2016年12月18日

【勝手句帳】058 28-12-10 静岡新聞掲載分から

↓7)向宜詠吟.2016/12/18

|貧しさに耐へし日思ふ野路の菊     静岡市・羽衣俳句会

|貧しさに耐へし日思ふ野路の菊 豊かさ問ふまま秘めたれ越えて


 ‥随分と明治な感じに思えるのですが、まぁ戦後の様相でしょう。
 「野路の菊」の放り込みに存在感があります。

 (明治の頃は、まだ日本の原風景は江戸の頃のままにて野菊が人気だったのでしょう)
 (戦後ともなると、どこも焼け野原ですから、尚更に原点回帰の風情だったのだろうと思われます)
 (軍による統轄が睨みを利かし、国風を乱すような、無闇な生物の輸入を拒んでもいたのでしょう)
 (‥贅沢を規制する風潮の流れだった点も見逃せないかなと)


> 豊かさを問うまま、そこに漠然とした疑問を抱え込んだ心持ちにて
> 激動の時代を乗り越えて来ましたが
> 今でもあの頃の貧しさが懐かしく思い起こされるような
> ‥いつしかのこの路に咲く野菊のままにございます。


 ‥間違っても平成の貧しさとやらでは無いと思いますが
 それはそれで‥少なくともそこは、田園だろうから‥それはそれで、
 何を貧しいとしているのかの基準が不明確になり兼ねないでしょう。

 それの意味でも、「野路の菊」のイメージに付きまとう‥「あゝ、野麦峠」
 もとい、明治の生糸産業の時代背景は外せないのです。(読んだことないけど)


> いつしか不平等貿易が始まって、税制が始まり
> 米相場が下落して、一気に貧困に落とされ、工場の要員に導入されて往ったのです
> まぁそういう流れだったんですな。なにが世界の品質とか誇りとか世界遺産とか馬鹿ですか!!




|星降るや一万尺の秋夜長        焼津市・浜風句会

|星瞬るや一万尺の秋夜長 こぼるるしずく峰の峰まで


 *瞬る(ふる)‥星の瞬き専用の(星がふる)に用いる当て字。(俺推奨)
 *一万尺‥概ね3000m。

 ‥季重ねバリバリのくせに、随分と怒太く整ってやがるwww
 まぁツッコむポイントを示すなら、一万尺たる何かが何ら示されていない点です。
 というところで+七七を引っぱってみましたが、付け足すべき用も少ないので
 ミルキーウェイの意を借りてきて、盛っておきました。

 (共に敗北感ありありで、非常にもどかしいっす‥orz)




|山門を額縁にして寺紅葉        焼津市・浜風句会

|山門を額縁にして寺紅葉 千古を伝ふ求道ありけり


 *求道(ぐどう)‥仏の教えを求めて修行すること。悟りを求めること。

 ‥「額縁」まぁ誰しもがそれを思い浮かべるだろうにしても、丁寧に整っています。
 悩ましきは、どう+七七に引っぱるかでした。
 ということで、052に出てきた「千古」を盛ってみました。(知らんかったら、かなり無理っぽ)


> ‥今から観光がてらに、山門に足を踏み入れるにせよ、帰るにせよ
> そこにある誘いは、「求道」のひと言に括れるかと思いました。



1-7)1

|秋天やバスの窓より雲を追ひ      沼津市・万年青大学「俳句A教室」

|秋天やバスの窓より雲を追ひ カーブカーブで逃げよる鰯


 ‥夕向凸激の気分で引っぱってみました。
 上の句に、目線上の動きがハッキリあると楽しく綴れます。(匂い&音も同じく)

