にとっては(その効用を)




|炎上のブログに落ちていた仮面     浜松市・浜松川柳社いしころ会

|炎上すブログに落ちたる仮面あり 剥がして晒す天網か‥


 ‥ここはもう、助動詞「たり」ですね。
 とどのつまり、「たり」が「た」になったと
 その理由として、助動詞「り」の後退が挙げられるかと思います。

 落ちたる → 落ちていたる → 落ちていた


 ‥それにしても、炎上ブログの管理人の仮面見たりとした着眼です
 わざわざチェックをしに覗く向きもございませんので、思いもつきませんでした。

 言われてみれば、そこには仮面(なりすまし)があったと。

 ‥でもですね、誰にだって失敗もあれば、嘘もありますからね
 揚げ足を取るのが楽しいかのような世相は、どうにも、震え上がっちまうだけです。
 仮に、それが意図的・確信犯的だったにせよ、仮面などと騒ぐのは

 どうにも幼いというか、騙されてました‥を告白するみたいで、歯がゆいばかりかと。


> 雑誌や記事タイトルのコピー向けですよ。自分の句として揚げる向きに無いと思います。




|老春へ乾杯明日が待っている      浜松市・浜松川柳社いしころ会

|老の春米寿の祝い明日待てり 平均寿命超せる盃


 ‥手直ししながら思ったんですが
 昔からあるんですよね、高齢を祝う言葉が‥細ごまと。
 という事はですよ、江戸時代に超高齢は珍しくなかったという事に成ります。

 ‥平均寿命こそ長くなったにせよ
 それは科学だからとか、豊かだからでも‥何でも無くて


> ‥昔から可能だったと言うことです
> ‥昔から可能だったと言うことです
> ‥昔から可能だったと言うことです


 まったく以て、科学を知った分だけ、
 お馬鹿にも寿命に無頓着に陥ったのが明治以降です。情報操作です。それもそのはず、


> ‥そこをカムフラージュしていたのが戦争ですから
> ‥そこをカムフラージュしていたのが戦争ですから
> ‥そこをカムフラージュしていたのが戦争ですから


 昔ながらの暮らしをしていれば、普通に百を数えて生きるのです。
 ‥リスクを抱えるばかりの科学をやらかす分だけ、短くなると云う事に気がつきましょう。

 現代社会のもたらす科学の多くは、寿命にとって、リスクがばらまかれすぎています。
 そもそもにして、環境を穢すような輩に長寿が授かるなんてどだい不健全です。
 ‥まして競争賛歌とか、馬鹿丸出しと云う事です。(それゆえの薬万能の思い込みは最悪です)



1-9)8

|子の希望高く高くで婆不安       浜松市・浜松川柳社いしころ会

|子の希望高く高くで婆不安 夢のインフレ給与のデフレ


 ‥正確に言えば、子×孫○かと思いますが、ここはスルーでも好いかなと。


 社会が競争賛歌ですからね、そこに夢を膨らませても金融の罠に落ちるだけです。
 それでなくても過当競争だからこそ、薄給が気にもなるのです。

 ‥ゲームをしててもそうですが
 ゲームバランスを推し量るには、獲得ポイントを逆算して、ばらまいて置くわけです。

 それと同じで、経済も逆算できればいいわけですが、そうは問屋が卸しません。

 なぜって、そんなのは途端に詰まらないコースだからです。
 ‥でも、すべての人が同じに思うわけでなく、それは一人の枠でもステップアップ次第です。


> でも、無理ゲーは無理ゲーとして、誰もがそっぽを向くのです。つまり、


 詰まらないと言い出す割合は、決してそう多くもなく、どちらかと言えば少数派なのです。
 ‥そこの辻褄を見失っては、楽しくする上での創意工夫も的外れと云う事です。

 逆を言えば、世の中が「無理ゲー」にも、頑張れと言ってしまっては、
 如何に、無責任でどうしようもないかという現れです。(大人の側のお手上げ宣言です)

 無理ゲー糞ゲー政治の理屈なんざそれだけのことです。
 ‥官僚が、如何に無理ゲー糞ゲー大好きにあるのかがよく解ります。
 ‥本当のことを語らずに、判ったら天才とか、人生は問題集として悦に入るままです。

