2017年02月17日

【勝手句帳】080 29-2-10 静岡新聞掲載分から

↓7)向宜詠吟.2017/02/17

谿水の絵巻解くかに鴛鴦来         藤枝市・桑の実俳句会
|淵と瀬に軸を掛け交う鴛鴦く        参考



 *谿水(けいすい)‥渓水。谷間の水。谷川。
  鴛鴦(えんおう、おしどり)

 ‥掛け軸でも絵巻でも屏風でも団扇でも構いませんが
 そもそもが水墨画のような背景で暮らしているのがオシドリです。

 「谿水」はそこを強調して盛られています。(知りませんでした)
 ‥おぼろげだったオシドリとマガモとの勘違いに今更ながら唖然‥


 
 里山の自然観察
 

 ‥オシドリとマガモとでは、その好む生態がまったく違うのです。(驚きっす)
 私たちの唱える「おしどり夫婦」とは、どちらかと言えば「マガモのつがい」です。

 ‥そのオシドリの生態は、どう見ても群鳥で、プチ村社会を形成するかのように固まります。
 その違いから、何かとせわしなさが滲み出ており、マガモのようなおっとりした雰囲気はありません。

 歴史のどこかで、オシドリからマガモへと対象が入れ変わったのではと‥思わざるを得ません。

 ‥それの最大の違いは
 マガモは人里にもやって来ますが、オシドリは開けた水辺を好まぬ生態です。
 この差は非常に大きく、私たちが普段さほどお目に掛からない理由にもなっています。


|これやこの淵瀬に棲まう鴛鴦の村社会ざれに惜しむ仲


 *淵瀬(ふちせ)
 *鴛鴦の(おしどりの)‥「憂き」「惜し」に掛かる枕詞。

 *「憂き・憂し」‥心外な事ばかりで、疲れ、心が閉ざされるように感じられること。
 また、そのような感じを起こさせる状態を表す語
 *「惜し・愛し」‥かけがえのないものとして愛着を感じているさま。いとしい。かわいい。
 また、対象の「よさ」に心をひかれるさま。


 ‥枕詞にあったので、それっぽく詠んでみました。
 ここでの「村社会ざれに惜しむ仲」とは、村社会の暮らしにあるも離れがたきの意です。

 ‥どのように解釈すべきかは、読む人の印象により異なるかと思いますが
 日々の暮らしが大変だったからこそ、そこに村として固まる必要があったからこそ
 村社会ざれにもなるという事です。

 ‥開けた水辺で暮らすのとは違い、用心深くないと何かと難儀してしまうのが
 猛禽類の飛び交う山がちな地形での暮らしです。
 同じ水鳥でもオシドリは、どうしてかそういう生態を好んで棲まうのです。


 ‥そうです
 枕詞の「鴛鴦の」は、斯様な意味を込めて用いられていた事になります。
 私たちの知る「おしどり夫婦」の言葉に反して
 どうしたって、(「憂し」×「惜し」に掛かるのですから)相反する薄幸のような印象です。

 ‥まるで、「おしどり夫婦」の本来の意味が
 世知辛い世間を堪え忍んで、手を取り合っている夫婦を指していたかのように思えてくるのです。
 日本人であれば、「ああなるほどな」と‥思わざるを得ません。

 ‥私たちの知る、マガモのあれを見て
 あののんびりとした仲睦まじさを見て思うような、「おしどり夫婦」の意では無かったのでしょう。


> そもそも、今や私たちの知る身近に居ない鳥であって、どうして枕詞になり得たのでしょうか??


 縄文文化だったから‥山がちもまた生活圏だった‥

 ‥そういうことになりますと、平安貴族は、枕詞文化とは直接的に関係がなく、
 間接的に培われていたそれを取り入れていたことになります。(私たち同様、本来の意をおぼろげに)
 防人の人たちもまた和歌をたしなんでいたわけですから
 弥生人が来る前から、何かしらの和歌文化の元があったようにも見えて来るのです。
 (実際、歴史的にもそれ程に古くから位置するのが枕詞です)


> ‥察するに


 弥生人(渡来)の思う夫婦像と、縄文人(土着)の思う夫婦像が異なっていたので
 身近に見るようになったマガモを見て、見た目の都合の良いところだけが、
 「おしどり夫婦」の言葉に写し取られて、口を突くようになったのかも知れません。

 (弥生文化に縄文文化が取り込まれる過程で、縄文人が夫婦仲に使う言葉の鴛鴦の例えを)
 (弥生人が、身近なマガモを見てそれの様子を親しむように、勘違いして伝わってきたのでしょう‥)
 (江戸の頃でさえ、共通認識できるツールも無かったので気に止めることもなかったのでは‥)


