↓6)改稿2017/04/10...20170408...
> 今や、宇宙全史の入門用語は「クズ」です。
> ‥「クズ」としての己を自覚することが大事!
> ‥そこからのスタートこそが本道!
さてさてさて、「クズ!!」‥どうにも引っかかるお言葉ですが
是をもう少しやんわりと職人風に語ると「未熟者」です。
「クズ」=「未熟者」=「教わる方が楽しい&うれしい」=「与えられた方が楽チン&有り難い」
‥おうおう、だいぶわかりやすくなりました。
たしかに、
未熟者としての自覚が足りていないと、どうにも精進は進みません。
まさに道理です。(職人云々にあれば、すんなり理解できるはずです)
1-6)1
> では、もう少し日常に置き換えてみましょう。
人生は、すべてにおいて教わる方が楽チンです。
でも、教わってばかりいても、どうにも物足りなくなるのが人間というモノです。
‥そこで
教わったことを自分なりに応用して楽しみたいと‥(まぁそうなりますよね)
中には、新しきを発見してみたいと勇み立つ者も居りますな。
勝手をしながら、それのドングリの背比べを始めるのも平凡な流れです。
そんな中で、頭一つ抜けてる奴に出くわすと目ん玉が飛びでます。
さらに、ずば抜けていると肝を潰します。
さらに、物腰静かなままに真摯であると腰を抜かします。
さらに、腰を抜かして小便チビっちまった床を、黙って掃除して頂こうモノなら頭が上がりません
‥着替えまで用意されちゃ、もうペコペコです。
1-6)2
> 身の回りにあるモノすべてが導き手なのです。
児童・生徒・学生から学ぶ姿勢のある先生こそが、実は優秀な教師たりえます。
お客様の声を聞いて、そこを何とか適うように精進する商人は優秀たりえます。
役人にしても同じことです。自分の足でもって世の中を見ているかどうかです。
身の回りにあるモノすべてが導き手と思えばこそ、その公平さに等しく導かれるのです。
そこに自惚れなどありようもございません、精進があるばかりです。
この世のありとあらゆる事が学びの対象、すべてが先生なのです。
無論、人にはそれぞれの向き不向きがございます。
‥すべてを均等に学び尽くすには無理がございます。
> はてさて、それがゆえに、相対的に先生たり得るという次第でもあるわけですな。
‥ところがどうでしょう
お互いに盲目同士でもありますからね。それがゆえに、どうにもよくわからずと‥
罵り合っちまうんですな。で、力比べをしてからでないと納得できないとばかりです。
まさに「クズ」の発想です。
> ‥どうしてそうなんでしょうな?
> ‥だからこそ「クズ」であるというお互いの自覚が求められるのです。
「そうです!」
そう思えばこそ、誰しもは一歩下がって手を取り合おうとし始めるのです。
‥でも、まだまだ根っこは「クズ」ですからな
いつでも食ってかかろうとの揚げ足取りに夢中です。
‥もう一度言います。根っからの「クズ」ですから。
1-6)3
> まぁそんな「クズ」を見て学ぶこともあるわけですが、程度が幼すぎても前に進めません。
‥そこで効率的に、同じ程度・性質の者同士でとくに惹かれ合うという仕組みになっていると
誰がこのような仕組みを整えたというのでしょう?‥「まさに神!」
‥否、そうではありません
> 完璧な思考なんて存在しないのです。そこにこそ「公平」が宿っています。
なぜなら、「すべてから同じく学び得ない」=「退屈で死にたくなる」
(頑固に自信がおありなら、心当たりが有るんじゃないでしょうかね)
‥自分が頂点と思って、そこに胡坐を掻けば、それ以上を学び得ないのです
‥学び得ない窮屈、プレッシャー、ストレス、焦り
‥そんなもの、素直に「未熟」を自覚すれば善いだけです
‥言っときますが、自分が馬鹿の頂点と思い込んでいるのも同じことですから
すべての物事は、お互いを尊重してこそ公平に近づくのです。
その公平に近づかむ精神を宿しているかどうかを考えれば、完璧な思考などございません。
もう一度言いますよ、完璧な思考などございません。
‥そこの自覚こそ、汝の「未熟」の理解ということです。
「完璧を理解できるかどうかは完璧のみ」
「未熟は誰にでも理解でき得ます」
‥そう思えば、原尊の神とて存在しないのです(不公平の神など無駄!)
