2017年01月28日

【哲学】恋愛(好き&嫌い)を多次元方程式から鑑みる‥

↓3)記稿.2017/01/28

> 恋愛は自由にと願いつつも、いつしか一穴主義が猛威を振るうのだ‥


 そこから生ずる様々な動揺は、実に不自由この上ない。
 まずは、恋愛である前に人間にあるのだ。

 そこから来ている自由が、どうしてか‥恋愛になると

 いつの間に‥{人間}<{恋愛}<{性欲}‥に成り下がるのだ。
 (だからこそ、HENTAIも発生するのだろう)


 正しくは、{人間}>{恋愛}>{性欲}に据えるべきに思う。


 人間として、好きになる&嫌いになるのだから、それは一過性の一次方程式などでは無い。
 継続的な多次元方程式であり、どこに解が発生するかなんて、概ね判らない所がある。
 ‥ある意味で「解」は創造すら可能なのだ。(消失もまた可能にある)


> どうして一穴主義が前提というか‥主流なのか?


 ‥そこにこそ疑問を投げかけるべき事なのだ。(では、少しばかりよく考えてみよう)



1-3)1

 解が異なると云うことは、姿形が違うばかりで無く
 それに合わせて、自分の側の受け取り方の解も変わるのだ。変わらざるを得まい。

 (‥暮らしぶりの捉え方から何から何まで、条件が違えば自ずとそうなる)


 だが実際において、それはどうしたって器用には行くまい。

 なぜなら、自分ですらどこに解が発生するのかに未来的に見ても自覚など無いのだ。
 ならば、どうして、相手がそこを理解しうると云うのだろうか?

 ‥私たち人類の恋愛観は
 お互いにそこを無頓着にも、無理強いしたままに相性を望まんばかりにある。


> 暮らしぶりの急激な変化でさえうんざりなのに
> どうして恋愛だからとして、昨日の暮らしが明日から違うのを受け入れられるだろうか?


 (実際それは、失恋からして同義的に扱うような向きにあるのだ)
 (解に共通項があるというだけで、違う解を選択して理解されないのも至極当然にあろう)


 そもそも、解の違いたる自分を理解できたとしても
 そこから導き出される未来を隅々まで念い描けるようなレベルには無い。
 ‥少なくとも現段階における私たち人類はその程度だ。(それの価値観を共有するなど無理)

 それでも、何となく理解できるだろうことは、
 一次方程式の扱いと多次元方程式の扱いが異なることだ。

 「そもそも解は一つになくて良い。」

 恋愛としてではなく、人として、多次元的に解が存在しうるからこそ
 それが時には複数解たる恋愛事情にまで展開するだろう理解である。予想である。



1-3)2

 ‥今現在見られる私たちの恋愛観は
 私たちの暮らしの条件に沿うように理解されているだけで、そこからの理想として
 一穴主義が都合良さそうに思われているだけだ。

 理解において、先に人間があるのなら、解は複数有っても不思議はない。
 ‥ただそれが、生活として如何なるスタイルをもたらすのかを知る由もないというだけのことだ。


> それの意味では、私たちは自由だけでなく、秩序も又重んじているのだ


 ‥そこは恋愛としての個と個の感受性というよりは
 圧倒的に生活が基準で、肌に馴染むか?琴線を得ているか?の方が欠かせないのだ。


 ‥言い方を変えれば
 可能性は常に、違和感の中に潜んでおり、又、それは滅びの可能性も同じである。

 つまり、好みに幅がまるで無い、若しくはその幅としての共有が許されないのでは、それは同時に
 未来的に可能性も低いわけで、一穴主義に収まっちまってるよりは
 多少は大目に見てやるぐらいが、ギスギスせずに済むし、世間においても幅が保たれるわけだが
 ‥相手にそれを求めるばかりで、自分がそれを受け入れているかは意外にも怪しい。(脆いのだ)

 一方で

 オープンな奴は、いたってその辺‥ただの物好きでしかないのが相場でもある。
 とくにオープンな奴は、その辺に考えなどまるでなく本能的にしか受け取らない点は
 甚だケモノに思われても仕方ないのだが‥

 ‥其もまた、{人間}<{恋愛}<{性欲}の範疇にある。
 (そこの鏡似性の中に絡んだ共有解としては、概ね外れてはいないのだ)



1-3)3

> ‥個人的な恋愛観だけで以て、恋愛を語ろうとするのは、誤った解釈である。
> ‥数学的に云えば、そこは、個に連なった解の幅を見て吟味すべきである。


 (家柄とか付き合いの幅とか友人関係とか‥そいつの全般的な暮らしぶりなど)
 (無論、それが横と比べて上位かどうかでは無い、自分に連なる解の肌に沿うかどうかだ)


 自分に連なる解に沿わないと思えば、解を変えるべくした努力も又求められる。
 ‥努力する解が備わるかどうかでもある。その結果、釣り合いを得られるかどうかでもある。

 (パートナー間でそこの調整が図れないようなら、その関係は始めから成り立つわけも無い)
 (自分と相手との相性ばかりでなく、連なる解との相性も潜むのであれば無視はできない)
 (そこの解をお互いに競争し合って改造し向けている社会に、離婚に閉塞感が束なるのは当然だ)
 ({競争}={上位しか認めない傾向}‥そんな解が並んでりゃ、そりゃギスギスだ)


> そこを踏まえて考えずのシンデレラ願望丸だし恋愛観など、借りてきた猫同然だ。


 そいつがいつの間にか慣れだせば、それこそストレス全開だ。
 ‥野良猫が、家猫としてご厄介できることを恋愛と指さすようなものだ。

 猫を見れば見る程、その生き様が、恋愛としては不可解に見えるのは述べるまでも無い。

 なのに、お互いに猫好きとか‥どうしたって怪しいだろう。
 そのままの通りに、社会には混乱がもたらされんばかり何だからな。
 ‥まさに猫を被ったかのような社会にある。(それが現代社会&人類の不可解とも言えようか)


 ∴「恋愛観が糞だから、社会も糞になる」
 ∴「恋愛観が糞だから、生活もくたびれる」
 ∴「恋愛観が糞だから、猫を被らざるを得ない」


 ‥「愛があれば乗り越えられる」とか、それこそが裏付け無き自信の塊。
 どうしてそんな呪文が成り立ってきたのかは、まったくの謎。

 ‥「愛」なんてのは、そこに在るだけで、ほっとする類の概ねオブジェ思考にしかない。
 ならばまず、自らに其を思えずして、釣り合いなど起こりうるはずもない。
 そこを得ずして恋愛もクソも無いのに、なにをゲットしたいのだろうかと不思議なコトだ。


> 自らの方程式(性質&方向性)を自覚もせずに、一次元解も多次元解も在りはせぬ
> 自覚無き自由性を自由とは呼ぶまい、ただの消耗なり
posted by 木田舎滝ゆる里 at 11:23 | Comment(0) | 哲学/一般 | 更新情報をチェックする
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