 田が切り開かれるようになり、次第に平地気味の景観の中に暮らすようになった‥
 その後の縄文人&弥生人の子孫がオシドリを余りよく知らずに、そこを勘違いしたのでしょう。

 ‥ゆえに、オシドリの喩えの本来は、私たちが、マガモのつがいの寄り添う様子を見て
 仲睦まじいとするお花畑のようなイメージを重ねて思うのとはまったく違っていた事に成ります。


 (ある意味、解ったふりをしてしまうのは、弥生の血だったと‥)
 (逆から見れば、縄文の血は働き者、暇が苦手、ラブラブしない、生活が第一)

 ‥な〜んだ‥‥‥織り込み済みなんじゃん。

 (今や、日本人の暮らしぶりに疲れているのは弥生側の血にあると)
 (でも弥生の血は判ったふりをしてしまうので、解決できないと‥まさに大陸由来の血らしいなと)



1-7)1

|日の当たる川底見ゆる叔気かな       富士宮市・原茜富士句会

|白みける素晴れ遍く叔気かな 息まる呼気の押し寄せる朝



 *淑気(しゅくき)‥天地の間に満ち満ちているめでたき気配。(新年)
 *素晴れ(すばれ)‥読んで字の如く、澄み渡った空の様子。青空。(秋空との区別用)
 *遍く(あまねく)


 ‥まぁ「淑気」ってのが、ここの所の静岡新聞の投句の詠みにチラホラしてまして
 これのネタと二つ下の水仙花の句との言葉の交換で、一句拾えそうな所をリスペクトしました。


 ‥「日の当たる川底」は、どうしたってすでに見えている話です。∴「見ゆる」不用っす。
 そこに新年のめでたさを求めても、どうにも違うでしょう‥としか言いようがありません。
 まぁどうにも「叔気」は、抽象的な季語なので、使い所が難しいのです。


|朝ぼらけ叔気にけりや柿田川 水面より靄立つそこかしこ


 ‥いつだったか、元日夜半の三時頃に三嶋大社になんちゃって詣でして
 その帰りに柿田川湧水に立ち寄ったところ(五時すぎ頃)かような光景を見ましたん。



1-7)2

朝焼けの富士ほんのりと薄化粧       静岡市・新俳句人連盟静岡県支部茶の花静岡初句会

|朝焼けや富士ほんのりと薄化粧 ほほべに差したれけふのコスプレ


 ‥流れ的に勘違いしそうですが、「朝焼け」が季語で夏です。
 まぁほど良く整っていますが、「富士」×「薄化粧」と来たらやはり冬場の冠雪です。
 そこの印象を薄めておく上での、何かが何も無いのが不満に思われます。

 それこそが、流れ的に勘違いしかねないポイントでもあるのです。

 ‥引っ張りの後に「コスプレ」と盛りましたが、「お出掛け」の方が適切です。
 なぜコスプレにしたのかというと、次の句との兼ね合いが面白いと思ったからです。




|平穏の日差し遍し水仙花          富士宮市・原茜富士句会

|ツンデレの鑑と見やる雪中花 あとは「寄るで無いぞ」言い放て


 ‥「平穏の日差し」ってあんたさぁ、「今日は晴れですね」って意味やろ
 ‥で、「遍し」って来たらさ、「毎日こんな感じですわ」って続きやろ
 まぁ確かに、同じ所に咲いているスイセンを見ているとそんな気にもなるよな。

 そういう意味では、整っているにせよ、日常の会話としたらそれこそ平凡っすから。


 *雪中花(せっちゅうか)‥スイセンの別の呼び方。(冬)
 雪のなかでも咲くところから雪中花とも呼ばれているらしい。(そんなの見たことねぇ)
 ‥沼津は雪に縁遠いからな。(今冬でさえ降ってねぇ‥あ、正直降らないで結構です)


> はじめてのツンデレキャラのコスプレで緊張しております
> そんな化粧室に、なぜか造花の雪中花が飾られていました
> まるで、自分に言い聞かせんばかりにそこに居たのです
> ここまで来たんだよ‥あとは、上手にツンツンするだけだよ‥(きっと上手く行くはず)


 (コスプレ撮影に「寄るで無いぞ」って、そりゃキャラ次第でしょう。通常有り得ませんから)