 とは言え、俳句では、それの掴みを探して&整えるのが一苦労だったりします。

 ‥なので、その手の詠みは比較的目にとまりやすい傾向です。
 ただし、それだけを狙いがちというのでは、疑問符にも成りかねません。
 着眼によっちゃ日常過ぎるなどと‥平凡の扱いなんですよ(なんだかんだと、好みの分かれる所かと)




|鱗雲下校児童の続く道         焼津市・浜風句会

|鱗雲続けや続けわんぱく等 すすき川原に野球帽舞う


 ‥一見整ってるように見えますが
 どうしたって、客観的な描写です。できれば児童の側で詠んでみるべきかと思います。
 そしたら、わざわざ自分らを「児童」などと仰々しくは盛らないんです。


> もう少し、くだけた言葉選びに関心を向けるべきかと


 くだけた言葉が盛られることで、そこからイメージを引っぱりやすくできるのです。
 ‥絵本に文章を盛ろうとすれば、自ずとそうならざるを得ませんからね。




|カサカサと落ち葉踏みつつ子等下校   沼津市・するが俳句会

|カサカサと落ち葉踏みつつ下校沿い 秋を引きずる名残のステップ


 ‥自分もやった覚えがあります。
 (不思議とたまたまそれをして遊んでみたくなる時空間が訪れるのです)

 ‥「ステップ」の単語に満足していませんが
 どうにも、あの落葉溜りを、足で引きずり引っぱり進む感じに似つかわしき言葉が思い当たりません。
 まぁそれを言うなら、ネタの句の「踏みつつ」も微妙なんですけどね。

 人生の中でそうそう何度もやるような事でも無いので、言葉には至っていないのでしょう。
 マンガやアニメの中でも見たことがありません。
 まぁ演出としては、盛ってくる場面との兼ね合いがそもそもにして不明慮です。
 ‥せいぜいギャグ系作品で盛るか盛らないかだと思います。


> それともこれは、沼津っこの風景なのだろうか??‥気になる‥



1-7)2

|海風の匂ふ街道懸大根         焼津市・浜風句会

|海風を浴びる道並み懸大根 どうにも気になるしお加減


 ‥大根干しです。それも海沿いでの大根干しです。
 干しながら、潮の香りが染みついていくのだろうと思うと、それの干し大根の味が気になりました。

 ‥ネタの句の出来に、不満はさほど思わなかったのですが
 引っぱりにくいので、改めて手直ししております。

 まぁこうして並べてみると、やはり「街道」の響きは固い&重いかなと、
 あと干してあるわけですから、それっぽい言葉を盛っても違和感が無いと言うことです。

 (ここの主役はあくまで季語の懸大根(かけだいこん)でーす)




|不器用な生き方嗤ふ柿花火       焼津市・浜風句会

|遠目から散らばる橙柿花火 線香花火の逆さのよう


 ‥ネタの句の季語、「柿花火」が気になりまして
 改めて、説明を込めて句に折っておきました。

 kakihanabi.jpg

 出典:ふと思うとき

 ‥それにしても、すんげーセンスっすね。柿花火(かきはなび)。
 日々実り付いた柿が、少しずつ減っていく様を見ていないとなかなか思いつかないかと。

 (葉っぱが散れていくごとに、その橙がまるくパチパチと弾けている線香花火に見えるのです)
 (地方の気温差により、葉の散るペースに差があるように思われます)
 (いつまでも、柿落葉に成り切らないで木についていては、是の季語には至らないように思えます)
 (‥先に柿の方が減っちまうわけですから)


> ということで、ネタの句を読み返してみるに
> 線香花火の下手くそに、なぞらえているのかなぁ‥と思われます。


 ‥それにしては
 「嗤う」段取りに説得感乏しく、その辺どことなく独り善がりかなと思います。
 だってね、柿を食うのは別に不器用とか関係ないっすからね、柿が嗤うわけでもありませんし‥