 私たちは、人生について、なにも問題集が欲しいわけじゃないんだと、ハッキリさせましょう。
 ‥本質は問題集なんですけどね。(でも、ステップアップも叶わずにそりゃないでしょうな)




|ワンランク落とせば丸くなる会話    浜松市・浜松川柳社いしころ会

|ワンランク落とせば丸くなる予算 丸くなるたびデフレぞ進む


 ‥「会話」??、いろんな意味でそこは「予算」がズバリかと


 斯様にも、皆で上を向かずに平たく行けば、デフレが進むのです。
 給与も安くなりますが、それだけ公平さが無駄に気になるという事です。

 羽振りが良すぎるところには裏がある‥とまぁそういう事に成りますからね。

 そこをお互いに判りにくくしてしまっているのが、贅沢願望です、高級品志向です。
 尤も、幅なり差を推し量れないのでは、恥を掻く所でもあります。損でもあります。
 でも、生きられないわけでも、長生きできないわけでもありません。


> 新薬が使えないから不公平とか、相当に見失っていると思います
> そこにあるだろう‥共通の鏡似性の方がよほど気になるところかと‥




|名物と名産品に薄い縁         浜松市・浜松川柳社いしころ会

|名物と名産品に薄き日々 必要無きの心得ぞ無双


 ‥「薄き縁」いいえ違います、気まぐれにも手を出し見るかどうかです。
 失敗を体験したことが無い口の詠みですな。もとい失敗ばかりかも知れません。(失礼)

 そうなんです、そういう意味ではどうにも縁が薄い御仁も居るようです。


> だからこそ、ステップアップとも言えますね。
> 家族を得ることで、そこのバランスをやりくりして来たわけでもあります。
> ‥頭ごなしに家長主義ではそれも無理からぬ事ですが。


 概ね、虎の巻気分にも是だけ有ればなんてのは、センスが磨かれない落ちになりかねません。
 でもだからと言って、浮気ばかりしていても、自分の好みが判らないと云う事です。

 実際、自分の好みをイメージせずに手を出していては、失敗に繋がりやすいのです。

 その点、浮気ばかりの批評家風情は、好みなんか頭に無いのでしょうね。
 ‥あくまで、語ることが生きがいと言えるでしょう。
 ‥そこに飽きることなく、歩み続けた結果でしょう。様々なイメージを抱えてそこに立つのです。

 されど、そこには脆さがあります。

 イメージを手に入れるのに、余所から取り寄せなければ得られないなんて事もありません。
 (そこが批評と作り手の違いです)
 自分の手で以て造り出すことの方が、好みのイメージをよりハッキリできるのです。
 (無理に一から十を知らずとも成り立つのです)

 ‥概ね、そこを欠いては、良き品・良きアイデアを引き寄せることには繋がらないかと。



1-9)9

|待つポスト コトンと聞いてはやる胸   浜松市・浜松川柳社いしころ会

|待つ朝刊 コトンと聞きつまっしぐら 颯爽広げる投句欄


 *颯爽(さっそう)

 ‥朝刊の投句欄待ちに思われます(他にもどこかに投じてるのかも知れません)
 それとも、何かしらの郵便でしょうか?‥ポスト目当てなので宅配という事はありえません。

 ここは、字余りになろうとも、「朝刊」で攻めてみましょう。

 「はやる胸」‥表現としては、そうではないと思います。
 ぶっちゃけ、馳せる気持ちという奴ですが、本当のワクワクはカラダで表現するモノです。
 「胸」「気持ち」と決めつけてしまうのでは、表現としてさほど面白くありません。


|ポスト来るトントントントン五月晴れ 安全第一ぞこの責め


 ‥ここでのポストは、イスのことです。
 「ヒノノニトン」を盛りたくなりましたが、止めときました。

 上役のポストについて、自分の席の安泰を考えるか
 それとも、そこの責任をどう考えるかという問いで、「責め」に詠んだわけですが
 どうにも「攻め」に掛かってしまうのが、何と言いますか、すっきりしておりません。

 (自己の保守にも攻めることが出来てしまうわけですから)




|平凡に過ごせた今日にありがとう    浜松市・浜松川柳社いしころ会

|平凡に過ごせるけふにありがとう 非凡になりたやこんちくせう


 ‥感謝があろうと無かろうと、まぁ非凡を欲するわけです。
 普通の日常に飽きてしまっている勢いです。

 でも、どうしてなんでしょうかね?
 どうにも、篭りだけでは満足できないにしても、概ね、平凡で十分なんですな。
 ‥まったく以て、よく解りません。



> うた詠み終わります、ありがとうございました。
posted by 木田舎滝ゆる里 at 23:55 | Comment(0) | 名句にポン/2016 | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
コメントを書く
お名前:

メールアドレス:

ホームページアドレス:

コメント:

※ブログオーナーが承認したコメントのみ表示されます。