2017年03月12日

【勝手句帳】086 29-3-3/3-4/3-7 静岡新聞掲載分から

↓6)向宜詠吟.2017/03/12

小さき風に濯ぎものゆったり揺れている隣りの白壁に溶け入るように  藤枝市・合歓短歌会(3-4)


 ‥ネタの句は実に面白い着眼です。
 でも、もったいない‥平凡に詠んでしまっています。

 ということで、詠みの印象は

 「春すぎて夏来にけらし白妙の衣ほすてふ天の香具山」‥持統天皇
 ですので、同じように枕詞を盛って、なぞらえてみましょう。


> ここで、面白きは、白物が二点あることです。
> 枕詞が句の中で二箇所に掛かるなんて見ませんからね。使わないという手はありません。


 *白妙の(しろたえの)‥枕詞の一つ。
 (ここでは、白を意味する「小さき洗濯」と「隣の壁」に掛かる)


白妙の小さき洗濯そよぐ春 隣の壁に透け入るよう



 ‥お気に入りの白のスケスケパンティーを、存分に春の日差しに干していると
 ‥隣の白壁に透け入るように、うまい具合に風がそよいでいましたよ



1-6)1

|弾き初めの琴音を孫は喜びて        沼津市・七草はいかい倶楽部(3-3)

|琴弾く慣らふ淑気に孫とあり これもゑにしと有り難きかな


*弾く(はじく、ひく)、慣らう(ならう)

 ‥いやぁまぁ格差社会の象徴みたいな、えらい雰囲気のある正月ですな。
 でもまぁそこを野次っても始まりませんので、その場の空気とやらにしっかり染まって読みましょう。


> というところで


 季語が弱いでーす。「弾き初め」を季語として盛っているようですが
 お孫さんの手習い始めにも見えてきます。

 琴を弾くのは、まずは詠み手自身なんっすから、そこをキッチリ形にすべきです。

 主役を「孫」と据えてしまった時点で、すでに、掴みの印象が「琴の音」から外れてしまっています。
 ‥それとも、孫の方が腕前が達者とか??
 ‥いやいや正月らしさはそこには無いはずです。

 正月を詠もうってんですから、あらたまった視点が欠かせません。
 「孫が喜びて」なんて、そこに、わざわざ正月の句として盛る視点が意図不明です。
 ‥せいぜい初孫、若しくは、その子が産まれて次の年度の初正月ぐらいかと


> 大体ですな、琴を弾ける正月‥斯様な環境のそれに、もっとヱニシを感じても良いはずです。
> どうにも上から目線と、其は当たり前みたいなところが、「孫が喜びて」っすから。


 ‥まぁそう考えますと
 淑気(しゅくき)なんて難しき言葉が、正月の季語に収まっちまってる文化ってのには
 ほとほと敬服・感服恐れ入るとしか申し上げられませんな。


 (おっと‥すっかりなじっちまってるぜ、これは失敬)




|ちらちらと青葉舞ふごと木から木へ目白が移る弥生の朝        掛川市・葛の会(3-4)
|ちらちらと青葉舞ふごと木から木へ目白移る花の見頃と       手直し



 ‥着目は面白いのですが、このような状況で「弥生の朝」と括られてもですな
 「目白」をカレンダー代わりにしか添えていないような扱いが随分と詩情を削っちまっております。

 つまり、余計な語句を放り込んじまってるわけですな。


> ということで、取りあえずそこだけ手直ししてみました


 * 「目白な移る」‥目白が居るなぁ。

 ここでの「な」は詠嘆です。
 ‥1〜3音の体言に「な」と添えるだけで、柔らかめに強調できることを発見しました。
 ‥今回は、この用法がいくつか出てきます。(無論、著生の詠みにですが)

 ‥短めの体言に「な」と詠嘆しても
 ‥句切れに思えず&感動詞風に味わえてしまえるのが不思議なところです。
 ‥ところが、音数が多くなるにしたがって
 ‥「や」で句切る方が丁寧な感じに思えるのがこれまた不思議なところです。


|ちらちらと目白のうつるその爛漫 花から花へ誰も往き交う
 

> 春爛漫と満開の苑内を歩いていると、あちらこちらで目白が見かけられる
> 目白の花から花へと移り渡る様子は春の光景の一つだが、それは人だって同じことだなぁ


 ちなみに、目白の季語解釈に「夏」とあるようですがそれはどうしてなんでしょうかね??