 どうにも不器用なのはあんたの詠み込みだろうと、ツッコむより外ありません。


|不器用を嗤うに似たる柿花火

 ‥段取りを盛るには、こんな感じではありますが、
 これはこれで、季語としての魅力に欠けるのです。
 ↓そこでこうなります。

|不器用を嗤うに似たる渋柿花火

 こうして、「おや?」と思わせるのが、達人どもの関心を寄せるに価するのです。

 ‥美味しい柿は減る一方なのに、渋い柿はそうでない
 ‥渋柿は、誰も食べないから
 ‥落ちる時はまとめて線香花火のアレのようにドペッと落ちるものだからな
 ‥まさに不器用のさまに似ているなぁ。(物事をまとめてやっつけようだなんて)


> 季語をそのままべたにしか使い回せないのでは、所詮‥凡凡たる自分自身とのやりっこです。


 ちなみに、渋柿には渋柿の用い方という奴があるそうです。
 「柿渋」なんてのがそうらしく、渋柿とて貴重な資材だったのでーす。
 ‥というわけで、「渋柿花火」に置き換えても微妙なんですな。(嗤うなんて視点自体が未熟)



1-7)3

|末枯や笑ってすます物忘れ       焼津市・浜風句会

|うらがれや言われたくなけれスキンケア 常在戦場す目線


 *末枯れ(うらがれ)‥葉の先っぽなどが枯れているような様。

 ‥ネタの「末枯や」の意図がよくわかりません。
 季語が機能しているようには思えません。少しズレていると思います。

 だってね、物忘れなんて、若い時から普通にありますから。

 それを「ど忘れ」って言っとります。
 ‥決して、「少し老けたかな‥」ぐらいの言い分では、説得力に繋がらないと思います。
 ‥そうでなければ、「ネジが弛んでいますんで‥」と自虐&悲壮感を思わせるようなオチです。


> ということで、お肌の荒れになぞらえてみました。


 ‥そこで始めて気がつきました。女子の方が男子よりずっと常在戦場に生きてるんだなと☆
 どんなに「DQN」に育とうと、「天然」に育とうと、
 男子よりはずっと周りを観察しているという事でしょうかね。

 (‥それにしても、それは見栄えだけに、勝ち取ろうと‥頭が一杯になりかねないのも男子以上かと)

 ‥なるほど、なるほど
 そこに自覚がある女子程、警戒感から‥無駄に可愛い顔だけのオトボケを敵視すると。
 「ぶりっこ」などと言い始めていたというわけですな。
 それのカモフラージュにも、あれこれと「○○かわいい」としたニュアンスにも流れると。

 天然とはまた違うその辺の意識に疎い‥ボケの入った女子がいてもなんら不思議はありませんからな。


 攻撃される対象は、至って、貧乏や田舎者に多かったりと‥よそ者にもそうやって当たるようですが、
 (もとい‥価値観の差による、曰わく付きらしき扱いと表現した方が的確かと)
 なぜか、それのスイッチが入ってしまう人間関係のある向きを‥どうにも否定できないわけです。
 (わがまま勝手に育たないと、なかなかそうは成らないように思うのですが‥)
 (集合意識としての渦が立ちこめているとも成ると、どこかで火が付くのは流れなんでしょうな)


> 要はそこにある課題点を感情が、無自覚にも、攻撃対象にすることしか機能しない点が問題です。


 ‥そしてまた、そこには
 お互いに適切な表現と理解すべき知識を備えていないが故に、鏡似性たる作用として生ずるのです。

 お互いがそこに生じた違和感における論点を把握できていれば、多くは波立たないはずです。
 (波立ててハッスルしたい場合‥そりゃ勝てない勝負を仕掛けることも無いわけです)
 (確信犯かどうかなんて、見りゃ分かるようになると‥誰も仕掛けようだなんて考えないでしょう)

 ただし、

 お近づきになりたい気持ちを素直に表現しないというケースは普通にありがちです。
 ‥それをもお節介として扱っていては、どうにも負を負うハメになるのは自分の方らしいのです。
 ‥マンガやアニメ、TV業界でもそうですが、その気配が感じられたなら‥少々面倒くさくとも
 ‥自分のキャラ性が問われていると、斯様に考えるのが筋かと思われます。

