2017年04月26日

【勝手句帳】098 29-4-21 其の1静岡新聞掲載分から

↓4)向宜詠吟.2017/04/26

のままで逝ったもあった空と海     掛川市・主流掛川句会

|あののままで散りし里 あの空あの海あの人ら


 ‥ネタの着目が、素直だな
 と言うことで、オッサンも詠んでみたっす。


> 311から、時間が経過してから詠むとこんな感じと‥


 ちなみに、「木の芽」は春の季語っすが、「蕾(花芽)」は季語じゃねぇっす。
 落葉樹を考えれば分かることっすが、
 葉が落ちるのは秋と決まっているので、芽が出るのは春と動きません。
 つまり木の芽は、「花芽」ではなく、「葉芽」が前提と‥

 「あれ☆」

 木の芽は、「葉芽」前提????

 (やべぇ認識不足だった、どうも申し訳ありませんでした‥m(_ _)m)

 ‥で、花は
 概ね、春・夏・秋と種ごとに異なるので、
 その蕾やらは、季語には成り得ず、「○○の蕾」と盛る必要があると‥


> しかしだな


 梅に桜あたりの木の芽と言ったら、「花芽」前提だぜ、おい。
 花咲いた状態のどこに、「葉芽」が目立ってお目見えしてるってんだよ!?

 「おい、ふざけんなよッ」

 梅やら桜やらの「木の芽」と言ったら、「蕾」前提じゃねぇか!!!
 「花」は、「桜」ないし「梅」前提なんだから、「蕾」もそうしとけや!

 ‥それの葉芽について、誰が好んで詠んだってんだイッ!!!


 「責任者、出て来いや!!」




|思いやる心はいつも胸の奥         富士宮市・川柳芙蓉句会
|思いやる心はいつもサングラス       ‥同意置き換え‥


|思いやる心はいつも目の表 安全確認 前後左右


 ‥「胸の奥」って表現は、仕舞っとけって意味ですからね
 「思いやる気持ち」を、いつも仕舞っといて、どうしようってんでしょうかね??


> 全く以て、目に鱗が付いとりますな(喝ッ)


 ‥いいですか
 「いつも心に太陽を」なんて言葉がありますが

 

 それは、心に思い抱くという意味です。
 いつもその思いで心を満たしておきませうと言っとるわけです。

 でも、ネタのそれは明らかにニュアンスが違うでしょッ

 ‥まぁしかし

 そういう勘違いをされとる方は、一人や二人ではないと‥
 「うほ☆」‥こげな所で、気持ちの表現の云々につまずいちまってるなんて
 十分な言語感覚の習得が欠かせませんな。(頑張ってくだされ)


> ちなみに、この手の表現をべたに盛ろうとしても、墓穴を掘りやすいので
> 何らかの生活習慣に置き換えてやると、比較的すんなり‥言葉の綾の差が分かるように思われます。



1-4)1

|一人づつ最後の名前卒業す         牧之原市・静岡白魚火会

|一人づつ最後に名前 卒業授与 児童の記憶に奥深く


 ‥「卒業す」なんて中途では、意味が不明です


> 「卒業授与」もしくは「卒業証書」まで、きっちり盛るべきです。
> そうでなくては、言葉がかわいそうというものです。


 それにしても、授与事をあんだけ散々練習するのって小学校だけっすからね。
 今から考えると、その手の作法を教えていた次第だったと。

 ‥反抗期の年齢に至っては、その手の作法事なんてやる気になんてならないからな
 ‥義務教育六年あたりで、学区に境を切ってあるってのは
 ‥なかなかどうして、「物事が見え始めた頃合いの年齢」&「なんでもよく学ぶ年齢」
 ‥という所の辻褄なんでしょうな


 (俺的には、心の奥でマジどうでも良いと思ってたけどな)
 (でも、その頃は、まだまだその感情が、表には出てこない「お人よし」だったっス)




|流木の拗ねたる貌や風光る         静岡市・のぼる俳句会

|流木の拗ねたる貌に春の月 待機児童に悩みは尽きず


 ‥どうしてそこに「風光る」を盛るのかが、まったく以て分かりません

 (そもそも「拗ねる」は、輝く意味で使わねぇだろうがッ)