‥居得たとしても、見ることも感じることもできないのです
‥むしろ、向こうから顔を出すことも無いはずです
(私という心を晒し見せてみようとしたところで、私なる気持ち&作用は、私にしかわかりません)
(否否、自分でさえどこまで自覚できているかです)
(それはつまり、原尊の神が居得たとしても、極まった汝の姿を晒せないのと同じです)
(ほんのちょっぴり垣間見られたら、良い方で、それも自分でわかればの程度です)
(逆を言えば、まだまだとして、こころざし続けることすらも他人からすれば同様にあります)
(つまり、神技と言われようと奇蹟と言われようと、得意があるだけです。特異かも知れません)
(判断できもしないくせに、周りがその気になって囃し立てているだけです)
‥そこをその気にさせるような猛烈、させてしまう猛烈
‥それらの在り方が出すぎた行為だって見方は、普通にあるわけです
‥原尊の神がそこに出でたるような様からしてそんな印象でしょう
‥クズから這い出ようと必死のところにしゃしゃり出るなど、失礼千萬です
‥それこそ自惚れです。自覚無き者の口が語らんばかりでしょう
> まぁそれでも、向こう側も、人間(クズ)として付き合うというのなら話は別ですけどね。
1-6)4
あの世の存在とて、人を相手に語り出せばどことなく人間臭さを垣間見せ始めます。
人間の言語を用いるとなれば尚のことです。
言語という同じ条件・同じ土俵で語るわけですから、斯様に見えても不思議はありません。
> そこをどう見ているかです‥
‥あの世の存在が、人間を相手に人類程度に話す。それの如何に骨の折れること‥
何を目的に「語ってやろうと思っているか?」‥です
‥ただの話として受けとめているのはこちら側
‥そうでなく、目的を持って話しかけるのがあちら側
(その目的が、どれほどに達したかでもあります)
(まさに真理を識る側の語らんとして、「ボケ」の学び所という事にも成ってきます)
(向こうの目的とした塩梅があるということです)
‥聞くだけの側としては、そんなの知ったこっちゃありませんからね
そんなだから、こちらに対して、骨が折れるのなんて、俄然、想定内でしょう。
人間同士なら尚のことです。
‥それが未熟者らと向き合う世界と言うことです。
‥未熟者同士で向き合う世界と言うことです。
おっと間違えました。「すべて未熟者らとした見方の公平観」と言うことです。
1-6)5
「光」という表現で、ふるい分けをしようとするとどうしても語弊が出てきます。
「影」とか「闇」とか‥(もう面倒くさいわけですな)
> それこそ、すこしでも「上」の扱いが望ましいと言い始めるのが相場です。
‥なら一層‥「下」の表現を公平に盛ればヨシと。(逆の発想です)
確かに、ナイスアイデアと言えばそうですが、語弊の大盛りでーす!
でも、目的とする意味としての公平には適ってます。
お互いに学び合う間柄であるがゆえに、お互いを未熟者として捉え
強いては、「クズ」というふるい分けで、横並びにて収まるからです。
まぁ、それでも、「クズ」の度合いが違うとしているわけです。
でも、「クズ」には変わりないという折り合いです。
そして、「クズ」から抜け出そうとの折り合いです。
1-6)6
『地球科学はクズの山』
どんなに頑張っても「クズ」
どんなに頑張っても「未熟」
だって楽チンが好いとして、飽きもせず懸命なんだもん
科学にしたって、楽チンしか目指してないしね
何が好くて、楽チンだけがピックアップされるんだろうね?
そこにあるのは、どう考えたって不公平なだけさ
置いてきぼりを食らってるクズの身になって考えることができないクズだってこと
だって、科学なんてまるでちんぷんかんぷんだし
装置を正確に扱えなかったら、ただのゴミだからね
それでもって、あいつらったら、散らかしっぱなしなんだぜ
こっちからしたら、ただの粗大ゴミなだけなのに‥お宝とか言ってるし
冗談じゃないよまったく
「この鉄屑が!!!」
「この核ゴミが!!!」
「この宇宙ゴミが!!!」