 (まぁ腐れ縁として諦めることでしょうな、どちらにせよいずれかは問われる事のようですから)
 (そこん所の考え方の柔軟さこそを、頃合いを見て、躾けるべきなんでしょうけどね)


> ‥貧しさに育つと、その辺、ほんと無駄にしか思えないのでーす。


 (ほんと‥意識を切り替えるのに、相当時間を要しましたよ)

 ‥まず、攻撃される意味が相当に理解できない、軽く見られる空気だけが無駄に不快。
 (かという己にしても、さほど適切が何かを知らんのです)
 ある意味、自然体で天然なんですよ。お花畑とは又違って、根が穏やか過ぎるという事です。
 語ってくれる相手もいないと、自分で考えない事には、何ら発見に繋がりません。
 考えられないのも無理もありません。そもそもにして、攻撃する意味が見いだせないからです。

 (奪い合って勝ちゃ満足してられる社会なんて、論外の顔なんです)

 ‥まぁ誰しも、無駄に勝ちきにそそのかされる所はあると思いますが、それがどこに向かうかです。
 そういう意味では、攻撃する側が調子こいて相手を侮っている場合も見られます。
 手痛いしっぺ返しを喰らう輩も居るわけです。(例えば、出口王仁三郎の少年時代の仕返しとか)

 それが社会的に見て、陰謀論の傲慢さのフラクタル性とすれば、
 まずは物事を良く理解することを以て「賢さ」とし、非を回避することを以て「聡明」とすべきです。

 ‥「競って負かして見せましょう」などと思うのは、すでに傲慢の術中なんですな。
 (その辺の空気を読めば、そこを誰しもは「知性」と表現しておるということです)




|病み上がり白髪かくしの冬帽子     沼津市・するが俳句会

|病み上がり白髪隠せる冬帽子 一段と老けけり派手求む


 ‥ここでの+七七の上の句は、ネタのそのままでは引っぱり難いので手直ししています

 「白髪かくしの」と続いてますと、気持ちとして
 「病み上がり」>「冬帽子」の比重としての‥「病み上がり」を気にした句に思えます。

 言っちゃ何ですが、俳句にするに至ってはそれも有りですが

 そこから+七七に引っぱろうにも、その病の事なんか‥まったくわからんのです。
 ‥当人としてわかってればいくらでも詠みようもあるでしょうが、こちとら外野です。

 外野としては、主体を「冬帽子」にせざるを得ないのです。
 ‥まぁそこが「隠せる」と「かくしの」の差になります。


> 双方の意に差はありませんが、意図がどちらよりの比重にあるかが違ってくるのです。


 「ちょうど冬だし、多少なりとも冬帽子で隠せて、まぁなんとか有り難い事だ」としているか
 ‥そうではなく、「なんとか隠せました」程度の色合いに染まっているかの違いです。



1-7)4

|紅葉より小さき手の跡砂あそび     沼津市・するが俳句会

|紅葉より小さき手の交う砂遊び 吹く風のごと子ら劇場


 ‥「手の跡」になんぞ注目しても、面白くないので
 動きのある向きに、転じてみました。

 ぱっと見、「砂あそび」で閉じるのは動かせそうにありません。
 ‥ならば、「手の跡」の着想を変えるべきです。
 ‥始めの着想に囚われる必要がそこに有るか無いかです。
 ‥主役は汝の詠みっぷりなんかじゃありません。あくまで整いです。句です。


> 着想や対象やらを
> 静物として扱うのか?、それとも生物として生き生きとさせたいのか?
> ‥写真にも言えることですが、自ずと答えは知れています。




|山間に篠笛の音や里神楽        焼津市・浜風句会

|山間に篠笛の音や里神楽 誰ぞ始むれこの土地の栄え


 ‥無難にまとまっております。
 それはずるいぐらいにまとまっております。しかしなにか足りないのです。

 それもそのはず、すべて楽器についての繋がりばかりだからです。

 ではあるのですが、「里神楽」はその土地の歴史を語るだけに
 そうにも見えないのです‥そこがずるいと思わせるのです。
 ‥欲張ってるわけでも無いのに、それがそこに盛られるだけで成り立ってしまうと。