> ‥どうにも、このネタの詠みでは
> 「あいつら流木、ぼっくん我が世の春の生き木です」って自慢しちまってる詠みっす‥


 ‥もう少しやんわりと
 「春の月」あたりで、二極性の解釈が利くように盛ってだな、
 誤解の及ばぬように、整えるべきだろうね。


> 春の月が、流木たるこちら側に光を投げかけて慰めようとでもしているのでしょうけれど
> どうにも、月に向かって文句を垂れても仕方のないことですが
> うちの子が待機児童のままというのは、どうにも悩みの尽きない事なのです
> 希望の叶ったお宅を見ていると、ほんと腹の中が煮えくり‥妬ましい限りです(チクショウ!)



1-4)2

春光の山並み幾重にも淡し         牧之原市・静岡白魚火会

|山並の青に重なる春霞 見るたび愛し日本の夜明け


 ‥ネタの着目はいわゆるアレですが
 アレと分かる分には、その景色が思い浮かびはしても、どうにも「春光」では変です。

 「春光」っていったらさぁん、昼時だよん。

 どうみたってさ、「淡し」ったら、「朝」っしょ。
 写真家目線で見ても、その手の景観なら、圧倒的に「朝狙い」だと思いまーす。
 ‥手直し引っぱりでは、景気良く、「日本の夜明け」にしておきましたん。


> この辺の感性が鈍いようでは、その先、かなり険しき「峠」と言うことです。
> まぁじっくり、その峠から、大人物らしき山並みを堪能されるがよろしいかと‥


 (ジャパン・ブルーと言えば、藍染めのことだが)
 (俯瞰してみると、日本の夜明けの山並みの色合いでもあったと‥)なるほど!!




|畦塗って棚田の景の詳らか         牧之原市・静岡白魚火会

|畦塗らむ棚田のあちこち春の唄 出だしノリノリ暮れぞくたくた


 


 *畦(あぜ)‥田と田の間に土を盛り上げたしきり。
 *詳らか(つまびらか)‥くわしく明らかなさま。こまかい点まではっきりしているさま。

 ‥どうしてネタのそこに
 「詳らか」が盛られたのかが、サッパリ分かりません


> ‥自分の住んでいる周りの田んぼで、「畦」作業しているのを見たことがありません。
> というか、畦作業は骨が折れるので、いろいろと簡略化が考案されています。


 ‥畦を設けることで
 水温が調節されたり、風からの影響を和らげたりとした効果があるとのことで、
 畦にこだわった米作りは、そこからして意気込みに差があるように感じられますが
 気候風土によっても、その畦への注目度も異なるようです。


 


 ‥ちなみに(095 田返しの句の考察)
 畦を作るとなると、ある程度水を張ってから行うのが前提だから
 そういう土壌では、田返しの段階で、程度水が湧いても不思議はないのかなと???
 それとも、田返しの段階で、水を張っちまうんでしょうかね???
 (そこまでは、気がつきませんでした)



1-4)3

歩むところ自づと道をなし        牧之原市・静岡白魚火会

|清らかの底を這いずる蜷のあと 田舎暮らしの自足ぞ水から


 *(にな)‥たけのこ状をした、淡水産の巻貝。かわにな。「みな」とも。(春)
 *蜷の道‥蜷の通った後の道すじ。(春)


 ‥「蜷」なんてよう知らんので、俳句例をチェックしてみると
 ネタと似たような視点ばっかりで、他に見方がねぇのかよと思っちまいました。

 大体だな、

 その貝の這いずったあとがよう見えてるって所に、もっとツッコンで着目すべきだろう。
 濁ってたら見えねぇんだからさ。まったくもって盆暗でーす。


> 手直しは、そこをツッコンだ詠みになっとります。


 ‥水から(自ら)ということです。




|春耕の土の匂いが二階まで         静岡市・のぼる俳句会
|耕せり春の光を解しつつ          牧之原市・静岡白魚火会

|耕さむ春の光をほぐしつつ 土の匂いにまじる吾ありき


 *解す(ほぐす)