1-7)3

|富士裾を歩む日差しや布団乾す       藤枝市・桑の実俳句会
|富士晴れに布団を乾せる暮らしかな     参考


 *裾(すそ)。袖(そで)。

 ‥ネタの句の視界がまったくもってちんぷんかんぷんです。

 「富士の見える麓を歩くに持って来いの日和だったので、布団を乾しました」
 「富士の見える麓を歩いていると、日差しの良い中、布団が乾されていました(私も乾しました)」

 ‥まぁそんなところなのでしょうけど、判然としません。
 「歩む」を暮らし向きとしても解釈できるので、越してきたばかりの印象にも見えてきます。
 (そんなこんなまで考え出しては、ますます分かりません)

 ‥「富士のすそ野を歩く」×「布団を乾す」‥流れのバランスがとにかく不自然です。
 なので、どちらにも解釈できる視点を「参考」としてみました。(つまり裾がじゃま)


|富士の袖歩める素晴れ初参り 人人人に晴れ着少なく


 ‥こちらは、「裾」を「袖」に発想を変えて詠んでみました。
 袖となるとやはり正月を詠むしかないと‥
 (他にもあると思いますが、余りよく知りませんのであしからず)




|玉砂利のはずむ足音幸願う         静岡県・たかね川柳会

|玉砂利のはずむ足音幸願う ザクザク鳴らし黄金湧くよう


 *黄金(こがね)


> 神社の境内を歩いていると
> この玉砂利の音がなんとも幸せをはこんでくるかのような仕掛けだな
> まるで、大判小判をザクザクと掻き鳴らすかのような風合いだ
> (あれ☆それじゃ、福を運んでくるのは、もしかして参拝者の自分ということかい‥)


 ‥よくもまぁ玉砂利ネタが出てくるものだ。(良くあるよ)
 なんぞたいそうな仕掛けにもあるようで、そうでもないような
 たまたまなんだろうけど、参拝者がやって来るにしても足音は聞こえた方が良いだろうし
 来る方にしたって、足音を起てて進むのは気持ちの切り替えにも成っているのだろうし‥



1-7)4

|いやな奴会いたくなくて遠回り       静岡県・たかね川柳会

|いやな奴会いたくなくて遠回り 向こうも同じか‥鉢合わすとは‥


 ‥興味の湧かない奴
 ‥好き嫌い関係なく注目せざるを得ない奴
 ‥端から肌に合わない奴
 ‥興味はあるもののそいつの周りの人間関係がどうにも好かん奴


> なぜそいつらは目の前に居るのだろうか?
> 答えは至ってシンプルだ。それはそれが人間の持ち合わせている幅と言う奴だからだ。


 ‥で、自分はそれに向き合う上での対処を用意できていない。それだけのことだ。
 言ってしまえば、人間の幅を想定できていなかったのだ。
 まぁそりゃそうだろう。未だ何歳だというのか?
 (すべてに対処できる心構えができていたら、生まれてくる必要も無いのだから)

 そしてそれは、何遍生まれ変わろうと

 その者を肯定的に見ようと始めない限り、永遠に答えなど得られないであろう。
 答えを求める気概が無いなら、永遠に、オールマイティな心構えなど身につくことは無い。
 ‥そのようなもの、偏った見方の中でのみ、生きていくと誓ったようなものだ。
 ‥それが人類の大半ともなれば、人間なんぞ高が知れている。そこに希望など無い。

 自覚した上で関わらないと決めるのと、わからないままに関わろうとしないのとでは

 ‥繋がるべき縁はまったく異なってくる。
 まぁ無理する必要も無いと思うが、機会だと思えば、それなりの好奇心を得るべきであろう。
 そこで培われた何かがその後の展開に影響を及ぼすのは必然だ。
 されど、未熟のままにもスルーなら、そりゃ、行き詰まるばかりだろうさ。




|くだらない話の中に君はいた        静岡県・たかね川柳会

|くだらない話の中に君はをり 心配無用「明日さ来っから」


 ‥ここでの「くだらない話」が何を差しているのかは、全くの不明。
 分かっていることは、「君」に関心があると言うことだけだ。

 ではあれ、相手の好奇心を頭ごなしに否定するばかりは失礼である。

 ‥ゆえに、世間一般にくだらなさと言ったら「心配性」ぐらいかなと。
 自分の希望だけを切望するようになければ、心配することなど何一つ無い。

 (誰でさえ消え果てては全体は行き詰まる向きに置かれる。行き詰まった奴から消えるのでは無い)

 「消え果てたくない」との願いがあるなら、それこそ必死こけって話だ。
 なにくだらなさそうに、座り込んであれこれ言ってんの?‥それって所謂「諦め」だよね。


> でもまぁ、まずは諦めて置くのがベストを導く。ここも外せ無きポイントだ。
> 宇宙的な自覚も無しに、どうして自分側の願いだけがベストをもたらすと言い切れるだろうか?