> まぁ音楽好きの家庭を見ていると、何かとお得に思えるのに近い感覚です。
> (‥引っぱりにくいったらありゃしない)


 「誰ぞ始むれ」‥誰から始まったというのだろうか?
 已然形の注釈は、前後の兼ね合いでかなり大ざっぱに様変わります。
 それこそ空気読めの原点に思わざるを得ません。

 命令形に似てそうでなく、かといって、呟きとも、促しとも、中途に言っている風にあるのです‥
 そうと判れば‥ぶっちゃけ、万能助動詞風でもあるとして、使えば好いわけです。

 まぁそこは日本語ですから、
 程度決まった言い回しがそれぞれの活用語に備わっているように思われます。
 ‥勿論、助動詞にも已然形がありますが
 ‥命令形の無い助動詞との違いを推し量れば、そこにある何らかの意図が判るだろうと思います。

 まずは、使ってみろという事です。




|新ちぢり見上ぐる空の青さかな     沼津市・万年青大学「俳句A教室」

|新ちぢり見上ぐる空の青さかな スカイツリーの展望台


 *ちりり‥松かさ。

 ‥この手の軽い詠みは、無駄に引っぱってみたくなりまーす。
 中身が乏しげに思える句に、意味を持たせてみよう‥てな具合です。


> 掴みがまずいわけでもないので、ツッコみたくなるわけです。



1-7)5

|がやがやと陽気に天守新松子      沼津市・万年青大学「俳句A教室」

|がやがやと陽気をたたふ新松子 スカイツリーからの青き夢


 *新松子(しんちぢり)‥今年に生りついた青きまつかさ。(秋)


 ‥発想は面白く思うのですが、無理がありすぎです。
 どちらの「陽気」なのかが、まったくの手付かずです。
 (天守より見下ろす側か、天守を見上げる側か、はたまたお日様か‥)
 それでは、季語が宙ぶらりんになるだけで、俳句で詠む意味を欠いてしまいます。

 それにしても、松ぼっくりで詠もうとの気が知れません。
 それも、まだ青くて落ち来ない奴ですからね。ほとんど見かけませんよ。
 ‥そこに注目があるって、よっぽど松の実が好きなんでしょうか?

 まぁ実だけに、将来の展望に引っかけるようにしか詠みを見いだせません。

 でも、やけくそにもやってみると、以外とスカイツリーに掛かる枕詞風に見えてきます。
 (‥東京タワーでも行けるかと、タワーなら概ね有りっすかね??)




|多数決わしは知らんとスタコラサ    静岡市・サロン川柳会

|多数決わしは知らんとスタコラサ 棄権ぞ募りたる無責任


 ‥多数決の採決時に逃げる。棄権もそれの一つです。
 一人の枠で考えて居るだけでは、棄権も選択支の一つ(自由)と思うにせよ、
 全体でその割合が多くあろうなら、これはもう、民主社会の崩壊に繋がります。


> なんちゃって民主社会で胸を張れる筈も無いのに、独裁は許されないと息巻く形がやって来ると‥


 ‥参加することそのものが責任を示す行為であるのなら
 参加者の少なき状況で当確したなら、その者が責任を負わないのも鏡似性たり得るでしょう。
 それを認めたと言える辻褄です。

 ‥翻してみれば

 公平に参加させない(話し合おうとしない)とする政権側の思惑も、
 又責任を負わないと宣言したのと同じです。

 つまり、社会の不公平の非改善性そのものを総じて、反民主的にあるとして指摘できるのです。
 (ただし、それを真っ当に口にして反論できるのは、キチンと参加している場合に限ります)