 ‥昔と生態が違うのか??
 そりゃ、昔と違うと云ったら、植えられている花木の本数の多さだろう。
 江戸時代の人の好みと違って、現代は偏っているからな。

 昔は、春先に花を楽しむより、生活の必要と薬用が優先だったので

 夏頃に花または実を付ける種が多く、それで、目白が付近から集まってくる様子が観察されていた。
 ‥なーんて想定されますが、どうなんでしょうかね??



1-6)2

|神ってるバットが描くホームラン      静岡市・しみず川柳かすが(3-3)

|神ってるバットが描くホームラン 巨人か西武か阪神か


 ‥それにしても、日常会話のようなネタの詠みです。
 まぁ整っていると云えば、申し分なく整っています。


> 平成の野球界なんて何も知りませんので、ここは昭和の印象を引っ張ってみました。


 伝説時代の巨人といえば、王・長島その他色々
 伝説時代の西武と云えば、清原・秋山その他色々
 伝説時代の阪神と云えば、バース・掛布その他色々


|「神ってる‥??」格差の下を好むよう 違和感だらけだ平成新語


 その当時の隆盛を昭和の人間は
 「神ってる」なんて、わざわざ庶民を下に見る言葉遣いをしなかったのです。

 そりゃ、球団ごとにスター選手は居るにせよ、
 庶民もファンもそのスター選手だけを目的に試合を見ていたわけじゃない。

 ‥その当時の日本は、民主社会という空気を味わおうとのんびりだったのでーす。

 それがどうにも、変わったかのような空気に染まったのも
 大リーガーに行くのがトレンドなどと、選手のわがままが通る時代になったからでしょうな。


> 昭和の野球界のような雰囲気は、日本独特だったと云う事です


 そこに有ったのは述べるまでも無く、球界側のご都合と庶民の柔順さです。
 ‥それが良かったかどうかなど、まったく以て判断しかねますけどね。




運命という風雪が顔を彫る         袋井市・袋井川柳吟社 麦(3-7)


 ‥「風雪が顔を彫る」着目はまぁシンプルです。
 とはいえ、それは運命でも宿命でもありません。普通の事です。


> もう一度言いますよ、風雪が来るのも乗り越えるべきも日常です。


 自分のしたいことが見つかるまでを「風雪」と見る向きもあると思いますが
 見つかった後だって、さほど変わりません。

 なぜなら、「風雪」こそがその辺に転がっているからです。

 ‥私たち人類はその点において事欠かない連中ですから。
 それを運命とは申しません。カルマとした見方になるように思います。
 (それでなくても四季の変化は、容赦なく訪れるのです)


> さて


 人類の程度がどれ程にあろうとも
 ある程度の節目を繰り返せば、嫌でも顔つきが変わろうというものです。

 それの如何なるを春とするかでもありますが、

 眼光が鋭くなれば良いという事でもないと思います。
 ‥そこをどう表現するのか‥


|風雪に顔を彫られて春来たる 瞳語る向き合う暮らし


 ‥物事というものは、如何様に才能があろうともなかろうとも
 ‥歩いてきた過程、心の持ちようという奴を顔に刻み込むものだよ
 ‥そこに刻まれるべき表情には、暮らしとの向き合いを瞳に刻むようであるのが望ましい
 ‥頭でっかちやら世間知らずでは駄目と言うことだ
 ‥そんな瞳に何が宿ると云うのだろうか?
 ‥それにしたって苦労しすぎて、無駄に眼光鋭きよりは
 ‥多少呑気なところを残して、笑ってある方が
 ‥風雪を乗り越えて春があるとした顔立ちだろうよ


> ああ、なんて長い注釈だい‥それで以て、述べられていない言葉がたんとある‥
> こうなってしまうのも、「瞳な」と盛った表現の意図する幅が広いからです。


 「瞳な」と「な」を放り込むだけで、その表情にほがらかさが加わります。
 ‥如何にも愛想良く笑っている印象です。




|飄々とおしめりを待つ枯芒         静岡市・「宇宙」実桜俳句会(3-3)

|飄々とおしめりを待つ枯芒 ツキを変えたくドラ・リーチのみ


 ‥「芒」ときたら麻雀詠みです。
 マンガ「アカギ 〜闇に降り立った天才〜」
 主人公「赤木しげる」の白髪、髪のなびき具合、生き様は、まさに「芒」そのものかと思いまーす。

 まぁそんなこんなで

 それな具合に麻雀詠みに引っ張るに丁度良いネタの句を見つけたと云う事です。
 ‥それにしても「おしめり待ち」ですか、まぁ人生なんざその多くがおしめり待ちっすけどね
 ‥でもまぁ狙って行かないのでは、おしめりにありつけないのが本質です。