 ‥誰しも日々最低限望んでいることは、明日が来る(今が在る)というだけであろう。
 他は、まぁ後まわしと言うことになるようだ。(世の中見てもそんな感じだし)
 そういう現実はマンネリとしてあるばかりだ。(まずは、容赦なく良かったね♪‥なのだよ)



1-7)5

|虹なんてなかった逃げ出した空に      静岡県・たかね川柳会

|虹ぞなし逃げ出したる空もうつろ 希望はどこにも無くて倦む‥


 *倦む(あぐむ)


 ‥自分に逃げ道が有るなら、他人にも逃げ道が有るということだ。
 ‥自分に逃げ道が無いなら、他人にも逃げ道が無いということだ。

 そこに注意深くなればなるほど、誰しもに訪れるチャンスには限りが有ると分かるだろう。


> 己にチャンスを作り出す気概と実力が伴うなら、自ずとそこに人が集まろう
> ただし、心底チャンスを得ようとしなければ、人も寄りつくところが無い。
> ‥そこがどうにも下克上の性格としてあるようだ。


 幟を立てた後に、途中で引き返すなど許されるわけもなく、
 立ち止まりたいなら、道を譲るべきであろう。批判するなどおこがましい。
 ‥そこを受け入れもせずに、権利を主張するからおかしくなるのだ。

 例外があるように見えたなら、その対象は、覚者かインチキかのどちらかである。

 (そこの判断すらおぼろげなら、そりゃ、チャンスも糞もあるまいて)
 (有るとすれば、インチキに媚びへつらっている様だろう)
 (‥真贋も判らぬのだから、そこに腰を下ろすのだろう。兎にも角にも有りつきたいとばかりに)




|僕だって世界に一つだけの花        静岡県・たかね川柳会

|僕だって世界に一つだけの花 咲かせることのできる種らし‥


 ‥「世界に一つだけの花」
 是はまぁ、曲のタイトルですか??(そこは置いといて)

 それはただの言葉です
 それはただの希望です
 ‥なにしろそれは、まだまだ種でしか無いのですから

 一輪しか咲き得ない花にどれほどの意味があるのでしょうか?
 一つの種類という事を強調して何の意味があるのでしょうか?
 誰だってそうなのです。そう思えていないからこそ、そこを強調したくもなるのでしょう
 希少価値という言葉に酔うだけなら、端っこでも十分です。

 自らが、自らの種が何であるのかを見極めて
 それが花をつけ、実るまでのステップを
 自らの手で担えずして、担わずして、一体どうしたいというのでしょうか?

 ‥かような花に誰が魅力を感じるというのでしょうか?
 そうでないのなら、どこに咲こうが十分です


 咲かせるノウハウを持たぬと自覚して
 咲かせられる者に頼るだけでは、ただのクソッタレです
 まずは、頼るにせよ、頼ることで頼る側に負荷を強いていると自覚すべきです
 その自覚すら伴わない日常感に、どうして希望が増幅すると言えるのですか‥


> もう一度言います、それはただの種にあるだけです。
> それは誰にも等しく始まりを意味するだけの言葉です。



1-7)6

|安全と信じ切ってた軽い口         静岡県・たかね川柳会

|安全と信じ切るほど怪しくて 常に自分で確認してこそ


 ‥最後は自分で確認する!
 まぁ基本ですが、すべてが、ぱっぱっぱと確認できる事ばかりではありません。
 内容によっては、時間経過が求められる事柄もあるのです。

 でも、自分で確認することを心掛けていない者に、本来的に向上など有り得ません。

 うんちくばかりで‥ノウハウも得ず現場も知らないという事であれば
 どんだけ人任せなんだ?‥と云うことです。画に描いた餅のままと云うことです。
 まずは自分ですべての役柄を演じて(シミュレーションして)見るべきです。

 ‥少しでも歯車が合わないと思ったら、どこかにやっつけがあるのです。
 そこをどこか暗黙の了解でも良きと思っていたなら、嘘がまかり通っているという事です。

 そこが疎かでも成り立つように思い込んだが最後‥本物にはほど遠いと。
 (いやいや周りがその程度なら、出し抜くことは容易いでしょう)

 まぁそもそもが、本物を突き詰める力が無かった現れでもありますから
 真贋の区別すらままならないのは道理です。そこの出来不出来にこだわるのは的外れなだけです。
 その上、素人が思いがちな「雑魚」を自認していては、本物への道との縁すらほど遠いと。


> はてさて‥それでもそこここに見られるプライドらしきは一体何なのでしょうか?