 ‥されど、基本的に参加できないような状況を改善しないのであれば
 それは、まったく以て、改善を請け負うべき側の責任です。

 (改善する力無き政権には、責任の擦り付け合いの鏡似性がそこにあるばかりでしょう)
 (‥残念ながら、国民とて同質ということです。勉強不足ということです)




松並木初冬の海のさんざめく      富士市・富士かりがね句会

し吹くかな初冬の海のさんざめく 折り返せざる舵取り続く


 ‥「初冬の海のさんざめく」なかなか面白い捉えです。
 しかし、掴みが今ひとつで、どうにも「松並木」では景色が見え足りません。

 と言うことで、舟を出してみんとしたところ‥
 まさに、激動の波間に揺られているような感覚に伝わってきました。

 ‥まぁ出ちまったら出ちまったらで、早々に引き返す考えも持てないところなのでしょう。
 ‥ちったぁその波飛沫とやらに晒されてからでないと納得できないのも人情です。



1-7)6

強情に居座ってをり冬の雲       焼津市・浜風句会

|強情に居座ってをり冬の雲 公平あらね非開示TPP


 ‥これがまた引っぱりにくい。
 一見、富士山かお日様に「冬の雲」が覆い被さっている。まぁそう解釈すれば好いわけです。
 でも、引っぱるにそれでは面白くないのです。

 引っぱろうとすると、「強情」の響きがなかなか辛いところです。

 まぁよくよく考えてみるに、
 お互いに、そこにある「居座り」はそのままに「冬の雲」にあるのです。
 双方に釣り合う‥斯様な着眼たる対峙を探してこないと整わないわけです。


> どちらかというと俳句と言うよりは、川柳寄りの詠みですかな。


 (+七七の注釈)
 ‥公平に無いだろうに情報非開示なんてよ、TPPはふざけている!断固反対!


 という意味になります。まぁ「あらね」なんて普段用いませんが、十分にそれらしく聞こえます。
 (多少‥訛りっぽくも聞こるかと)

 *「公平あらね‥」の「ず」は、助動詞「ぬ」の已然形です。


 戦略だとか駆け引きだとか知りませんけどね、情報の非開示は基本的に不公平と言うことです。
 ‥ルール無用を申し付けられたも同じなわけですから、民主的に無いのは明らかです。
 ‥そこを鵜呑みに皆で頑張りましょうとか、馬鹿ですか?

 ほんと卑怯な外交どもです。それが二一世紀とは、二十世紀以前に何ら学んでいない有り様です。
 誰のためのルールなんですか?、それが資本家寄りだってのは明らかなんです。
 TPPは、資本社会政策であって、民主社会政策に無いのです!


> ‥資本家=奪い合いのごろつき同然という事です。(どうしたって、そういう事です)
> (技術があっても生活が後回しの文化なんですよ、それこそが資本主義の本質です)


 そもそもが奪い合いですから、キチンとした生活が出来るのは勝ち組だけだと自慢したい世界観です。
 キチンと生活したいから競争し続けようというのが資本主義なのです。
 斯様なルールに、いつまでも付き合い続けられる性格も一つの才能ではありますが

 ‥才能の有る無しでも生きていけるように宣言してあるのに、民主社会は後回しにされています。

 ルールが変われば、立ち位置が変わるのは当然です。
 自分を上に位置させておきたい有利が消えるのは、歴史を見ればそれの繰り返しだったのは流れです。
 ‥でも、そこを公平にあるために考えるのが民主化です。そこを裏切るのが資本の前提解釈です。

 汗を前提にする上での手直しをすれば良いだけですが、どうにも
 そうできない狡さを備えているのも資本家ということです。

 ‥まぁそんな社会に参加しない、関わりたくないのも人情ですが
 背を向けていても、誰も何もしてくれません。むしろ奪われるだけです。
 資本家はそういう意味では、無駄に長けています。最強の時間泥棒ですから。