 ‥「土の匂い」の句の着目に、えらく感嘆しちまいました

 だってね、耕耘機使うじゃん、排気ガス臭うじゃん、
 だからさ、音が聞こえると、即、窓を閉めるっすからね。(土埃も入ってくるし‥)

 ‥土の匂いなんて、考えてみたこともねぇ!

 (と言うところに気がつかされました)


> 勿体ないので、折角なので、「解しつつ」の句と合体させてみました。


 ‥「耕せり」と「耕さむ」の違いとは

 「耕せり」は、「ようやく畑仕事がしやすい時節になった」‥てな趣です。
 「耕さむ」は、「今日もちょっくら頑張るか」‥てな趣です。

 「春の光をほぐしつつ」がまた絶妙の言い回しでして

 ‥まだ肌寒い時分でもある春の午前を、よく表現できています。(脱帽でーす)


> 「吾ありき」とわざわざ字余りにしたのは、


 ‥「吾あり」で括っては
 仕事しながら思っているのか、終わってからそう思ったのかがハッキリしてきません。

 そこを考えると、「ありき」とした方が、
 休憩時もしくは飯時などに、土の匂いを嗅ぎながら、ふとそう思った様になりえ
 上の句は仕事始めに思い浮かび、下の句はあとで整った風に見えてきます。

 その時間差を設けることで、如何にも、のんびりとした野良仕事の風景に見えてくるわけです。



1-4)4

|気ばかりが急いて片付け捗らず       富士宮市・川柳芙蓉句会

|眺めてはファイルの多さ手は止まり ネーミングからして悩み出す


 ‥地味な着目ですが、工夫すべき余地は永久的な着目です。
 ということで、ファイル管理に置き換えて詠んでみました。


> とにかく、OS上にあるファイル管理の何が面倒くさいのかというと
> 名前のコピペだったり、名前の変更です。


 一度に大量のファイルの名前変更ともなると、その手のツールを用いればどうにか済みますが
 ある程度小規模なら、その都度一つずつ弄るわけであり、
 それの使い勝手が非常に面倒くさい‥

 どうして名前を、フォルダー名・ファイル名変更のその狭い欄で、打たにゃならんのだ!?


> 一つあたりのファイル名の収得にしたって


 右クリックのメニューに「このファイル(フォルダー)の名前の収得」があれば済むことで
 その名前をクリップボードに移せば良いだけで
 それができれば、その反対だって有りってもんですが‥

 (なぜ、OS開発スタッフは、誰も考えないんだ??)

 ‥ファイル名の変更を
 その場その場でパッパと思い浮かぶ程、開発者の連中は発想力が豊かとでも言うのか?

 (打ち込むのは速いとは思うけど)

 俺から言わせるとだな、言語的にそこまで達者な奴は、そんなに居ねぇと思うんだけどね。
 パスワードがそうだよ、世界中でワンパターン傾向が見られるのがそもそもの良い証拠だよ。
 そこを工夫しないのでは、作業効率だって上がるわけがない。

 (名称をどうするのかってのが、一番にしんどい作業なんだし)

 とくに、ネットから拾ってきた画像の管理をするのに
 ページのその辺にある文字を拾ってきて、そのままコピペして済ましたいわけで
 いちいち、ちょい拾いした画像に、名前を打ち直したい奴なんていねぇだろうし
 そこを考えれば、クリップボード経由の貼り付けができてなんぼだと思う。