> 狙わずともありつけているとすれば、それは運でも才覚でも無くヱニシかと。


 ‥生まれ来る以前の段階で、都合を付けてきたということです(目的意識&存在性の自覚)
 ‥まぁざっくり云えば、こちらこそが運命・宿命です。容姿・いでたち・家柄・環境セットです
 ‥自分を嫌うと云う事は、ヱニシを拒絶しちまっていると云う事で、ナンジャラホイ状態です
 ‥まぁ自分にようやく納得できても、次に立ちはだかってるのが環境の是非なんですけどね(使命)
 ‥そこにあるのが何かと言えば、カルマとのヱニシっすかね(課題性)

 (嫌ってばかりでは前に進まないと、だからといって、即決できないのがカルマとの対峙です)
 (なにしろ全体で連動しちまってる要素の方がデカいっすから)



1-6)3

|田起こしをのんびり牛に引かせゐし昭和たちくる墓参への道      掛川市・葛の会(3-4)
墓参り思い起こせよ田起こしとのんびり牛に引かせており見る     想定手直し



 ‥う〜ん、まったく以て、上の句と下の句とのかみ合いがよく分かりません。

 「昭和たち」‥昭和のような光景な奴らという事でしょうか??
 それがやって来るという事ですよね???

 ‥まるで、亡くなった方が
 自分の墓で、昔なじみの顔が来るのを待っているかのような印象です。
 しかも若りし頃の風景だった牛との暮らしがセットらしい‥

 でも、まぁ、そんな詠み方は有り得ませんので
 墓参りに行く途中で、昔ながらの田起こしの光景を見たとかその辺りでしょうか‥

 ‥見たままに、そこに「墓参り」の言葉を盛る意図が不明です。
 そこを強調したいのなら、墓参りを先に盛ってくる順序の方が適切です。


> ということで、田起こし 牛で画像検索


 

 

 ‥まぁなかなか牛さんも
 労働するのがしんどいのか、少し進んじゃ「モ〜たくさん」と言いたげです。

 なんだか、牛も平成してるんでしょうかね??

 そこの違いを推し量れないのが、残念な時代差ですが
 家の中(土間)で、養って貰っていたのが昔ですから、
 ‥そことの親近感の差と言うのは、やはり出るんじゃないでしょうかね。

 犬にしたって猫にしたって、その辺の違いは大いにあるように思われます。

 だってあれでしょ、さらに、夜なべで家族が草履やら編んでる姿を目の当たりにするんでしょ。
 牛だってその姿を見れば、おらも頑張るべという気持ちにだってなるわけでして
 それが生きものとの交流という事だと思います。


> ‥それが概ね昔の日本での牛との付き合いだったのに‥
> 今じゃすっかり、どこもかしこも、肉の塊の如しの扱いっすからね


|田起こしやのんびり牛べえ勇む春 今肉の畑に封じられ


 *肉の畑(にくのはた)、封じる(ふうじる)

 ‥ここでも詠嘆の「な」を感動詞風に盛り込んでおります。
 ここでの「今な」は、(今じゃすっかり)ぐらいの意です。




|鍋囲む湯気の向こうにある笑顔       袋井市・袋井川柳吟社 麦(3-7)

|湯気囲む寒がっつく居間に笑み くつろぐわが家と思うひととき


 ‥言いたいことは十分に判りはしますが、風呂とは違います
 湯気の向こうとの表記に従えば、両サイドに人が居ない前提ということに成ってきます。

 「新婚ですか?、それの老後ですか?」

 ‥川柳の詠みですから、そこまで盛る必要もありませんが
 でもまぁ、どこか生活感に欠くのです。


> それこそが「きれいすぎてリアルに思えない」ということです。


 川柳がなぜ川柳かというと、その辺の汚れ感を笑い飛ばす点にあるわけです。
 ‥笑うにしたってね、色々と季節感があるわけです‥

 ということで

 ここでは「寒な(かんな)」と詠嘆の「な」を盛ってみました。
 (寒いからねぇ、しばれるからね)ぐらいの意になります。
 ‥もちろん、季語としても機能させておりまーす。


> 同じくきれいに整えるにしても、見ている角度が違うのです。
> そこの差に気がつくか気がつかないかが、生活感を得るか得ないかの差と言うことです。


 ‥具体的には、「くつろぐわが家」の裏側が意図されています。
 そこでの苦労もあるからこそ「がっつく」と‥(+七七はそこをどう整えるかでした)



1-6)4

|春の雲ビルのガラスの捕へけり       掛川市・鴟尾の会(3-3)


 ‥これは要するに
 「春の雲がビルのガラスに映っていました」‥ということになりますが

・部屋側から見ているのか?
・外からの眺めとして風景が反射していたのか?