 もとい、好奇心泥棒です。
 だってそうでしょ、意図もたやすくお金の有る無しで、男女関係は崩壊するのです。
 家庭の事情も複雑になるばかりです。(‥実に迷惑な空気泥棒です)




|コスモスの揺れる彼方に富士の山    焼津市・浜風句会

|コスモスを揺さぶる法やあれやこれ 強まる風に自由の向きなし


 ‥ネタの句は、俳句としては至って平凡です。
 でもまぁ短歌ならこのぐらいの詠みの方が引っぱりやすいのですが
 どうにもやりにくい所があります。

 それは、富士を詠むわけでも、コスモスを詠むわけでもなく、
 ‥どちらにも振るわけにも行かない所が、やり難いのです。


> それにしても、御殿場辺りから詠むと、「コスモス」×「彼方に」なんて出てきませんが
> 焼津辺りになると、途端に彼方になるんですな。(距離感の参考になります)


 ‥ということで、コスモスを庶民になぞらえまして
 縛りが無ければ、そよ風に自由に揺れていられるのに、次次とこう風向きが強くなっては、
 途端に自由もクソも無く、一方向にしかなびけない‥ところを突いてみました。




枯蟷螂の骸の翅をゆらす風       富士市・富士かりがね句会

|揺らす風むくろの翅は鵙の贄 見やる空かなIR法


 *枯蟷螂(かれとうろう)‥保護色で枯れ草の茶色に様変わりするカマキリ。(冬)
 *鵙の贄(もずのにえ)


 「骸の翅をゆらす風」が面白く、そのまま使い回したかったのですが
 語順がおかしくなるので、変更しました。
 ‥そこは、ネタの詠みからして微妙です。(一杯一杯な感じです)


 鵙の贄は、未だにもずがなんのために行っているのかの論に決着が付いていません。
 一見、餌としての蓄えのようにも思えるのですが、そうでもなさそうです。

 (それはたぶん‥鴉を始めとした他の鳥でも口にしないからでしょう)
 (しないからこそ、人がそれを見かけることが出来るのです)

 そんな、無駄に勝負(狩り)だけをしたい輩の成り行きを、鵙の贄に例え
 カジノ法について意見してみました。


> ‥まぁ要するに


 そんな鵙の贄のようなカジノ破産に関連したニュースが飛び交うようにもなれば
 それはどうしたって、気分がよろしくないという次第になりますね。



1-7)7

|再会の無き見送りや夜半の月      沼津市・万年青大学「俳句A教室」

|再会の無き見送りや月通夜 思えば仕事あすあさっても


 *夜半(やはん)‥真夜中。


 「夜半の月」とわざわざ念を押してあるのが、解釈上のポイントです。
 そうすると、「再会の無き見送り」は、どうしたって死別を意味します。

 ここが解らないままでいると、「見送りの無き再会」だろうとして勘違いしかねません。

 ‥どうにも紛らわしいので、「月通夜」に変更しました。
 夜中に葬式はさすがにしないと思いますので、通夜の方が幾分ましかなと。


> 本来的には、魂が抜けるのを待って火葬するのが筋ですが


 今の社会は、そんなのお構いなしですからね、
 どうにもお互いに、本来の目的を失って、成仏できないように一生懸命にしか見えてきません。

 ‥近年、散骨でもかまわねぇ派が増えているそうですが、
 それもまぁ一つの流れと言えばそう思わざるを得ません。
 昔ながらの先祖の土地が有るわけでも無ければ、どうしたって墓の管理には経費がかさみます。

 ただでさえ生きるのに精一杯なら、そんな死んだ後の事なんて二の次です。

 顔を合わせる事が無かった理由などいくらでも挙げられるかと思いますが
 ‥概ね、仕事の都合が理由でしょう。賃金の度合い等にも依ると思います。
 (あとは反りが合わないという奴ですかな)