 もっと言うと、名称を打ち込む代わりに、単純に日付ボタンがあったって良いだろうさ‥
 ‥日付がプロパティに刻まれるとはいえ、日付はその都度更新されちまうわけだし

 (まじ、どうにかして貰いたいのですが‥)




|やじろべいみたいな心持て余す       富士宮市・川柳芙蓉句会

|やじろべえ忙しかりなら止まりんしゃい それが汝となぜ問えね


 *忙しい(せわしい・いそがしい)
 *しかり(シク活用連用形)‥参考:せわしくあるなら→せわしかりなら(短縮形)


 ‥ネタの詠み方では、「持て余す」の前にあるだろう「を」を端折っただけで
 中身としては、どうにも平文にしか見えてきません。

 ‥川柳ってのは
 どこかとどこかを組み合わせて、野次るなり諭してやろうって次第なんで

 ‥やじろべいを見たままに
 こんな感じ、こんな気持ちとして、そらんじただけでは平凡すぎるのです。
 (折角の着想が台無しになってしまっています)


> ‥悩むからこそ人間で
> 物事のバランスなり安定を推し量って考えるから知的生命体ということです。


 ‥なぜそれが悩ましいかというと
 振り子が揺れっぱなしのままでは、落ち着くところがないからです。

 (そこに着目が見えていれば、もう少し違ったでしょう)


 ‥一定の間隔で、一息つきたいのも、知的生命体の性ということになります。 
 で、そこに色合いなり傾向が見られれば、それこそが汝という事になるかと思います。

 物事には理想が有るわけでは無く、そこの感覚の度合いに、癖が見られるだけのことです。

 ‥癖たる角度から見れば
 その癖が、あらたまるステップの在り方もまた汝ということになりますが
 それこそ、意識せずして、意志なくして、その変化は発生し得ないのです。


> 裏を返せば、変化を捨てて落ち着くことを望んでも、事は足りると言うことです
> ‥何も目標の達成ばかりが、事の成長・進展というわけではありません


 ‥繰り返し述べれば
 周りの物事への関心が薄いと、目の付け所がマンネリのままなので
 動きっぱなしを好んで猛烈人間であろうと、世の中の変化に然したる差なんて無いという事です。

 猛烈人間であるのも、人それぞれの自覚の在り方だとは思いますが、
 猛烈人間である前に、生命体としての欲求には逆らえないということも合わせて理解すべきです。


 「どの振り子にしろ‥時には、止まるのが当然!、否‥休息ぐらいしっかり取るべき」


 ‥止まるからこそ公平は維持される‥
 ならば、止まること・休むことをおそれるとはなんぞや?

 つまり、その本質が、傲慢・強慾・不健全ということです。

 斯様な自分が好きなら、それが今現在の汝の選択肢(夢中)と言うことですが、
 斯様な自分に戸惑いを覚えるようなら、汝の選択肢としては、改善の時期を迎えているとなります。


 ‥振り子(やじろべえ)で言えば
 動かすべきか、止めるべきかの差にしかありませんけどね、
 人間ならば、他にもすべき事が色々と思い浮かんで然るべきと。(公平ゆえに)

 ‥集団での公平性の確保とも成れば尚更です。

 当然、どこかを止めるなり休ませないと、それは無理と言うことです。
 道理なんですな。理屈とか利権とか多数決とか、問答無用なのでーす。


> やじろべえらしげに、ちょっとばかり‥どうにか安定してるからってね‥


 そこに留まろうとしてる割合が大勢多数って事は、世の中の方から傾げるって事です。
 それで、ああせいこうせいと言い始めても、誰もたいして新風に動いてないもんだから
 次なる一歩(手段)が見えてこないという共有だけが、共振しちまうってことです。

 そりゃ、「長いものには巻かれろ」って話にもなりますな。


 ‥そんなの精精もって20年で、多くは10年で斜陽を迎えるのが現実です
 ‥そうだからこそ、そこのお互いの自身へのウソも含めて
 ‥社会全体で、世界全体で、今になってボロボロとはげ落ちてきていると



> うた詠み終わります、ありがとうございました。
posted by 木田舎滝ゆる里 at 21:49 | Comment(0) | 名句にポン/2017前半 | 更新情報をチェックする
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