 神や王や女王は、図々しく意地悪で強慾で上から目線で人でなしで能力不相応でも
 血と権威だけで以て君臨できるのだと思い込んだままのどうしようもなきエゴという事です。

 ‥まぁ手短に申し上げますと、「プライドを優先したれば愚かの始まり」という事です。
 まさに、階級社会の記憶の名残を引き摺ってしまっているままなのでしょう‥

 ‥自ら以て新しきに上書きするだけのイメージが無いという次第です。
 イメージが浮かばないなら無いで、どうすれば良いかと言えば、まずは謙虚に問い続けることですな。




木枯の切っ先海へゆるびなし        藤枝市・桑の実俳句会

寒風や末の切っ先ゆるびなし 実を求めむとすれば意欲ぞ


 *末(すえ)、ゆるび(ゆるむの意。ゆるぶの連用形)、実(み)

 ‥ここで「木枯」止まりとは、勿体ない。
 状況を鑑みても、いつ頃の木枯しなのかが曖昧です。
 そう思わせてしまうのが、「ゆるびなし」なのです。
 だって木枯しって、一過性の風に対しての呼び名でしょ。それが止む気配が無いなんてありえません。

 枯れた後の枝先が、海に向かって突き出ているだけで十分と思い込んだのが敗着です。


> 季語が主役なんですから、季語を中心に、まずは十七音が統べられてしまうのです。
> ‥俳句とは、常にそういうもので、季語以外の言葉(脇役)がでしゃばっては宜しくありません。
> ‥情景を支配してしまう強い文言が後に来ようなら、尚のこと全体のバランスに気を配りましょう。




|立ち位置をしかと持ちたる冬木立      藤枝市・桑の実俳句会

|立ち位置をしかと持ちたる冬木立 ここぞ踏ん張れエッジの見せ時


 ‥是はなかなか面白い見方です。云われてみれば確かにそうです。

 冬という耐え凌ぎの時節だからこそ尚更に足下を確かにすべきです。
 でないと冬を越すことがまず適いません。そこに暮らしの安定が身につくかどうかです。



1-7)7

|先ず安全返納決める老免許         静岡県・たかね川柳会

|腹括れ先ずは減速足離せ ブレーキ捨ててハンドル回せ


 ‥ネタの句は、まぁまぁ整っている方です。(でも川柳としての捻りは無い)
 いろいろとこの手の句材での詠みが出て来ておりますな。


 ‥踏み間違えの事故が、多発しているというのに
 自動車業界の動きがまるで感じられません。傲慢にも程があるでしょう。
 すでに斜陽の空気が漂っているのであれば、正すかどうかの姿勢が問われているのは当然です。

 ‥されど、何の音沙汰もなしと
 まさに「死に方用意」とばかりに据えおいているかのようです。


> これはこれで、自動車業界ぐるみで
> 酒気帯び運転の上を行く‥殺人幇助罪に問われてもおかしくない!


 まさに、ブレーキが掛けられない程のサプライ・チェーン‥
 ブレーキの踏み間違えの如しです。(これもまた鏡似性の現れと云うことなんでしょうな)

 ‥であれば、ハンドルを回すべきでしょう。(舵を切る)
 アクセル&ブレーキからまずは足を離しなさい。そして、ハンドルを切りなさい。
 (なるほど、自動車業界へのツッコミでした)




|炬燵から景色楽しむカレンダー       静岡県・たかね川柳会

|出たくねぇ茶番だろうと炬燵から 世間を出汁に屁ぞニオイたり


 ‥ネタを見ていてツッコみたくなるのは
 「テレビでもネットでも意味は同じ」との視点です。
 カレンダーながらの何かが不足しているのです。
 そもそもどうして、カレンダーに注目することになったのか‥そこの振りが欠かせません。

 ‥そこはさておき、お陰で面白いのが詠めました。


> どうせ裏で誰かが牛耳ってて、それこそどいつもこいつも炬燵からでたくねぇツラばかりだよ
> だからだろう、ニュースの話のどれもくたびれて見えてしまうのだ
> まさに、世間を出汁にめしを食ってたれる屁のようだ
 


> うた詠み終わります、ありがとうございました。
posted by 木田舎滝ゆる里 at 20:08 | Comment(0) | 名句にポン/2017前半 | 更新情報をチェックする
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