 そこの違いがハッキリしてこない点が、どうにももどかしいのです。


|春の雲超高層にうすら嗤い ガラスにはえど届くまじ


 ‥あーあ、下から見上げて超高層に映し出される春の雲って
 ‥どうにも、格差社会の上からのうすら嗤いのようにも見えてくるよなぁ
 ‥でもまぁ、外面のガラス壁に映し出す程度の繁栄は見せているにしても、
 ‥所詮、どこもかしこも、雲の上の心地にまで到達した感までには無いからね

 (仮に雲の上の心地にまで到達していたとしたら、その人たちはどうして)
 (地球滅亡へのカウントダウンのお手伝いをしちゃってるのかな??)
 (そんな矛盾している僕たちを見て、雲の方がお腹を抱えて笑いこけているかのようでもあるよね)


|春霞ガラスを伝うビルメンテ 上から下にのんびりと往く


 ‥所詮庶民の暮らしという奴は
 ‥あののんびりとしたビルメンテの様にしか成り行かないのさ
 ‥そうやって眺めていると、ビルメンテの上から下に往く様は
 ‥まさに春霞のように、現れては消え消えては現れる春としての心意気だよ

 (どうしてみんなそんな風に思えないのかね?)


> 注釈と言うよりは‥詩だな是‥(まさに詩人自身による注釈)



1-6)5

|月冴ゆる海に横たふ佐渡ヶ島        静岡市・「宇宙」実桜俳句会(3-3)


 ‥はてさて、どこかで見たような
 まさにツッコんでくださいと言わんばかりだが‥

 勝手句帳の流れからすると、これの着目を、佐渡ヶ島の光景として詠むようでは考え所です。


|月冴ゆる海に道出で東伊豆 月のぼれ吾参じ得じ
|夕冴ゆる海に道出で西伊豆に 日しずみ吾参じ得じ


> 静岡県民としては、きっちり静岡に置き換えてこその着想の借り物(とっかかり)だったかと‥


 ‥ここでの「な」は、詠嘆の助詞ではありません。副詞です。
 しかも助詞「そ」とセットで用いるという古風な用法です。
 「な…そ」の形で禁止を表します。

 ここでの「そ」は、
 普通は連用形に引っ付きますが、サ変とカ変には未然形ということで注意が必要です。


> それにしても、この西と東の関係には
> 観光において、どうしても避けては通れない事情があるようです‥


 それはキンメの味が、圧倒的に東伊豆の方が美味という点です!
 ‥この違いは大きすぎる(名物がさほど無いからな)
 ‥ところが、夕陽と満月を比べりゃ、そりゃ夕陽が優勢に決まっている
 ‥これではどう見ても、東が損を見るのは火を見るより明らか

 (東が西の観光にキンメを供給すると、西伊豆のキンメは上手いなどと錯覚されること間違いなし!)
 (でも、互いに目をつぶれば、伊豆のキンメは上手いという事に繋がるけどな)
 (でも、鮮魚としては、西のキンメでは勝負できないし、そこをどうするんですかと!?)



1-6)6

|福は内己の中に鬼が棲む          静岡市・「宇宙」実桜俳句会(3-3)

|豆まきや鬼棲むよすが問いたれば「福」のイメージ「奪え従え」
|豆まきや福寄るよすが問いたれば「鬼」のイメージ「泣くな頑張れ」


 ‥そりゃ曖昧にも、心の中に福も棲んどりゃ鬼も棲んどるわけです。
 (曖昧の度合いこそ人それぞれでしょうけどね)

 そこの戸惑いを、誰にも分かりやすく掘り起こすには、五七五では無理です。

 ‥ということで、整理してみたのが、短歌の詠みになります。


> なかなかどうして、貧しさを鬼として、福を頼んだつもりが、実は鬼畜資本経済に変貌し
> 爺婆近所付き合いも乏しくなって、あれこれ口やかましくあった鬼こそが、実は福だったと‥


 ‥まぁ中には、度を超した鬼も福も存在するわけですが
 それにしても、お互いに勘違いに甚だしく、錯覚し合っているのが実際です。

 (日本の暮らしに渦巻く空気には嘘が雑じっている)

 ‥というか

 自分の好きが一番に正しいと思う事自体が、ある意味で偏見だし
 まずは、そこに気がつくかどうかでもあるようですな。



> うた詠みおわります、ありがとうございました。
posted by 木田舎滝ゆる里 at 23:58 | Comment(0) | 名句にポン/2017前半 | 更新情報をチェックする
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