> まぁそこがどうにも、競争社会の道理なんですな
> あの世が無いと思っている鏡似性が作用していると思わざるを得ません。


 ‥死後が有るも無いも、念いの創造により引き寄せられるのなら
 それを信じるか信じないかはあなた次第です‥ではなく、あなたの念いの強さ次第です。

 仮に、引き寄せ論者が、死後を信じていないのなら、その方はきっと資産管理に懸命です。
 ‥その思惑という引き寄せに
 引き寄せられるお客の一人として、この世にあるばかりでしょう。

 (カネにもならねぇ‥もっぱらの冷やかしは、お断りとして路に転がれとの引き寄せです)

 ‥今やこの世の暮らしは、斯様な思惑で半分が出来上がってしまっているようなモノですからな。
 如何に華やかに見えようとも、生活消費なんぞ、常に、先が見えない代物ばかりです。

 (そこから先のゑにしのことなど、お値段に付加されておりません故にそうなります)
 (それこそが、無神論に陥っている念いの道理です)
 (支えが無いと生きられないと思ったら、まずは疑問を抱きましょう!)


> ‥腑に落ちる答えに辿り着けるかどうかは、あなたの問い願う‥その無垢さ次第です!


|腑に落ちる答えを得るも問い次第 まずは捨て置けあれこれの比較
|今ここの己の矛盾洗い出せ 矛盾問う差の埋まらずを問え
|何事も推し量れずんば前も無し 問えぬ身なれば「在る」が辻褄
|さすれども「在る」の見解様々に 堂々巡り罠のごとむなし
|考えの先の先に吾を得ず 唯解りたる掴みのあるのみや
|一つずつ歩める事ぞ自然体 其に争うを思うべく無しと
|ただ迫る不注意ゆえの失敗は いくらでもあるゆえ甘くなし
|許せるか許せないかそれだけの 唯見守るばかり選択の時
|何事も祈りに任せずんば成り立たね ゑにしを問えよその願
|自覚ある己を得ずにさきも無し なんぞ巡れる見方こそ汝




立冬を忘れて過ごす日々うつろ     沼津市・するが俳句会

人間を忘れて過ごす日々うつろ 是ぞ冬ざれゾンビと申す


 (ネタの句の解釈)
 ‥俳句をしたためている身で有りながら
 ‥そういえば立冬だったのをすっかり忘れていましたよ、どうにも、日々うつろに御座います。


 どうにも、斯様に解釈せざるを得ないでしょう。
 そもそも、うつろを自覚する人が句を折るわけがありません。
 その時点で「うつろ」では有り得ていないのですから。

 ‥まぁ着眼がおかしいんですな。

 「立冬」という季語らしい季語が上五に無かったら、どうしたって変です。
 ぶっちゃけ、俳句の着眼とは思いません‥「渇!」ですな。


> 言っちゃ何ですが、沼津に住んでて思うのは、季節感の乏しさです
> 他に住んでみて、その違いに驚いた程ですから
> ‥尤も、当時は日の当たらない環境だったので尚更だったかと(最悪だ!)
> ‥学校との間に、自然を味わえる環境もねぇ(ほんと苦痛の日々だった‥)




|声投げて鴉飛び立つ木守柿       静岡市・羽衣俳句会

|声投げて鴉飛び立つ木守柿 食べ尽くさぬが知恵とは言うが‥


 *木守柿(きもりがき・こもりがき)、木守(きまもり)

 ‥なかなか、光景の捉えとしてはイケてます。
 手を付けたのか、付けなかったのかが気になりますが
 そこは、木守の定義がそう思わせるのでしょう。

 実際に、残りがいくつあろうが、状況としての木守柿と言うことです。
 (‥残すと決めたら、木守柿で良いと思います)
 (たとえそれを知らずとも、残してあると思えば、木守柿でよろしいかと)



> うた詠み終わります、ありがとうございました。
posted by 木田舎滝ゆる里 at 01:02 | Comment(0) | 名句にポン/2016 | 更新情報をチェックする
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